アイルトン・セナ

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

アイルトン・セナ(Ayrton Senna da Silva 1960年3月21日 - 1994年5月1日)は、ブラジル人F1ドライバーであり、ワールドチャンピオンになった他のドライバーとなんら変わらない人間である。しかし、宗教の一つでもあるセナ教の預言者であり、その信者にはF1に存在すると崇められている。

現実世界での宗教の信者数は、キリスト教の20億人(33%)、イスラム教イスラーム)13億人(22%)、ヒンドゥー教9億人(15%) 、仏教3億6000万人(6%)、儒教道教2億3000万人(4%)、無宗教8億5000万人(14%)、その他(6%程度)であるが、セナ教は何人いるか公開していない。踏み絵でもして 調べてもいいが、今のところ公的機関で調査をする予定はない。

一時期「音速の貴公子」とも呼ばれていたが、その由来はフジテレビの実況で古館伊知郎の命名である。しかし、セナは貴族の出身でもなんでもない。また、貴公子とはおもえないような態度や行動も多々あり、髭ダルマと場外乱闘をしたり、エディ・アーバインにも殴りかかろうとしたり、プロストのマシンに特攻することも厭わない精神の持ち主である。しかし、セナ教の信者には実際は素晴らしい心の持ち主と崇められている。

目次

[編集] F1参戦前

セナは、ガキの頃はスーパーのショッピングカートで走り回っていた。ところがそのカートの運転技術は半端ではなく、セナの名を知られる頃にはエンジンなしで一般車を高速道路で抜き去るなど神がかっていたとセナ教の聖書に記載されていて、信者は1秒間に314159265358979323846264338327950288419回、頭を床につけることができるとセナに成れると信じて、日々励んでいる。

一方、当人のセナの行動に目をつけた父親は決して甘やかすわけではなく頭も良くないと走らせないと叱咤する。その後イギリスに渡り下位フォーミュラクラスの改造を受ける。その後はルンルン♪とスキップしながら、セナ教の布教に努めた結果、憧れのF1へと足を踏み入れることとなる。ちなみにF3クラスで布教の邪魔をした相手がマーティン・ブランドルであったことはナイショの話。

[編集] F1無名時代

トータス松本(後のベネトン)にお声がかかったセナ。ルーキーイヤーの最高位はモナコでの2位であったが、この頃からセナの祈りが通じたのか、モナコのウェットレースで速さをみせ、雨がセナ教の守り神となった。(どうでもいいが、赤旗中断のモナコではファステストはステファン・ベロフ(セナより2秒速い))

1985年は迷門ロータスへと移籍する。この年、守り神の雨の力でポルトガルで初優勝を挙げ、ベルギーでも勝利した。

さらに1986年にはファミコンカセット「F1レース」を手にする。これにインスパイアされたセナはマシンにソフトを組み込んで走った。チートをたっぷり使い400km/hターボエンジンの裏技を使ったセナは半シーズンにあたる8回ものPPを決める。しかしチャンピオン争いに加わろうかというときにお母さんに窓からカセットを投げられソフトが破損。実は彼女がセナ教を信じなかったため。交際がうまくいかなかったことも、チャンプ争いから遅れてしまう原因の一つあった。

セナは改めて自らの宗教を信じ、布教していたが、髭ダルマはセナ教に全く興味を示さない為、説教も通じず場外乱闘を始めるようになり、1991年頃まで接触するごとに双方が自分が正しいと譲らず、もめていた。

その1987年、ホンダを聖典としたセナは、ロータスの宗教改革に水が合わず岡崎納豆とともに苦戦していた。当時10歳であった後のF1ドライバーであったプータローも見守る中、この年は鈴鹿で走ることになっていた。2位を獲得するセナ。だがセナは鈴鹿にいる間、信者の声にもみくちゃにされる。日本でセナ教の布教に成功した年から、波乱に満ちた運命が待っていたとは誰も予想し得なかったことであろう。

[編集] セナは預言者、プロストは教授

ロータスで宗教改革をあきらめ、1988年からマクラーレンで布教をはじめたセナを待っていたのは、F1界の教授であった。セナに前から目をつけていたプロストも相当な速さを誇り、セナと2人で16戦15勝を挙げていた。13ものPPと8勝を挙げたセナは鈴鹿でチャンピオンとなる。、最終コーナーで神を見たとされているが、セナ教の預言者が他の神を見るという珍しい現象として、世間ではこの発言が話題になった。この歳はセナ教信者が大幅に増え、第一次布教であった。このシーズンは、教授の講義とセナ教の思想が違うことから、お互いに主張をぶつけ合うシーンもあった。セナが初優勝を遂げた聖地で、教授に我慢が出来ずに幅寄せという布教を行う。その布教に怒ったプロストはセナを以前にもまして講義で縛り付ける。

1989年にホンダを聖典に布教活動を続けるセナは、教授の講義に完全に耳をかさなくなったことから、プロストは、自分の講義を理解してくれるイタリアントマトに移籍することを、シーズン中に世間に告知した。

預言者セナと教授プロストは、鈴鹿の最終シケインで接触しプロストはリタイア。勝ったと思ったセナであったがシケインの存在を忘れていたために不通過で失格。最終戦のオーストラリアでセナに逆転のチャンスがあったにもかかわらず、このときばかりは「守り神の雨」がセナの布教ぶりに不満があったのか味方せず、マーティン・ブランドルにオカマを掘ってしまった。しかし、この予行練習が翌年に役に立ったのはナイショの話。

この結果、イタリアントマトに移籍する教授プロストがチャンピオンとなり、預言者セナとプロストはお互いにツンデレをするようになっていた。

[編集] 積極的な布教

1990年のセナは布教も順調に進み、鈴鹿でチャンピオンとなる。預言者セナは「目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷」とイスラム教ユダヤ教旧約聖書の教えをセナ教にも取り入れ、、1989年にプロストにぶつけれた仕返しをスタート直後の1コーナーでやり返したのだ。世間は単純に前年の仕返しをしたんだろうとみているが、当日の預言者セナは知らぬ存ぜぬを押し通し、翌年に懺悔した。

鈴鹿で出会ったのは、ホンダ聖典の執筆者である「おやっさんこと本田宗一郎」であった。そのときのやりとりは、

オヤジ 「ナンバーワン、ナンバーワン、ナンバーワン!」

「セナくん、おめでとう。来年もナンバーワンの聖典(エンジン)、作るよ」

セナ 「ドウモ、アリガトウ。アナタモシンジャニナッテクレテ・・・!」

たったこれだけのやり取りであったが、セナはおやっさんの言葉に大いに涙したらしいが、テレビ画像には映っていない。預言者セナは影で秘かに泣いたのだろう。その後撮ったツーショットを預言者セナは大切に持っていたらしく、レースでは常にそれを離さなかったくらい聖典の執筆者であるおやじさんに感化されたセナは、やはり一風代わった預言者といえよう。おまけに執筆者の人生を学ぶようになる。彼の言葉に心酔したセナはすっかりおやっさんフェチになってしまったのである。しかし1991年、預言者セナの力及ばす、おやっさんは旅立っていったのであった・・・

おやっさんの訃報をハンガリーにて知ったセナは悲しみにくれる。そんなセナはおやっさんが執筆した聖典で更なる布教をプッシュし、気がついたら3度目のワールドチャンピオンになっていた。

[編集] 三宅アナウンサーの絶叫

1992年、マクラーレンは旧来の宗教改革を継続した為、大いに苦戦を強いられることになる。髭ダルマが使用するウィリアムズが強力なハイテク兵器アクティブサスを完成させたのである。またベネトンの新興勢力が非力だが軽量なフォードエンジンに似合わぬ強固な姿で現れ、セナの布教を邪魔した。

おかげでずっと髭ダルマのターンが続き、ほとんどのレースでPPを奪う。一方のセナはマクラーレンがハイテク装備のハの字も知らぬおかげで開発が難航、ホンダのスタッフも聖典(エンジン)が本来の力を発揮できずにいた。そこに小回りの効く顎が付け入り、マクラーレンは両者から追い詰められる苦しい展開となっていた。

そんな中第6戦のモナコGP、この年は50回記念であった。ここでもマンセルが余裕のPPだが、預言者セナはモナコでの今までの布教活動でなんとかなると微かな期待をしていた。レースもずっとマンセルのターン! このまま前人未到の開幕6連勝かと思われたその時だった! マンセルがタイヤトラブルでピットインするハメになる。その間にセナが前に立つ。

前に立ったセナのタイヤはボロボロであった。一方タイヤをソフトタイヤに履き替えたマンセルは予選で上位相当のタイムをたたき出しながらセナに迫る。そしてあっという間にセナはケツに付けられてしまうが、ここから2人の異次元バトルが始まる。

タダでさえ狭くて滑りやすい上に抜けないレイアウトのモナコで、たった1mにもならない車間距離という危険な状況でセナは巧みにレコードラインとブロックラインを使い分ける。一方のマンセルもあらゆるコーナーで懸命に抜きにかかろうとプレッシャーをかけるが抜けない! 抜けない!

エンジン音や挙動や呼吸がひとつになって走る。もはやこのレースで走っているのはセナとマンセルだけという幻を見せられていたのだろう。そしてファイナルラップでセナ教の隠れ信者である三宅アナウンサーが

ここはモナコモンテカルロ! 絶対に抜けない!!

と口角泡を飛ばして絶叫し、実況席は三宅アナウンサーの唾液で曇っていた。

そしてほぼ同時にチェッカーを受けた二人。セナがマンセルの6連勝を食い止め、モナコで同時に4連勝する快挙を成し遂げた。マシンもドライバーも、精魂尽き果てる。そして互いの健闘を称えあう。まさにF1史上歴史に残るバトルであった。

しかしそれでも髭ダルマの優位は揺るがず、セナの布教は不調におわり、髭ダルマが戴冠を得た。実はこの年、教授プロストは講義をせず、のんびりバカンスをしながら、翌年の教鞭を取るチームを探していた。最大のライバルがいない預言者セナは不満を漏らし始める。セナは聖典(ホンダエンジン)がなくなることに不安を示し、教授の就職活動を抑え、自らがウィリアムズへ行き、新たな布教活動を行おうと試みたが、教授が「布教と講義は異なるもの」という断りを受け、結局gdgdマクラーレンに残留した。

[編集] セナプロ抗争の終焉

マクラーレンのgdgdぶりとホンダの聖典がなくなったことにより、預言者セナの布教活動も勢いを失いつつあった。しかし、教授プロストの復帰にセナは狂喜乱舞し。預言者にもかかわらず東京音頭を踊る。だが強いウィリアムズで参戦したプロストはそう簡単に勝てる相手ではなかった。しかしセナはそれでも1993年は「守り神の雨」で強さを見せ続けた。第3戦セガGPでセナは雨の中シャーシは旧式、エンジンはフォードの使い回しを使うなど期待が持てないアップデートだった。他のマシンが悪戦苦闘する中、「守り神の雨」を最大限に生かし、独走して優勝。モナコ・鈴鹿でも勝ち存在感をアピールした。

しかしハイテクの塊には布教だけでは勝てなかった。チャンピオンを早々と決められた中で来た最終戦、ポールトゥウィンで締めくくる。が、まだやり残したことがあった。

チャンピオンを決めた教授プロストはF1の世界から身を引く決意をしていたのだ。彼とは壮絶なツンツン戦争が続いてきた。あるときには寝込んで二度と会えないと思っていた。このまま終わってしまうのかと世界は心配の目で両者を見続けてきたのだ。そして両者は表彰台で握手をかわし、パドックでは抱き合った。まさしくデレの瞬間である。こうして未練をすべて断ったプロストは教鞭から離れ、自由な時間を満喫することとなった。

しかしここでセナが挙げた勝利が最後の勝利になろうとは、誰もが思ってもいなかったことであろう。既に終末へのカウントダウンは始まっていたのだ・・・

[編集] 狂った果実

セナはgdgdなマクラーレンとおさらばし、昨年から検討していたウィリアムズで布教活動をすることが決まる。しかしウィリアムズを支えていたハイテク機器が行き当たりばったりで改正され禁止、これによりセナに施されたアップデートはgdgdではなかったが空力面といった操作性に関係するものが致命的に悪化してしまう。その中で序盤の2戦はPPこそとったものの過敏すぎる操作特性でレースではすべてリタイアしてしまう。布教で何とかなるとセナを信用していたウィリアムズだったが、預言者セナですら制御を狂わせる危険な代物だったのだ。この後に語られることが永久欠番、アップデートNO. FW16を刻むことになろうとは・・・

[編集] 運命の日

第3戦、サンマリノGP。すべては何事も無かったようにいくかと思われていた。この週末が、F1史上最悪の悪夢の週末になろうとは誰もが予想しえたものではなかった。

最初の予選の日、バリチェロが突如クラッシュ。ノーズに大ダメージを受け損傷する。その後ローランド・ラッツェンバーガーがヴィルヌーヴコーナーで大クラッシュ。シムテックのミサイルはバラバラとなり、ラッツェンバーガーは即死する。これが12年ぶりの死亡事故となってしまう。

誰もが恐慌したサーキットの中でセナは不安定な状態になる。その日セナは退役したプロストに「こんなレース、走りたくない。君がいないレースは寂しいよ・・・」と話していた。

そして運命の日はやってきた。この日のPPもセナ。後ろには2連勝のシューマッハが追う展開となっていたが7周目の高速タンブレロコーナーで突如コントロールが効かなくなり、300km/hを超える速度でウォールにクラッシュしてしまった。セナのマシンは大破し、跡形もなく粉々となってしまう。そしてセナは34歳という若さでこの世を去った。

世界中で愛され、日本でF1ブームに火をつけ、F1そのものを象徴する存在となっていた「音速の貴公子」はあまりにも速く駆け抜けていったのだ・・・

その後ブラジルで国葬が行われるほどの深い悲しみに包まれた。セナあってのF1と言ったF1のボスは「F1はもうおしまいだ」とその時は、つぶやいているほどだったのだ。

ちなみにイタリア司法当局によって、ウィリアムズ関係者は殺人罪で起訴された。 あいつにも制御出来ん車体を提供した=罪、と司法が判断するのは、 レーサーとしてはおそらく最上級の勲章と言える。 (補足:このままじゃ、イタリアではレースが出来んと関係者が抗議をしたらしいが、まぁその後も当然ながら普通のレーシングアクシデントは自己責任扱いで全スルー)

[編集] 異変

セナの死後、墓で異変が起こる。なんとセナの像を模した墓が突如ミサイルのごとく空に打ち出され、そのまま行方不明になってしまう。実はあれからセナの遺体はなぜか腐敗しておらず、生前のきれいな姿であったという。

墓守の人によると、

「セナの墓が突然光りだして震えたかと思ったら墓が空を飛んだんだよ!飛んでいくときなぜかエンジン音を上げながらものすごい勢いで飛んでいったんだ!すごい音だったよ」

現在もその墓石は行方不明であり、亡骸も一緒だったという。現在は別の同じ像を模した墓で立て替えているが飛ばないように厳重に警備されており、墓石の周りには無数の杭が打ちつけられている。不思議なことに、この事実は人々は忘れてるかのように何も知らずに献花を今日まで行っている。

[編集] その後

セナが空の彼方へと消えていった日から、F1界では不思議な出来事が起こる。サイボーグであるシューマッハが自我に目覚め、セナの遺志が宿ったかのように連戦連勝、ベネトンにワールドチャンピオンをもたらす。その後フェラーリに移籍後、2000年から怒涛の5連覇を達成する。そしてセナの死後、一度も観客を含めた死亡事故が起こることは無かった。たとえマシンがバラバラになろうが宙を舞う大クラッシュが起ころうがドライバーが放り出されようが誰一人死なず、悪くても軽微なケガで済んだ例が非常に多かったのだ。あの豆電球の大クラッシュもぺヤングが原因で起こった1998年のベルギーGPでの大事故も佐藤琢磨が原因で強度の弱い死角であるマシン斜め後ろから高速で突っ込んだクラッシュでもほとんど無傷、またコバライネンも高速で障害物に正面から突き刺さりながらも悪くて軽症で済んだ奇跡が今も起こり続けている。このことから、「セナはF1の神になった」とささやかれるようになった、というがそんな話は見聞きしたことない。

またスーパーアグリから開発したパーツを取り上げたりして開発を妨げたり、偽スポンサーと契約するよう仕向けたりして妨害工作を行うホンダを天から見たセナはその姿に幻滅する。既にその姿はオヤジのいたホンダではなく、オヤジの精神をも踏みにじる姿に怒りを覚えたのか、助けられなかったスーパーアグリが消滅後、ホンダは開発を行うたびにスローダウンを続ける悪循環にハマる。(ただしセナを最後に知るバリチェロは呪縛を逃れた)これもセナの仕業だと一部ではささやかれているようだ。(が、このことについてはオヤジが天罰を下したとの見方もある)

今日まで示された安全性の高さはFIAが徹底した管理に基づいたものではあるが、それでも危険なアクシデントは起こる。それでも誰一人死ななかったのは・・・多分、セナがいたからだろうと思う声も多い、と思い込みたがるのは自由だが、全く関係ない。

信者は云う。音速の貴公子はセナだけのためのものであり、他がその名を騙る権利はないのだ。セナの事故の反省からF1マシンの安全性が高まったのは事実だが、「セナが神になった」「セナのおかげで死亡者がでてない」とか勘違いが多すぎる。

アイルトン・セナ。音速の貴公子、アイルトン・セナ。

以上、後に起きた事をセナと結び付けたがる一部の信者は、本当の信者とはいえない。

重要なことは、預言者セナは我々の心に行き続けていると信者が信じればいいだけのことで、上記のようになんでもセナに結びつけるのは一般社会ではありえない。信者がそう信じたいのであれば、「カラスの勝手でしょう~♪」と預言者セナを崇め続ければいいのである