おすそ分け

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おすそ分け(-わ-)とは、服の裾を切って他の人に分けることである。

概要[編集]

この言葉、元は「自分が買った呉服の裾を少し切り、それを近所に渡して親交を深める」ことである。呉服など高い服を全部渡すわけにはいかないが、親睦の深まっている近隣の人々へは礼儀としてこのような行為が行われていたとされている。また、裾は最も土につきやすいこともあり自分を卑下することも意味に含まれているとされている。しかし、最近は呉服、洋服の裾を切るという行為が邪悪に取られ、服を切ることをやめ、他の食物、オリーブオイルDHMO健康食品などを少しあげるという方法に替わっている。ただ、こういったものを貰った場合、必ずお返しをするということも含まれたため、より親睦を深めることにつながっているのもまた事実である。

旧来[編集]

この言葉の過去は、あまりよく知られていないのが事実である[1]。ただ、この元は「裾分け」であったことは確かとされている。そして、その存在が確認されているのは江戸時代であり、その頃の有名な越後屋などの高級呉服を買った際、0.5寸(約1.56cm)ほどを近隣に分けたということが既に証明されている。これは近所付き合いをする長屋があったからこその文化であると専門家は指摘し、なおかつ歌舞伎などで配布されるものを合わせて贈るなど、人により様々な方法を見出していたのである。そして、裾を贈られた人はその小さな裾を化粧箱の一番上の棚にしまうという文化も根付いた。これは、「貰ったのは一番下だけど私達にとっては一番上の存在だよ」という意味も込められているのである。また日本のことだから、裾収集家も登場し、有名な浮世絵描きの中にも裾コレクターが少なからず存在していたとされている。現在も、浮世絵師や町民の残した家具に、たまに裾の切れ端が7枚ほど確認されてきたことから、これが裏付けられているとされている。

昭和のおすそわけ[編集]

そして明治時代。呉服は和服という名前にとって代わり、洋服が主流になった。明治時代はまだおすそ分け文化があったとされるが、なにせ洋服は生地が硬く、切りにくいことや、とても綺麗なものを切りたくないという大富豪の圧力もあり、洋菓子など明治になって到来した新しい物々を少し分けるという文化に様変わりした。これが現在の「おすそわけ」の元である。鉄道開通により、様々な品が江戸(東京)でも大坂(大阪)でも楽しめるという形になり、大正時代には九州の明太子から津軽のこけしまで「おすそわけ」の文化を広めていった。そしてそして…

昭和の時代になると、おすそわけ文化は軍部によって抑制され、「共助宿敵」という標語によって臣民を奮わせたという[2]。そして敗戦後、おすそ分け文化は再び根付く。それも、「食物」に特化した文化である。戦後孤児が増えるにつれ、食糧は不足傾向であった。しかし、寛大にも日本人はその人達にパン一齧りをあげたりなど、わずかな食糧でみんなを助けようとしたのである。これはまさに戦前の「共助」ということばがそのまま受け継がれた形となって、また復活しているのである。そして高度経済成長期を迎え、また様々な舶来品が押し寄せた。食文化もかわり、「すてぇき」や「はんばぁぐ」など見も聞きもしない新しい食文化が入りこんできた。その頃から、そういった珍品を近隣に少し分け、「自分たちでは食べきれないから」と出すのである。そして贈られたほうもまた別のものを「食べきれないから、どうぞ」と渡す。これにより、必ずお返し制度がまた出来、より親睦が深まるようになったのである。

現在[編集]

現在では、食品に拘らず、特産品やアイドルの写真集など、相手の趣味に合わせた品を贈るのがよいとされている。またおすそ分けの機会も3月9月の「お彼岸」、8月の「お盆」、12月の「お歳暮」という4回のタイミングで贈りつけるのである。

Nemurineko.jpg この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。
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脚注[編集]

  1. ^ 越後屋に代表する呉服屋が商売繁盛のために始めた説がある。
  2. ^ ともに物資を交換し助けながら、敵のシナイギリスアメ公と戦おうという意味である。

関連項目[編集]