アジャリア自治ソビエト社会主義共和国

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アジャリア自治ソビエト社会主義共和国(-じち-しゃかいしゅぎきょうわこく、აჭარის ავტონომიური საბჭოთა სოციალისტური რესპუბლიკა 1921年7月16日-1991年)とは、グルジアの黒歴史である。

概要[編集]

首都はバトゥミ、母語はグルジア語ラズ語であるが、公用語としてロシア語が導入され、強制こそされなかったが、公務員や公文書などはすべてロシア語を用いることが義務づけられ、母語しか話せない者は社会的弱者として底辺に追いやられた。人口は約31万人、元首はソビエトの都合によって数ヶ月(時には数週間)単位でコロコロ変えられたため、誰も気にしないようになってしまった。

建国[編集]

かくて人民の旗はひるめく。

1921年3月、グルジア民主主義共和国の領土であったアジャリア地方の宗主権を巡ってトルコソビエトの軍事衝突が発生。戦闘はグルジアの仲裁(って言うかグルジア領だし、という意見)などお構い無しに続けられたが、やがて戦争に飽きてきたトルコがカルス条約第6条に従い「信教の自由と住民の自治権を認めるなら割譲してやる」と妥協した結果、アジャリア地方は(グルジアを無視して)ソビエト領に編入され、同年7月16日にアジャリアASSRを設置、アジャリア自治ソビエト社会主義共和国が建国されたのであった。

治世[編集]

建国当初こそ「信教の自由と住民自治」が認められていたものの、しょせん約束など破るためにあるようなもの。アジャリアASSRによる独裁政治が始まり、信教の自由については「共産党を信頼する自由」と改められ、住民自治については「自治をサポートする」名目でアジャリアASSRがやかましく干渉するようになった。この期に及んで「騙された」事に気づいたところで後の祭り。各地で反乱が相次ぎ、その都度粛清の憂き目を見ることとなったのであった。いくら自治などと謳ったところで、しょせんはソビエト連邦の一員なのである。

崩壊[編集]

そんな状態であったから、1991年のソ連崩壊に際してはモスクワの混乱をこれ幸いとグルジア(政権交代によって国名がされた)に泣きつき、およそ70年ぶりにグルジアへの復帰を果たし、アジャリア自治共和国としてそれなりの自治権を与えられているが、ソビエト時代に比べたらまさに天国である。が、そんな状態も早20年(2011年現在)が経ち、若い世代は独立の意味(と言うかまともな国家の恩恵)を忘れつつあると言われている

関連項目[編集]