うんたん
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
うんたんとは、石炭を輸送することである。漢字では石炭を運ぶことなので「運炭」と書く。うんたんは石炭を運ぶだけではなく日本の近代産業の勃興となり、ひいては近代国家日本の繁栄の礎となった。
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[編集] 概要
「うんたん」と聞いて、最後に♪が付くものを思い浮かべる人がいるが、そうではない。それどころか、うんたんは日本の近代化、発展に大きく貢献した影の立役者とも言える。
「石炭って何?」「何に使うの?」という貴方は無知、無学、無教養の極みである。
石炭は植物の化石である。それはよく燃えるため、燃料に使われてきた。現在も火力発電、セメント工業、その他に用いられている。日本の火力発電の割合は六割で、現在石油を使う火力発電所の新規建造は禁止されているから、現在も石炭の消費はそれなりに有る。うんたんが無ければ貴方もこのパソコンを見てはいないかも知れない。
また石炭は乾留すればコークスとなる。このコークスは鉄鋼を作る際、鉄鉱石から酸素を還元させることにも用いられている。うんたんが無ければ東京タワーを建てることも瀬戸大橋を架けることも出来なかったのである。またコークスを作る際に出来るコールタールはやはり染料や顔料に用いられている。以外と知られてない事だが、ジーンズの染料であるインディコや、アセチルサリチル酸(アスピリン)やナフタレンもコールタールから出来ている。
ここまでを読んで「は?」と思った人も居よう。「炭鉱さえあれば、うんたんは必要なくない?」と。しかし炭鉱から幾ら石炭を採ったってうんたんをしなければ山奥や離島などに石炭は留め置かれたままである。そこから工場、つまり消費地への「うんたん」が必要になるのである。うんたんは、正に日本の一命をかけた行動なのである。
なお、うんたんと聞いて雲丹を連想する方もおられるかもしれないが、これはまぎれも無く雲丹である。
[編集] うんたんの方法
日本の炭鉱の場合、「坑内掘り」が大多数であった。これはまず山の中で発破を掛けて石炭層を崩し、それをトロッコやらコンベアやらで陸上に持ち出す。これが一度目のうんたんであるが、意外と知られていない。この際気を付けなければならない事は、変に火や火花を出すと事故が起きることである。坑内に漂うメタンガスが原因で起きるガス爆発、メタンや一酸化炭素が噴出すガス突出、石炭の粉塵が原因の坑内火災、海の下で間違えて穴を開ける海水流入などである。酷い例になると大爆発の後ガスが噴出して中毒者多数を出したり、ガス爆発の遭難者の救助隊が二度目の爆発に遭難する、海水で坑道ごと潰され遺体搬出すら不可能等、危険と隣りあわせで作業員達は必死に日本を支え続けた。 但し外国(中国、アメリカ、オーストラリア等)では「露天掘り」(地面に穴を開けて掘る)が主に使用されており、こんなに命の危険には晒されないらしい。でもやっぱり事故は起こるときには起きる。
次に運び出した石炭から不純物(石等)を取り除いた後、ホッパーという所に置いておく。
その後そこから鉄道や船を使って運び出される。これが二度目のうんたんであるが、一般的にはこちらの方が有名である。特に大馬力の蒸気機関車がたくさんのうんたん車を引っ張る光景は、多くの鉄道教徒にとって語り草となった。
こうして石炭は各消費地に届けられるのである。
[編集] 日本のうんたん史
[編集] うんたんの始まりと日本の近代化、太平洋戦争まで
江戸時代後期から三池藩が石炭の採掘を行っており[1]うんたんもそこから自然に発生した。当時のうんたんは石炭をそのまま手や竹籠を使って行われたと思われる。うんたんによって得られた石炭は主に製塩に使われていた。しかし1869年(明治2年)後の北海道岩内町に茅沼炭鉱軌道という、日本で始めての鉄道(らしきもの)が開業した。これによりうんたんの効率は一気に上がった。
その後政府の殖産興業のもと、北海道、常磐、山口、九州などの炭鉱が次々と開発された。それと共に政府や財閥の下多くうんたん鉄道が誕生した。その最初期のものは石狩炭田であり、北海道炭礦鉄道は三笠の炭鉱と小樽港を結んだ北海道初の鉄道である。これらの様に北海道開拓は、石炭開発の為とも言えたものであり、うんたん線が続々と誕生していった。特に夕張市は北海道炭礦汽船、三菱鉱業の炭鉱があり、夕張線、三菱石炭鉱業大夕張鉄道線、夕張鉄道等が結び合っていた。又筑豊も筑豊本線を幹に糸田線、金田線、田川線、上山田線、香月線、といった路線が枝を張り、網のように絡み合っていった。また離島でも炭鉱が開発され、蒸気船を使ったうんたんが行われ始めていた。代表的な島が軍艦島である。
当時の日本はうんたんによって得られた石炭を製糸場、製鉄所、造船所、発電所、その他工場に使われていった。1872年(明治5年)11月4日に日本の近代化の先駆けである官営模範工場であった富岡製糸場が操業を開始する。また1901年(明治34年)2月5日には八幡製鐵所東田第一高炉で火入れが行われた。それらに続いて沢山の工場が設置されていった。
これにより後に大阪市は林立する煙突からの煙によって「東洋のマンチェスター」「煙の都」と呼ばれ、戦前のけいひん、中京、阪神、北九州の各工業地帯の礎となった。また一旦うんたんした石炭をさらにうんたんし、外貨獲得に使われることもあった。当時の港は二度目のうんたんをするためにうんぱん船に載せる石炭の音が響き渡っていたという。
先に行った交通も必要であった。1898年(明治31年)5月14日、日本郵船はアジアの海運業者で始めて欧州航路を開設し、第一船として土佐丸を配船した。その後明治から大正期に貨客船神奈川丸、若狭丸、信濃丸、常陸丸、賀茂丸、香取丸、諏訪丸、箱根丸を投入した。これらの船は全て蒸気船であり、やはり石炭が燃料であった。このうち常陸丸は1906年(明治39年)9月22日に三菱重工業長崎造船所で建造された当時の国産最大の機船であった。のちに日本郵船に合併となった東洋汽船北米航路サンフランシスコ線の、当時日本最大であった客船天洋丸は、日本最大のタービンを持つ船で、石炭消費量も大きかった。また天草丸、笠戸丸といったハワイ、ブラジル移民船も蒸気船だったことを忘れてはならない。
鉄道もまたしかり、である。1872年(明治5年)10月14日(現在の鉄道の日)に新橋~横浜駅の鉄道開業以来様々な蒸気機関車が活躍していった。後の特別急行列車「富士」「櫻」「燕」を引いたC51、C53についてはいうまでも無いが、86、96、更には明治の古豪達も昭和の高度成長期前まで活躍していた。彼らは毎日大量のセキを引いてうんたんしていったのである。
燃料の利用といえば軍を忘れてはいけない。大日本帝国海軍は大嶺炭鉱の無煙炭に着目し、採炭、うんたんし、自身の持つ戦艦、駆逐艦他軍艦に使用していた。[2]日露戦争の日本海海戦で戦艦三笠以下連合艦隊はロシアバルチック艦隊がうんたん船を上海で捨てたことに気づき、日本海海戦を歴史的勝利に導いた。うんたんが日本の独立と主権を守ったと言っても良い。
南満州鉄道設立とそれに伴う満州の開発は、うんたんの需要を作った。撫順市の炭鉱から鞍山製鉄所(後の昭和製鋼所)や日本本土へ、また朝鮮半島から、日本本土へのうんたんである。ミカシ、ミカニ、マテイといった大馬力の蒸気機関車が満州の大地を経て大連へ、そこから船を使って日本本土へうんたんされていった。舞鶴丸、鉄嶺丸、ばいかる丸、いわずもがな蒸気船である。朝鮮からも、朝鮮総督府鉄道を通り関釜連絡船で本土へ・・・蒸気機関車、蒸気船のうんたん連携プレイである。
明治時代から火力発電はあったが、その中でも大正時代に出来たその煙突の数で伝説とも言える東京電力千住火力発電所、関西電力春日出火力発電所などは大量の石炭を必要としたが、どちらも船を使ってうんたんされていった。特に前者は隅田川に筏を浮かべて長閑にうんたんしていた。
昭和初期に石油が台等し始め、主な船はディーゼルに移り変わってしまった。戦前日本の日の丸商船隊の燃料は石油であったのは事実である。しかし鉄道省の関釜、青函、関門、稚泊といった鉄道連絡船や、三井船舶の大連航路用貨物船金城山丸や、大阪商船専務和辻春樹博士が設計した台湾航路用高砂丸や又、同じ頃始まった南氷洋捕鯨に使われた捕鯨母船図南丸、日新丸、や北洋漁業の蟹工船、鮭鱒工船、中積船も石炭であった。[3]鉄道もD51、C57、C59等の名機が生まれた。この頃石炭の需要とともにうんたんも戦前最盛期を迎える。
第二次世界大戦、太平洋戦争が始まると石炭の需要が伸び、更にたくさんの石炭がうんたんされていった。それはまた、優れた土木、建築を生み出す遠因にもなった。特に世界初の海底トンネルとして名高い関門鉄道トンネルは、筑豊産の石炭を本州の工業地帯へ効率良くうんたんするために作られたものであり、完成後は海の下をたくさんのうんたん列車が走った。また煉瓦積み、鉄橋、鉄筋コンクリート等もうんたんのお陰で出来たと言われても差し支えは無い。
ところが「輸送船団に護衛はつけない、我が帝国は無敵だから大丈夫」という海軍のおかげでシーレーンが無くなり、中国や満州からのうんたんが絶望的になってしまった。そもそも最後には日本の商船の八割が遭難、船員の半分が殉職という状況であったからうんたんなんぞ出来る訳が無かった。炭鉱関係者は「翼(飛行機)をください・・・」と思っていたらしいが、飛行機なんぞでうんたん出来る量などたかがしれていたから、船や鉄道に頼る他無かった。しかも国内でも乱掘により石炭が少なくなり、ろくにうんたん出来ない状況に陥った。おまけに関門海峡の機雷封鎖や青函連絡船の空襲や、果ては潜水艦が軍艦島を戦艦と間違えて雷撃を加えた際、たまたま留まっていたうんぱん船白寿丸が巻き添えを食って沈没する等があった。そもそもうんたんの大消費者である工場が軒並み空襲でやられては仕方が無かろう。こうしてうんたんは一気に絶望し、終戦を迎える。
[編集] 戦後復興と日本の経済大国化
しかしうんたんの需要が無くなった訳ではなかった。戦後海外の邦人達の引き揚げ船も興安丸、高砂丸、白山丸、白龍丸といった蒸気船であった。又戦争で沈没した船の中には浮揚され再修理して船隊に復帰されたりもした。そして戦後日本の復興を夢見た引揚者や昭和一桁世代によって炭鉱は見る見るうちに復活していった。戦後黄金期の輝きは南氷洋捕鯨と並び証されることが多い。[4]言わずもがなうんたんも一気に元気になった。
戦後日本は外国から鉄鉱石を輸入し、それで鉄鋼や船を作る加工貿易が活発になった。石油コンビナートが各地で建設されたのは事実であったが、それを作るのも鉄鋼である。日本の鉄鋼は高品質であることが話題になり、世界各国へ輸出されていった。また造船は日本のお家芸と言われる程となり、その後の経済発展に伴い何万トンもの船を造りまくり、売りまくっていった。1956年(昭和31年)に日本の造船量はイギリスを抜き世界第一位となった。製造も輸送も石炭の天下の中、炭鉱は掘りまくり、うんたんしまくっていった。こうして日本は経済白書に「もはや戦後ではない」と言わしめる程復興し、高度経済成長へと繋げていったのである。うんたんは日本を敗戦国から経済大国へ大出世させる一翼を担ったのである。
[編集] 日本国内のうんたんの終焉と海外へのシフト
ところがエネルギー革命が起こると状況が変わった。石油の万能さが目立ちだすと、あれよあれよというままにうんたん量が減ってしまった。近海航路船ですらディーゼルが主役になったし、1976年(昭和51年)3月を最後に国鉄の営業用蒸気の火が消えた。千住火発はあのおばけ煙突を初めとした施設ごと消え、春日出発電所の燃料は重油となった。町の銭湯ですら重油炊き、ガス炊きが当たり前となり、都市ガスすら天然ガスになる有様であった。
そもそも日本の炭鉱は危険、高価いという現実があった。その為消費主は海外から安い石炭を買うようになった。それによって炭鉱への収入は減っていった。坑夫だって死に物狂いで働くのだから必然的に人件費が高くなる。赤字になるのは当然であった。それでも炭鉱は不採算の坑道を潰して採算の良い炭鉱に絞ろうという機運が起こる。北海道炭礦汽船はこの事に早くから気付き、それに伴い新たに夕張新炭鉱を作った。折りしもオイルショックが起き、それによって炭鉱が見直されてきた。
ところが1981年(昭和56年)10月16日にその夕張新炭鉱でガス突出・爆発事故が起き93名が死亡。この事故で夕張新坑は廃坑となり北海道炭礦汽船は倒産した。[5]これは「日本の炭鉱だってまだやれる」という希望を粉々に打ち砕き、日本人に炭鉱に対する恐怖心を植えつけた。更に三井三池炭鉱有明坑火災(犠牲者83名)、三菱南大夕張坑ガス爆発(犠牲者62名)等の大事故が決定的になり、各地の炭鉱が次々と廃坑となった。かつて炭鉱の町と持て囃された町の灯は消え、殆どの町は財政難に陥り、財政再建団体への道を歩みだしている。[6]、多くの石炭をうんたんしていった線路は次々と剥がされていった。[7]
こうしてうんたんは海外へ活路を見出すのであるが、しかし日本の経済の形自体が変わりつつあった。1960年代後半から鉄が売れなくなり、サンウエーブ、日本特殊鋼、山陽特殊製鋼が倒産した。更に日本が儲かりすぎたことにより貿易摩擦やジャパンバッシングが起きた。漢江の奇跡を体験した韓国や人件費の安い中国等に鉄鋼、造船が抜かれたりもした。1987年(昭和62年)の富岡製糸場閉鎖、同年の南氷洋商業捕鯨や翌年1988年(昭和63年)の北洋母船式漁の終了など、かつてうんたんが支えていった産業が消えていった。折りしもバブル景気の中うんたんを必要としていた重厚長大産業は影を潜め、代わって軽薄短小に産業の主役は移っていったのである。
軍艦島は1974年(昭和49年)に無人島となった。日本を代表する炭鉱町だった夕張の炭鉱は三菱の大夕張、南大夕張を最後に1990年(平成2年)に閉山。1997年(平成9年)3月30日、うんたん発祥の地三井三池炭鉱が閉山。2001年(平成13年)11月29日に池島炭鉱が閉山し、うんたんを作った九州の全ての炭鉱が閉山した。そしてついに翌年の1月30日に北海道釧路の太平洋炭礦が閉山し、その石炭を輸送した太平洋石炭販売輸送の2002年(平成14年)1月26日のうんたん列車を最後に日本の近代産業を作り上げてきたうんたんが全て姿を消した。但し太平洋炭礦はその後釧路コールマリンに受け継がれ、太平洋石炭販売輸送の手によってしぶとくうんたんされている。
[編集] うんたんの今
現在、国内の鉄道でのうんたんは前述した釧路の釧路コールマインから出たのをうんたんする太平洋石炭販売輸送の他、外国から来たうんたん船を三井埠頭から熊谷のセメント工場までうんたんする太平洋セメントのみである。
しかし、船(かいうん!)でのうんたんはまだまだ盛んである。現在、石炭が復権しつつある中、オーストラリアやインドネシア産の高品位な石炭が、中国やインド向けなどに数多くうんたんされている。
また、各地の炭鉱を近代化産業遺産として保存する運動があり、石炭の歴史村の蒸気機関車や三井三池炭鉱の電気機関車のようにうんたん関係のものも保存、公開されている。
現在のうんたん♪うんたん♪
京都市内にあると言われている私立桜が丘高校軽音楽部では、石炭が無いのにうんたんが行われていることが分かっており、石炭や炭鉱関係者の調査が進められていた。その結果、これは貨車や船ではなくカスタネットを使っており、また日本の産業に貢献するのではなく豊崎病の感染源であり、日本の産業機能を低下させる効果があるという事が分かった。実際、「うんたん♪ うんたん♪考えていたら手を切った。」「うんたんのことを考えていたら手が止まっていた。」「うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪(以下無限ループ)」「唯は俺のよry」「じゃあ俺は澪ry」「りっちゃんはry」「たくあん眉はry」「あずにゃnry」という声もある。そのため厚生労働省はこの言葉を規制する方向で検討しているが、うんたん業(石炭的な意味で)からの反発もあり、実現は困難である。しかもかつてのうんたん(石炭のほう)を知る鉄道教信者からも「うんたんはうちらの方が本家じゃウ゛オケ!!」という声もあり、鉄道教とアニオタとの抗争で更に日本の産業機能が低下する・・・心配があったが、今の所ニコニコ動画等において鉄道教と上記作品のファンの関係は良好(けいきゅう!、けいせい!、けいはん!等)なのでひとまず安心である。うんたん♪
しかしこのカスタネットを軽やかに叩く娘の姿からは、とてもうんたんが日本の近代化や産業の発展に尽くし、現代の日本を作り上げたことを想像できない。これも時代が変化し、日本が変わった結果であろう。
[編集] 脚注
- ↑ これこそが後の三井三池炭鉱である。
- ↑ 但し無煙炭でも場合によれば煙が出たため、その後世界の軍艦は石油使用に改められる。日本は石炭に拘り、それなりの進化をさせれば先の戦争に勝っていた・・・かも知れない。
- ↑ 今では信じがたいことかも知れないが、当時は大型船のエンジンは信頼性の高い蒸気タービンが殆どであった。ただ、北洋漁船は信頼できるとは言えない老朽船を平気で使用していた。
- ↑ 捕鯨船にも石炭が必要なのは前述の通り。
- ↑ 但しその後再建され、現在は従業員20名程の輸入会社としてひっそりとやっている。
- ↑ ちなみになっちゃったのが夕張市。
- ↑ うんたんする列車も人の移動も無くなったのだから大赤字になって当然。