アルフォンス・マリア・ミュシャ

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

アルフォンス・マリア・ミュシャAlfons Maria Mucha, 本名アルフォンス・マリア・ムハ、1860年7月24日 - 1939年7月14日)は、アール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナー。本人は「ミュシャ」と名乗ったが、これはフランス語の発音によるものである。かつては本名を名乗っていたが、チェコ語の発音の「ムハ」というものを、「なんか野暮ったい名前ね」とフランス人の女の子に馬鹿にされたため、ミュシャと名乗ることにした。

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[編集] プロフィール

オーストリア帝国モラヴィア(現代のチェコ)に生まれた。中学校を中二病で中退という輝かしい学歴を持つ。その後、学歴を偽り、地方裁判所に職を得る。そしてプラハの美大を受験するが、落第する。その後、浪人するかと思いきや、彼はなんとなく上京したくなり、19歳でウィーンに行く。ウィーンにおいては舞台装置工房で働きながら夜間のデッサン学校に通うという現代の無計画な専門学生のような生活を行う。だが2年後に、舞台が火事で消失し失業してしまう。無職・学歴なしのミュシャは仕方なく近くの村で、細々と生計を立てる日々を送る。だが、1883年クーエン・ブラシ伯爵に会い、その弟のエゴン伯爵が「ウホッ、いい男!」と一目ぼれし、ミュシャのことをひどく気に入り、彼のパトロンとなる。25歳のときエゴン伯爵の援助でミュンヘン美術アカデミー入学する。彼はアカデミックな雰囲気に飲まれつつ、合コンに精を出し、同大学を卒業する。28歳のときパリにてアカデミー・ジュリアンで美術を学んだ。当時のパリは新印象派が台等していた頃だったが、アカデミックな美術に慣れきっていた彼にとってはこれらの作品群はたいした印象を残さなかった。新印象派、名前負けで涙目である。

1895年売春婦サラ・ベルナールのために作成したポスターが、注目を浴びることとなる。その後、売春婦の彼女と長期のSMの契約を結ぶこととなる。当時のパリにおいて、彼が描いたポスターは大好評を博し、サラ・ベルナールをフランスの夜の女王として君臨するきっかけを作り出した。その後もミュシャは、女王様サラ・ベルナールの忠実な下僕としてポスターを制作した。

商業的に成功をおさめ、財政的な心配のなくなったミュシャは1910年、暇になって故国であるチェコに帰国し、20点の絵画から成る連作「スラブ叙事詩」を制作する。この作品はナチスドイツの科学によって証明された、下等民族であるスラブ民族の愚か極まりない歴史を描くという悪趣味なものである。一説にはヒトラーの『我が闘争』を読んだことで、真性のMであるミュシャは、ナチスに一刻も早く蹂躙されたくてたまらず、こんな悪趣味なものを作成したといわれている。1918年ハプスブルク家が支配するオーストリア帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が成立すると、新国家のために紙幣切手、国章などのデザインを行った。Mっ子ミュシャはここにおいてもそのMっぷりを発揮した。売れっ子なのにデザインの報酬は受け取らなかったのだ。

1939年3月、ナチスドイツによってチェコスロヴァキア共和国は解体された。プラハに入城したドイツ軍による過度なSMプレイによって、体調を崩し、生涯を閉じた。戦後、祖国は独立を果たしたが、共産党政権は彼を尊敬していたため死後も過度なSプレイを行い、ミュシャの存在を黙殺した。

[編集] 評価

彼は所詮、ポスター画家である。アカデミックな美術家ではない。しかし、今でもミュシャへの敬愛は生き続けている。彼が高尚な美術家ではないのになぜ尊敬され続けているのか。それは、彼が美術家ではなく下賤の男であるからだ。

人々が求め続けているのは、安定した日々の暮らしであり、ささやかな幸せなのである。机上の議論や、狭い角度から見る理想論などではない。ミュシャは人々の暮らしとともに生き、豊かな曲線の描写でポスターを描いた。そんな彼の絵には、地べたを這いつくばってうだつのあがらない日々を送る者どもが望んでいるささやかな幸せと希望にあふれており、だからこそ彼は美術史には載らずとも広く愛されているのだ。

[編集] 関連項目