お江与

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索
オシドリ夫婦のお江与と秀忠
いきなり春日局の攻撃に怒り狂うお江与
「親や息子よりも有名じゃないのに、なぜそんなに威張るんだァァァァ!」
お江与 について、北条氏綱
「我が妻よりも功名である!」
お江与 について、山内一豊
「ええええええええええええええ!」
お江与 について、加藤嘉明

お江与(おえよ、1573年 - 1626年)とは、浅井三姉妹の一人で、母親のお市の方や姉の淀君とともに戦国一数奇な運命だった姫君である。単に(ごう)とも呼ばれる。

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「お江与」の項目を執筆しています。

生涯[編集]

出生から浅井家滅亡まで[編集]

1573年、浅井長政とお市の三女に生まれる。分かる人は分かると思うが、この年、浅井氏は彼女の母親の兄(つまり伯父)である織田信長に攻め滅ぼされ、父・祖父・兄が死亡している。満1歳に満たない時からこの有様である

お江与たち浅井三姉妹と母のお市は織田家に助け出され、ひとまず信長の弟の織田信包の所に預けられた。

父を失った江は神速で成長し、なんと3歳にして早くも大人の身体を手に入れた。

信長はその成長速度に感動し、実年齢を忘れて天下統一の心得を教え込んだ。

本能寺の変から賤ヶ岳の戦い[編集]

その後、1582年に信長が本能寺の変により明智光秀に裏切られる。自害する直前、信長は金粉が舞い散る部屋でお江与の幻を見たという。この事件により、世紀末になった京都から徳川家康と共に脱出を試みるが、途中でモヒカン勢に遭遇。乗馬が苦手なお江与は進退窮まるが、信長の霊と2ケツすることで難を逃れた。清洲会議後、母のお市は羽柴秀吉の野望を阻止するため、武将の心で柴田勝家と再婚し、越前北ノ庄に移った。しかし間もなくして勝家と羽柴秀吉の仲が悪化し、翌1583年には賤ヶ岳の戦いが起こることとなる。この戦いの結果、勝家とお市は自害し、三姉妹はお市様を狙う秀吉により保護された。つまりは満10歳で両親(実父母+義父)を失ってしまったのである。戦国の世とは言え、相当悲惨な境遇であることは間違いない。

佐治一成との結婚生活[編集]

1584年初め頃、お江与は織田信雄の家臣・佐治一成に嫁ぐ。しかし同年3月、小牧・長久手の戦いが発生。佐治は戦いの後、徳川家康に船を提供したため秀吉の怒りを買い、佐治は追放され、お江与は結婚1周年待たずして佐治と離婚させられる羽目になった。江は満11歳にしてバツイチとなった。

豊臣秀勝との再婚と結婚生活[編集]

1586年、秀吉の姉の子・豊臣秀勝に嫁ぐ(秀吉はなぜか秀勝という名前に思い入れがあり、お江与の夫を含む計3名に秀勝という名を与えたが、全員短命で死去することとなった)。お江与は秀勝とはそれなりに仲良くやっていたようで、娘の豊臣完子(さだこ)を授かっている。しかし運命は残酷である。1592年、秀勝は妊娠中のお江与を残し、文禄の役に従軍することになったのだが、朝鮮の巨済島にて病死してしまったのである。お江与、この時点でもまだ満19歳である。未成年にしてバツニというわけである。

ちなみに昭和天皇の母親の貞明皇后は完子の末裔であり、すなわちお江与の末裔である。よって昭和天皇今上天皇もお江与の末裔ということになる。豊臣家の血筋のうち、秀吉の血筋は江戸時代初期の段階で絶えているが、豊臣完子の血筋は皇室に及びつつ、現在へ続いている。

徳川秀忠との再婚から晩年まで[編集]

1595年、三度目の正直で徳川家康の長男・徳川秀忠に嫁ぐが、完子を連れて行かず、姉の淀君に養育を託した。秀忠とお江与の間に生まれたのが千姫、珠姫、勝姫、初姫と4人続けて娘だったため、家康に「なぜ女の子ばかり産むんだ!!」と叱責された。この間、1601年には秀忠に長丸という息子が生まれているが、母親はお江与ではない。娘ばかり生むお江与に業を煮やした秀忠が浮気でもしたのかもしれないが、その辺はよく分からない。長丸の母親はお江与の侍女だったといわれているが、素性は明らかではない。なお、長丸はその翌年に生後9ヶ月ほどで早世しているが、何があったかはお察し下さい。ところで、1601年に次女の珠姫がわずか3歳で前田利常に嫁ぎ、1603年に長女の千姫が7歳で姉の淀君の子の豊臣秀頼に嫁ぐ一方で、お江与は1604年に徳川家光、1606年に徳川忠長、1607年に和子を産んだ。

さて1603年に家康が初代将軍として江戸幕府を開き、1605年に家康の隠居で夫秀忠が二代将軍となると、その後継ぎである三代将軍を誰にするかで内紛が起きる。お江与は自分に懐く忠長を推していたが、家光の乳母の春日局の陰謀により、忠長は家康から「おめぇの菓子ねぇから!」と宣言されたことで、家光が三代将軍に内定した。

またその頃、秀忠はお江与のヤンデレめいた性格が嫌になり、1611年に再び浮気をして保科正之を別の女性との間にもうけたが、お江与の嫉妬心に恐怖を感じ、よその家の養子に出し、お江与の死後まで対面すらしなかったという。まあ、夫を2人も(お江与の意思と無関係に)無くしているお江与が、現在の夫に執着するのもやむを得ないのかもしれない。

1614年には徳川家と豊臣家の争いが激化し、大坂の陣が勃発。姉の淀君は豊臣家のドンであったため、図らずも姉との全面対決に巻き込まれることとなった。なお、もう一人の姉・初(当時は夫の京極高次を既に亡くし、尼になって常高院と号していた)は、豊臣・徳川両家の仲介役として奔走した。ただお江与は夫秀忠の不倫や育児には口うるさかったが、政治向きには一切口を出さず、姉の助命や豊臣家との和平等を求めた形跡はみられない。最終的に、豊臣家は滅亡し、姉は死亡したが、その翌年に夫秀忠に頼んで、淀君が生前に建立していた養源院という寺で秀頼と淀君の供養を行わせたのみであった。また人質のような状態(実際はそうではないような気もするが)で秀頼に嫁いでいた娘の千姫が帰ってきたため、お江与は複雑な感情を抱いていたと言われている。そして千姫が大阪から江戸へ帰る途中の船で、徳川譜代の家臣の本多忠刻に一目ぼれしたと知るや、夫秀忠に頼んで化粧料10万石という破格な持参金を持たせて忠刻に再婚させた。

さて1622年には前田利常に嫁いでいた娘・珠姫に先立たれてしまった。その原因というのが、利常が珠姫に子供を生ませ過ぎるほど仲が良く(珠姫が満14~23歳の間に生んだ子供は3男5女の計8人、特に1615年から1619年までは毎年出産)、その仲の良さから幕府の情報が前田家に筒抜けになるのではと思った珠姫の乳母が強引に珠姫を隔離し、その結果衰弱死してしまったというものである。なお、利常はそれを知った後、その乳母を蛇責めにして処刑したというなんともえげつない話が伝わっている。また、同年には娘・勝姫の夫松平忠直が「キチガイ(うつ病)」となり、勝姫は危うく忠直に殺されかけた(忠直は秀忠の命令で、北九州の豊後国へ流罪処分)。また娘・初姫も夫の京極忠高とは仲が悪く、一人も子供を生むことはなかった上、お江与の死からたった4年後に28歳で亡くなっている(しかも臨終の際、忠高は相撲を見物に行っていて病床の妻を放置していた)。またお江与が三代将軍にし損ねた忠長の処遇について、当初はお江与が秀忠に頼んで、駿府55万石の所領と大納言の官位、徳川姓が与えられるように取り計らってもらい、御三家に十分比肩する地位まで登らせたが、お江与と秀忠の死後に忠長が家臣を手討ちしたというイチャモンを兄・家光につけられて改易され、しまいには切腹を命じられた。自分の子供たちがそんな訳の分からない境遇に遭うとは、お江与も不憫である。唯一の慰めは、後水尾天皇に嫁いだ和子が生んだ娘が後に明正天皇となり、お江与がミカドの祖母になれたことぐらいだろうか(ただしお江与の死後のことであるが)。

1626年には長女・千姫の夫の本多忠刻、姑の熊姫が没している。また、奇しくもお江与も同年に54歳で死去している。なお、お江与が危篤の際、夫も二人の息子もたまたま江戸を離れて京都におり、娘も全員嫁ぎ先におり、肉親に看取られることはなかった。最期の最期まで数奇な運命であった。院号は崇源院。

現在は増上寺に眠っているが、夫の秀忠も亡くなる間際にお江与が眠っている増上寺に自分を葬るように遺言したので、夫婦仲はなんだかんだ良かった。その増上寺も明治時代に放火されたり、太平洋戦争時に(お江与の霊牌所を含む)多数の徳川家霊廟や宝塔などを空襲で失うなど、墓所でも数奇な運命が続いている。

『戦国無双』において[編集]

「3」から登場。ツインテールアホ毛。けん玉を母から伝授。

詳しくはこちらを参照。
まあ結局は大人の事情で不参戦なのだが
如何せん美男美女の両親を老けさせるわけにはいかないので、これからも姉達共々参戦は見送られるだろう。
…と言われていたが『真田丸』において、長姉の茶々が参戦。しかも、両親も老けていない

語録[編集]

(大河ドラマ)

  • 「わかりませぬ」
  • 「戦は嫌にござります!」
  • 「声が小さい!」

(戦国無双)

  • 「あたしに任せて!」
  • 「秀忠様、あたしも参ります!」
  • 「秀吉様…恨むも恨まぬもありません……」
  • 「ダメェエ!」(性的な意味で)
※没になったセリフデータから

偉人からみた、お江与[編集]

「どうして私を見捨てたのだろうか。」
お江与 について、徳川家光

「家光」や「秀秋」のこと、覚えていなかったのですよ。鶴賀病院に入院するまでは。 記憶に無いと言うか、全く無知だっから・・分かる訳ないです。秀秋には・・家光も・・江姫

関連項目[編集]