あっち

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あっちとは、キリスト教世界における大魔王として、ヨーロッパの国々に深く浸透している存在である。そのため、キリスト教徒の間では、名前を出すにもはばかられる恐ろしき存在として神格化されている以上、この項目もキリスト教世界の伝統を踏まえ、正しい表記をあえて避ける。

概要[編集]

ローマ帝国終末期に、あっちとその部族はヨーロッパからはるか遠く、ロシア平原のさらに向こう、モンゴルとの国境付近からやってきたとされる。恐るべき軍団を引き連れて。彼らは、西へ西へと進む道すがら、数々の王国を滅ぼし、住民を虐殺。彼の軍団によって、ゲルマン民族大移動が起こったことは覆しがたい事実である。あっちは全盛期のローマ帝国に匹敵する大帝国を一代にて築き上げる途上でキリスト教圏の諸勢力と敵対することになり、そのすさまじき戦いぶりを見た人々は、彼を「神の災い」とまで称するようになる。

なお、あっちとは西欧での通名であり、現地での発音では「アキラ」であったとされる。

あっちの生涯[編集]

あっちは西暦406年、ちょうどローマ帝国が西と東に分裂した直後に生まれたとされている。当時、盛んにローマ帝国に侵攻していた部族の王の血縁(甥)であったとされる。その後、434年に王が死去した後、兄とともに部族の後継者として選ばれ、所領を半分ずつ分け合ったが、445年に兄を暗殺。単独の王となる。

ちなみに、知的であることに多くの人が疑いを持っているどこかのウェブ辞典では、2009年4月時点では、あっちの記事の中に「434年に先代の王が死んだ後、すぐさま兄弟を暗殺して単独の王となり、436年にブルグント王国に侵攻した」との虚偽の記述があったが、その後に本記事の指摘を受けて修正がなされている。

その後、あっちは453年に急死するまでの間、キリスト教世界を蹂躙し続け、その後、1500年以上たっても消えない悪名を残す。なお、彼の大帝国は彼が死んだ翌年、後継者争いによって崩壊している。

あっちの残した言葉[編集]

我は第一の投槍を投ずるであろう。我に続くことを拒むものはただ死あるのみ

あっちの所業[編集]

あっち以前の話[編集]

ローマ帝国末期、あっちの所属する部族とその軍勢は、キリスト教伝播地域への侵攻によって悪名を馳せていたゲルマン民族支配地域、現在のドイツやポーランドにロシア平原を突っ切って進出、ローマ帝国から蛮族として恐れられていたゲルマンの諸勢力をことごとく滅亡、もしくは撃退し続けたため、当初はキリスト教世界から東からやってきた神の救いであると思われていた。

何のことはない、その直後に、神の救いがゲルマン民族に代わって攻めてくるだけの話だが。

付け加えるなら、それまで征服意識というものが希薄だったゲルマン民族が、大挙してローマ帝国内に侵攻し始めたのも、あっちの部族が彼らの居住地域を蹂躙しまくったせいなのだが。ちなみに、そのおかげで395年のローマ帝国の東西分裂が引き起こされていたりもする。

また、あっちの先代の王が433年に西ローマ帝国から分捕ったパンノニア地方、現在のハンガリーを拠点に、東ローマ帝国に進出する。つまり、西は東を売ったということである。

あっちの所業[編集]

447年に、あっちのたび重なる侵攻に恐れをなした東ローマ帝国から、彼の元に多額の賠償金が送られると、もちろん、あっちはその軍勢を西ローマ帝国へと向ける。東は西を売った。しかし、結局のところ、あっちの強大な軍勢に対抗するためには、東西に分裂し双方で相手を売りあったはずのローマ帝国皇帝同士が再度手を握り合って彼に対抗しなければならなかったことは明白であり、それはすなわち、ようやく帝国の国教に成り上がったキリスト教が、まさに生きるか死ぬかといったギリギリの立場に立たされたことを意味していた。

カタラウヌムの戦い[編集]

451年、東西ローマ帝国の連合軍、および、あっちによって撃退されたゲルマン民族諸部族による連合軍は西ローマ帝国の領内で現在のフランスパリ近郊にあるカタラウヌムであっちと決戦を行い、大激戦の末、あっちの軍勢を撃退することに成功する。しかし、勝利した側も追撃を行えないほどのダメージを負っていたため、痛み分けであったとの解釈もある。それでも、それまで無敗だったあっちの軍勢を退けたことは大きく、この戦いはヨーロッパの古代史の中でも一つのターニングポイントとして記録されている。なお、この勝利のもっとも大きな要因が、幼少期にあっちの部族によって人質になっていた西ローマ帝国の将軍アエティウスの存在であった。彼によって、あっちの部族の騎馬戦術が解析され、見事に裏をかいたためであるといわれている。また、アエティウス自身、人質時代にあっちと親交があったと言われるほど、キリスト教圏外の知識と交流に深かった人物だったことも特筆すべき事柄である。もっとも、あっちの部族にキリスト教圏への侵攻拠点であるハンガリーを渡したのは、なのだけれど。

その後のあっち[編集]

カタラウヌムでの敗退の後、あっちは戦略を修正し、西ローマ帝国の中心であり、なおかつキリスト教の総本山でもあるローマを目指す。その途上、現在の北イタリアの各都市を占領し、再び西ローマ帝国から莫大な賠償金を得る事に成功するが、今回は軍勢を引き返すことなく、ローマへの進軍を続ける。ちなみに、水の都として有名なヴェネチアは、彼の軍勢から避難した人々が452年に湿地帯の中に町を作ったのが発端である。

この段階で、キリスト教徒が負ったトラウマがどれほどのものであるかは、想像に難くない。

しかし、軍勢に疫病が蔓延したため、あと少しでローマというところで撤退している。なお、キリスト教では、当時の教皇であるレオ1世による説得によって撤退したと伝えられている。

その翌年、自らの婚礼の席上で泥酔し、そのまま死亡。鼻血による窒息死とも、食道の静脈瘤破裂、脳溢血であったとも伝えられている。

なお、あっちの最大のライバルであったアエティウスは、彼の抜群の功績をねたんだ西ローマ帝国皇帝であったウァレンティニアヌス3世によってあっちの死亡からわずか1年あまりで暗殺されている。

レオ1世という男[編集]

突然のあっちの死に対して、もっとも美味い汁を吸ったのが、その後大教皇と呼ばれるようになるレオ1世であることは間違いない。彼はあっちの死に際して、様々な伝説、しかも相当にまことしやかな代物を流布することに成功。キリスト教の奇跡というものがあっちという外敵に対して見事に具現化、具象化した、という話をでっちあげたことにより、その後、あっちによって大きな被害を受けていた各民族に対するキリスト教の布教速度が加速度的に早まる。その結果、あっちの死からわずか28年後の481年、ついにゲルマンの一部族がカトリックに改宗。その後、フランスという国になる大本が出来上がっていく。はったりもここまでくると恐ろしい。ちなみに、その伝説というものが実にアレでアレな状況であり、曰く、あっちはローマ教皇の忠告を守らなかったために天罰が与えられただの、曰く、あっちの残された部下はローマ教皇の忠告を守って東へ帰っていっただの、世界史大好き人間にとっては、鼻で笑ってしまうようなそんな逸話が残されている。

それをあっちを恐れた連中はまるで信じ込んでしまったわけだが。

そのため、あっちという男の、わずか8年ばかりの行いは、様々な伝説やらなにやらを付与された形で1500年以上にわたって連綿とキリスト教の伝説に残されることになる。

わずか8年である。

現代におけるあっち[編集]

世界最大のキリスト教国であるアメリカでは、今でもあっち、つまりthatが極めて畏怖の対象となっている。だって、これがこの国を維持する唯一無二の方法だから。

まず、thatはあまり使われることが無く、thisを使うことが進められる。荒井注はこの辺の事情についてよく熟知していたため、That is a pen. では無く、This is a pen. を普及させた。また、thatはキリスト教公教育の見地からも、今でも興味を避けるべきである事象とされ、宗教的な教えを説いたローリン・ヒルもthat thingに最近の若者が首ったけであることを非難した。そして、thatは、あのマイケル・ジャクソンですらその使用を忌避される存在である。このため、マイケルは物を買うときには指を指して、「This!」と叫ぶ。

関連項目[編集]

Wikipedia
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