アンサイクロペディア文学
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
~ アンサイクロペディア について、国語学者
アンサイクロペディア文学(-ぶんがく)とは、アンサイクロペディアで書かれた記事、またはアンサイクロペディアを一連の文学作品とみなし、研究する学問を指す。主にアンサイクロペディアの電子空間で発表された記事およびそれに類するものがアンサイクロペディア文学と定義される。この項目では主に日本語版アンサイクロペディアでのアンサイクロペディア文学について語る。
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[編集] 概要
Wiki、掲示板、ブログなどのいわゆるハイパーテキストが普及し誰でも自由に作品を公の場で発表できるようになった。若者の活字離れが進む中、その代用として彼らが発表した作品を読む人が増え、これらの小説化、映画化などが人気をさらに拍車をかけた。昨今のケータイ小説がケータイ文学としてとらえられている所以である。その流れの一つとしてアンサイクロペディアも含まれる。しかし、アンサイクロペディアはケータイ小説と違って文学としてすらとらえられていない実情がある。
アンサイクロペディア文学は主に笑いを重視している点が特筆される。これらは風刺や皮肉がこもっていたり、純粋に面白さを追求するものもあるが、これらの笑いの中には様々な形で当時の社会の声や実情をとらえるのに役に立つものが少なくない。これらを踏まえて、アンサイクロペディアを風刺文学ととらえる向きもある。
またアンサイクロペディアにはメディア特にテレビと明らかに対立する笑いに対する概念が存在する。テレビで放送される笑いはくだらなかったり、低俗であったりするが、アンサイクロペディアが主に求めるのはイギリス紳士のような伝統的に機知にとんだ笑いであり、世の中の潮流と外れた笑いである。それゆえ、アンサイクロペディアには風刺を現代に保存する機能も有する。
[編集] 研究意義
アンサイクロペディアは大変有意義なサイトであるが、ほとんどの国語学者はこのサイトを研究対象として選んでいない。その理由のひとつとして、小説などは一応の娯楽性やテーマや芸術性を重視するのに対してアンサイクロペディア文学は笑いをテーマに据えるからだ。
しかし、アンサイクロペディアは研究対象として大変興味深い対象である。
理由のひとつは当時の世の中の潮流を忠実に表現している。例えば、『残酷な天使のテーゼ』の社会的影響には、
| 心を失ったように無表情に、うつろにしていることが美しいと思い込む少女が増加。これによって、恋愛意識がほとんど薄れ、少子化を急進させている。また、感情を押さえ込むことを至上とする考えが最終的に精神疾患を促進するため、やはりうつ病患者が急増化した。
いきなり性格が変わって暴走するのがかっこいい行為と認識され、躁病患者が急増。さらには躁鬱病をも引き起こし、精神疾患患者が急増し、精神の不安定から来る肉体的な病も比例して増加。現状の医師不足、医師自身の疾患による、医療機関のあいつぐ閉鎖を引き起こしている。 |
と当時の社会状況を忠実に風刺している。また、当時の人たちの本音を聞きとるのにもアンサイクロペディアは役に立つ。『あなたとは違うんです』は国民がこのコメントに憤りを覚えたかがうかがえる。
しかし、これだけではアンサイクロペディアを文学とみなせない。アンサイクロペディア文学の本質は記事の意味や著者の真意をできる限り見つけだすことにある。例として、秀逸な記事のひとつである『この人痴漢です!』を分析をあげる。
まず、文学の基本だが著者がなぜこの言葉を選んだか考える必要がある。例えば、『この人痴漢です!』の最初の一文
| この人痴漢です!(このひとちかんです)は、女性が唱えるだけで男性一人を社会から抹殺することができる上、お金も手に入る「魔法の呪文」である。 |
著者はたったこの一文で大量の情報を読者に与えている。まず、「女性が唱えるだけで」の部分には「この人痴漢です!」は女性だけが使える呪文であると読者に情報を与えている。そして、「男性一人を社会から抹殺することができる」の部分に男性読者に心理的揺さぶりを加えてかつこの呪文の危険性を指摘。「お金も手に入る」は女性がなぜこの呪文を使うか述べ、最後の「魔法の呪文」には「なぜ魔法の呪文なのか?」と読者に疑問を抱かせかつ今後出る内容の伏線である。
~ アンサイクロペディア文学 について、執筆者K
このように、『この人は痴漢です!』はこの最初の一文だけでこの記事を読む上で必要な情報を全て書き込んでいる。もちろん、これはまだ最初の一文を分析したにすぎない。ここからが本番であるが、これ以上すると長くなるのでここで打ち切る。
[編集] 用語・法則
[編集] 閲覧数が多くなるほど質が良くなる法則
すべてのWikiにおいて、理論的には発生するであろう法則。コレはすべての人間が性善説に基づく考えで、情報量が増えれば増えるほど結果的にWikiが充実する法則である。だが、この法則が適用できるのは限られた記事のみで現在では科学者によって机上の空論とされている。
[編集] 閲覧数が多くなるほどメルド主義化する法則
その字の如く、アクセス数とメルド主義(後述)の度合いが比例する関係である。本来なら上の法則と矛盾するが、れっきとした科学的な説明がなされる。我々の世界はエントロピーが増大する世界にいる。つまり、世界はドンドン無秩序に向かっているのである。善意ある利用者によって秩序が保たれる場合があるが、大抵の記事は風化によって劣化し、後世においてメルド主義と認定される記事が少なくない。
[編集] 流派
最初は「削除された悪ふざけとナンセンス」として、黎明期のアンサイクロペディアンはウィキペディアンと壮絶な編集合戦を繰り広げた。壮絶な戦いの後の2005年にアンサイクロペディアはウィキペディアが使用するサーバー(MediaWiki)にてこれらの風刺を書く空間が獲得された。しかし黎明期のアンサイクロペディアンは主に英語圏の人たちであり、日本のアンサイクロペディア文学は日本語版アンサイクロペディアの開設を持って始まりとする。それからアンサイクロペディアは爆発的に記事を増やし様々な流派を生み出した。
[編集] 翻訳記事
初期のアンサイクロペディアンは自らの道を模索するため、英語版記事の翻訳及び模倣によって日本語版アンサイクロペディアの充実を図った。これは翻訳記事とよばれ、『オダ幕府』、『NEVADA』などが代表であるが、ただ単に初期のアンサイクロペディアンが独自に道を切り開くだけのユーモアがなかったと批判する学者もいる。これらの記事は翻訳記事であるが故の弱点を有していた。それは西洋と東洋の間に横たわるユーモアのセンスの違いである。言葉で説明することは困難だが、『ボーラット』や『モンティ・パイソン』を見ればユーモアのセンスの違いがわかるだろう。今も細々であるが翻訳記事はアンサイクロペディアの中で生きているが、日本人にも分かりやすいように著者のアレンジを加える場合もある。
[編集] メルド主義
こうした、先人の細々とした活動が実をそうしたのか、2006年前半ごろからブログなどで紹介され、物好きな芸術家たちがこぞってアンサイクロペディアに参入し、急激に作品数が増大した。しかし、作品数が増えたからと言って質が急激に上昇したわけではなかった。
これら新進作家たちの書いた記事は「クソ記事」と呼ばれ、これらを書く事を是とする流派を糞を意味するフランス語(Merde)から「メルド主義」と呼ばれた。注意しておきたいが、内容が糞だからメルド主義と呼ばれているのではない。これは管理者側及び古参利用者の新進利用者が書いた記事に対する蔑称「クソ記事」から派生したので、決して内容が糞であるとは限らない。以後、クソ記事をメルド主義記事と呼ぶ。
メルド主義記事には二つの流派がある。ひとつは至上的メルド主義だ。特徴としては、凡人には理解できない高レベルの精神状態をそのまま記事として表現することを主眼に置いている。つまり、メルド主義記事が理解できるのは記事作成者ただ一人なのである。これは、凡人が見るとただの妄想記事やわけがわからない記事に見え本人には理解できるかもしれないが、はた目から見ると論理的に欠陥がある記事に見えない。しかし、だからと言って非難してはいけない。このタイプのはおそらく筆者が精一杯の表現の結果そうなったのだ。クソだから駄目だと簡単に批難してはいけない。
もう一つは、退廃的メルド主義だ。これは、純粋に「わけわからなさ」が記事の存在理由で、「わけわからなさ」を唯一読者を笑わせる武器とする。彼らは「わけわからなさ」は「論理的に整合性が取れない」から「面白い」と一元論でこの種の記事の正当性を主張している。これはメルド主義記事の大多数を占めており、わけわからなさが5000バイト以上続くと大抵成立するが、それ以下だと削除主義者にNRVを貼られる可能性があるので注意する必要がある。これは一見簡単そうに見えるが、他の人から見るとやはり理解できず失笑を引き起こし、最悪の場合削除にいたる可能性を引き起こす。
~ メルド主義 について、執筆者V
主に2006年度においてメルド主義者たちは毎日のようにクソ記事を量産した。しかし、これらの記事を理解できない管理者たちは質低下だとして頭を悩ませた。ちなみに、メルド主義記事の代表作としては『ワンチン神聖扇動有産有識者会議出立魔道者契約連盟主導性超新体系先駆型社会世界生成直接型共産主義平和共和国連邦及びウドーン・チュウカメーン・ソバ・カキアゲ列島超国家共和連邦』である。
[編集] ハーモニエ派
品質の低下が進む一方でアンサイクロペディアを特徴づける新たな潮流が生まれた。自己言及的なページである。学者の間では項目名と内容が調和されているのでドイツ語の調和を意味する「Harmonie」からハーモニエ派と呼ばれる。これはテーマと内容を一致させることによって其処となく湧き出る笑いを重視する。暗にテーマと内容を読者に意識させることで、皮肉も容易であるがあまりにもこの類の記事が発表され今は陳腐された感がある。
秀逸な記事にもハーモニエ派に属する記事が数々存在する。容易に面白い記事を作成できる反面、これに関連した記事の多さからよほど品質的に抜きんでた記事でない限り見向きもされないという欠点も有する。ハーモニエ派記事が面白い理由として、記事自身が社会のスケープゴートとしての役割を果たしている一面があると指摘している学者もいる。
~ ハーモニエ派 について、執筆者F
[編集] エキストリーム主義
日常の些細な事をあえて大げさに極端な状況にすることで社会の矛盾を指摘する事を主眼に置く。語源は「極限」を意味する英語のエクストリームからエクストリーム主義と呼ばれる。もはや、陳腐されており現在においてこの類の記事を出すこと自体はばかれている状況だ。
エクストリーム主義記事はある物、現象をエクストリーム・スポーツに見立てて書き、それぞれの行為一つ一つを得点として評価する。エクストリーム主義記事の面白さはこの得点評価にあるといっても過言ではない。笑いには「同情的笑い」が存在する。それは、ある事柄に関して同情つまり具体的には「ああ、そうだね」や「あるある」と思わせて笑いを誘うのである。例を挙げれば、「おじさん、暇なし、金なし、髪なし」である。エクストリーム主義記事はこの同情的笑いが多数得点評価にみられ、笑いを勉強する上でとてもいい材料である。
エクストリーム主義は事実を取り上げているがあえてそれを茶化し、風刺出来る特徴がある。これは笑いををとる上での常套手段で簡単そうに見えるが、同情的笑いを誘うのはベテランの執筆者でもかなりの修練を必要とする。だが、自らの力量を過信した新進作家たちによって乱用され、文豪たちによるエクストリーム主義記事が途絶えてしまい、倦厭されてしまう結果となった。エクストリーム主義記事は2006年から2007年に爆発的に増えたが、今は飽和状態にあるといえる。
~ エキストリーム主義記事 について、執筆者D
[編集] ルネサンス派
ここ2008年の動向としては中堅作家が記事を次々と発表し、質の大幅な向上が見られる。この流れを受けて昔のアンサイクロペディアを復興しようとする動きがにわかに活発化する。この一連の動きを一部の学者はルネッサンス(再生)と呼んでいるが、まだ現在進行形の事象なのでルネッサンス運動と決め付けるのは早計であるとする見方もある。
ルネッサンス派とは、記事自体は一見まじめそうでウィキペディアらしいが、よく読むとオチが満載されている記事のことである。つまり、物事を説明しながらその説明が馬鹿であったり、支離滅裂であったりする記事である。
だが、元々昔のアンサイクロペディア自体存在するか不明な点も多く、ただ単なるアンサイクロペディアのウィキペディア化と主張されている面もある。
[編集] オタク記事
日本語版記事の特徴のひとつとして、オタクに関する記事が異様に充実していることである。それは、アンサイクロペディアがネット空間に存在している為必然といえる。これは初期のアンサイクロペディアにも見られ、今でも一大ジャンルのひとつである。
だが、これらのオタク記事は充実している反面「閲覧数が多くなるほどメルド主義化する法則」が適用される。「閲覧数が多くなるほどメルド主義化する法則」とは、閲覧数とその記事がメルド主義になる確率が比例関係にあることである。オタク記事にメルド主義が多いのは執筆者の存在自体メルド閲覧数が多いほど、それだけ突発的な頭の脳内変化を起こした人たちが訪れる確率が高くなるからだ。