アドルフ・アイヒマン

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索
国家社会主義ドイツ労働者党 Dieser Artikel ist von der NSDAP geschrieben worden! 国家社会主義ドイツ労働者党
この記事は国家社会主義ドイツ労働者党によって書かれた!
この記事を疑うものは、われらが総統及び全アーリア人に背いたものとして、アウシュビッツに送られる!
アドルフ・アイヒマン
Eichmann2.jpg
1961年、イスラエルにて。
基本資料
本名 Adolf Otto Eichmann 
生没年 1906年3月19日 - 1962年6月1日(56歳) 
職業 課長。親衛隊(SS)中佐 
好物 ウサギと忠誠 
嫌物 時間にルーズな奴 
出身地 ゾーリンゲン
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「アドルフ・アイヒマン」の項目を執筆しています。

アドルフ・オットー・アイヒマン(Adolf Otto Eichmann)は株式会社ナチ(以降ナチ(株)とする)の鬼畜社畜。「在庫お得意様へ配送するための書類にサインするだけの簡単なお仕事」に一生を捧げ、戦後その仕事熱心さがイェール大学の学者、スタンリー・ミルグラムらによって高く評価された。

履歴書[編集]

ダメな職歴書[編集]

  • リンツのギムナジウムを卒業。
  • カイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校を中退。
  • 工業専門学校を中退。
  • 父の鉱山で働くも一身上の都合により退職。
  • 電気製品会社に二年間勤務。一身上の都合により退職。
  • ヴァキューム・オイル・カンパニーに五年間勤務。会社側の都合により人員の削減対象に。

上記の通りパッとしない生活を続けていた26歳の時、同級生エルンスト・カルテンブルンナーの勧めによりナチ(株)になんとなく入社した彼だが、その後元の職を失ったためドイツへ移住した。一年間ほど社員合宿として軍事訓練を受けたが、「毎日匍匐前進ばっかりだ。俺はもっと能力があるのに。明日から頑張るけど今日はもう寝るわ。」やら、「ヒジのバンソウコウが剥がれた!死ぬ!」などと文句を垂れるだけのモヤシっ子であった。

社畜への道[編集]

マイスター時代。

ネットスラングで言う「ゆとり」的思想で信念の薄い彼は1934年、「事務机から動かなくてよい簡単なお仕事」であるSD(親衛隊情報部)に応募。取締役のラインハルト・ハイドリヒによって見事採用される。その後は体系的な整理や計算などの作業を好み、計算も得意だったが、ユダヤ人担当課に移動になったせいで地味に頭角を現す。

オーストリア併合後の1938年に「専門家」としてウィーンに派遣された彼は、資産を没収されたロスチャイルド家の邸宅で業務を行った。次々に逃げ出すユダヤ人のビザを発行する代わりに全財産没収という素晴らしいビジネスを思いついた彼は数ヶ月で5万人のユダヤ人を追い出すことに大成功。彼の脳内で「地上の星」が流れたことは言うまでもない。

これによりハイドリヒらから絶賛され「マイスター」と呼ばれた彼は得意げにロスチャイルド家の自動車を乗り回し、地下倉庫からワインをくすねて飲んでいた。やはり楽しみ方が小市民であるが、学歴コンプレックスをバネに彼は成功を勝ち得たのである。めでたし。

仕事[編集]

その後課長に昇進した彼だったが、ナチ社の業務拡大に際し多大な在庫(325万個と言われる)を処理しなければならなかった。彼は列車のダイヤを自ら組むと、瞬く間に南フランスへ7500箱程度配送。途中の手違いで2000箱程度が破損、破棄されたが、あまり問題にならなかった。1941年ごろから「最終解決計画」と称した業務計画がハイドリヒ部長から命じられ、その後2年間で500万箱以上の在庫を捌くなど手腕を発揮する。

しかし、あるとき配送の書類の計算ミスで一桁多く在庫を配送してしまったことがあった。処分を恐れていた彼だったが、数日後なぜか賞賛された。

ゲッダウェイ[編集]

かわいいって?食用さ。

1945年、ナチ社の経営が傾き、上司のヒムラーは彼に配送の停止を命じたが、彼は「あと少し......」と残り40万箱分の配送を続けた。営業に出るぐらいならサインをしていた方が楽だったのである。また彼はこの会社が多くの法を犯していることも知っており、社が潰れたら高跳びする準備もできていた。

そして4月30日、株式会社ナチの会長アドルフ・ヒトラー(56)は経営難を苦に自殺し、社は倒産した。たちまち社の不正は明らかになり、逮捕から逃れるため彼はリカルド・クレメントという偽名を使って観光がてらブエノス・アイレスへ飛んだ。到着後思いのほか暑かったので親衛隊の制服を燃料にアルゼンチン風焼き肉で乾杯し、その後10年は「第二の人生」などと抜かし、家族を呼び寄せてウサギ飼育農家をしたり、工員をしたり、「サライ」誌の定期購読したりと悠々自適なセカンドライフを送った。

また、あのハンス・ウルリッヒ・ルーデルが経営する「ルデル・クラブ」に出入りするのもちょっとした遊びだった。誰も私を捕まえたりしないのだ。素晴らしきかな人生。そんなことを思いながらバスを降りて南米の空気を胸いっぱい吸い込んだ瞬間、彼は後ろから襲ってきた数人の屈強な男に押さえつけられ、車内へ引きずり込まれた。しかし彼は引きずり込まれる瞬間「うわなにをするやめr」とtwitterにつぶやけて満足していた。

裁判[編集]

逮捕まで[編集]

1957年、イスラエルの諜報屋さんことモサド社は、アイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているとの情報を入手。ただちに社員2名を派遣した。しかし卒業アルバムから引き伸ばしたであろうギザギザ写真と「リカルド・クレメント」という偽名だけしか手がかりがない状況で捜査は難航。社員は情報収集と称してBARでくだをまく毎日を続け、気づけば2年の月日が経っており、とっくにアイヒマンの事を忘れた社員は飲み代が経費で落ちない事を知り絶望し、蒸発する。何がしたかったんだ。

しかしアイヒマンもぼろを出していた。息子が父親の「武勇伝」をネタに女性を飲み屋で釣っていたのである。「うちの父親500万人殺したよすごいよね(※ただしユダ野郎に限る」こんな小学生並みの釣り文句で女が集まるはずはなかったが、イスラエル人のオッサンは集まった。モサド社員たちは彼の身辺をくまなく調べ、この男の父親がハゲており、植毛を検討していることを突き止める。そして「E」とバーコードネームを付け、じっくり機会を伺った。

近所の男に撮影させた「E」の頭頂部、側頭部の写真で確信を得た社員たちは、「E」が毎日乗るというバスの停留所近くで待機する。そしてバスから降りた「E」を後ろから鈍器のようなもので殴打。「E」が女の子のような声で助けを求め、なかなか気絶しなかったのでその後も殴る蹴るなどして全治2週間の大怪我を負わせた。社員のひとり、ピーター・マルキン容疑者は、「ムシャクシャしてやった。今は反省している。」などと容疑を認めている。

こうして、リカルド・クレメント改め、「E」改め、アドルフ・アイヒマンは当局の手に渡ったのであった。

裁判[編集]

さるぐつわを噛まされてイスラエルへ移送され、暗い部屋に押し込められたアイヒマンは、始めレイプを疑って自分のバージンを何度も確認していたが、次第に諦めて従順になった。獄中の身ながら食事もおかわり3杯を要求し、部屋ではトイレ掃除と頭皮ケアを怠らない神経質な男だったという。

年が明けて1961年4月11日、アドルフ・アイヒマンの裁判が始まった。この裁判は国際的に大きな注目を集め、襲撃者から頭皮を守るため防弾ガラスに囲まれた彼は15の罪状で起訴されたが、「社の方針に従っただけ」と彼の態度は無罪を求めるだけで、被告人席で脱ぎだすような気違いを期待していた傍聴人は拍子抜け。新たに「つまんない罪」と「傍聴人をガッカリさせた罪」が追加された。頑張って「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」とドヤ顔で発言したものの滑ってしまい、結果すべての起因上で有罪判決を受け、死刑が宣告される。

そして翌年1962年6月1日、絞首による死刑が執行されたが、遺言もつまらないので看守たちにスルーされた。しかし彼の死後、こんな逸話が流布された。

Quote1.png

処刑前に「最後に何か望みが無いか」と言われたアイヒマン、「ユダヤ教徒になる」と答えた。何故かとたずねると「これでまた一人ユダヤ人を殺せる」と。

Quote2.png

最近ではアイヒマンにこんなギャグセンスはなかったという学説が有力視されている。

後日[編集]

死刑となった彼だが、アイヒマンは気違いなどではなく真摯に職務に励む一介の公務員だった。と、米国イェール大教授のスタンリー・ミルグラムらが1963年発表の論文で提唱し話題となった。その後もアイヒマンの職務に対する姿勢はミルグラム実験や、スタンフォード監獄実験などに受け継がれて行くことになる。