エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル

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エヴァンジェリン.A.K.マクダウェル (Evangeline A. K. McDowell) とは、14世紀前半から現在に至るまで、ヨーロッパアフリカ大陸北部、アラブ日本を中心とした世界各地に伝わる伝説的な吸血鬼の名前。一部には実在説を提唱する学者もおり、諸説あるがミドルネームのA.KはAthanasia Kitty(不死の子猫の意味)といわれている。

概要[編集]

いわゆる吸血鬼の中でも明確に人物名が伝わっている一人である。吸血鬼伝説の中では、12世紀のアルクェイド・ブリュンスタッド(アルクェイド姉妹失踪事件)やヴラド・ツェペシュ公爵ワラキア領民怪死事件)と同じ種類の吸血鬼伝説に近い。ただし、その消息が現代の日本にまで及び、都市伝説までに発展している事は特筆すべき事項である。

このように、エヴァンジェリンの伝説は、500年以上にわたっていまなお流布され続けているという、ほかに類を見ない形での吸血鬼伝説である。

歴史[編集]

そもそも吸血鬼とは4世紀頃からバルカン半島に伝わる民間伝承であり、吸血鬼は民衆に恐れられていた。その後は欧州各地で流布されるようになり、西ヨーロッパでは、われわれ日本人でいう「鬼」や「物の怪」と同じ程度に畏怖されている存在であった。

その中で固有の名前をもつ吸血鬼の伝説が形成されてくるのは、12世紀頃、カトリック教区の中で急激に吸血鬼現象が減り始めたことにより、逆にそれらの伝承が統一あるいは洗練されて固有の名前を持つ個体としての意識が強調されていく過程においてである。

こうした背景をもって、エヴァンジェリン伝説は1400年代の後半から急激に流布されてきたのである。

14世紀後半から15世紀前半まで[編集]

15世紀に描かれた絵画、『闇の福音』。マクドゥール辺境伯の旧領ではサキュヴァスとしてのイメージが強く流布されている。

エヴァンジェリンの名が現存する記録における最古のものとしては、イングランドのマクドゥール辺境伯の家計図と手記である。それによれば当時、1441年にヴァレンタイン・マクドゥール辺境伯の次女として、エヴァンジェリン・アタナシア・キャサリン・マクドゥール (Evangeline Athanasia Catherine McDowell) の名前が家系図に残されている。マクドゥール家はアイルランド出身でありながら、イングランド王国に従属した貴族である。マクドゥール辺境伯は武官として優れた手腕を持ち、当時混迷していたアイルランド近辺の治安維持に努め、イングランド王国に忠誠を誓っていた。彼らは14世紀から15世紀にかけて行われた英仏間の戦争、いわゆる百年戦争において最前線で戦った一族でもある。

マクドゥール家は外様に近い立場ながらイギリス王国の陰の立役者でもあり、大航海時代にはアメリカ大陸で開拓民の指揮を担当した。なおパララケルス文明(四大文明に次ぐ新しい文明提唱)や本エヴァンジェリン伝説に詳細な論文を提出した、世界的に有名な考古学者瀬田記康教授の義理の娘であり、現東京大学准教授のサラ・マクダゥエルはその直系の子孫である。

当時すでに高い地位にあったマクドゥール辺境伯であったが、百年戦争でたびたび渡仏し前線で戦ううちに、前述した欧州各地に伝わる伝説や骨董品をいくつか持ち帰るようになった。マクドゥール辺境伯はこうした呪術に傾倒し、自らもいくつかの呪術を試行錯誤していたという記録が当時の家系記にある。また、1420年7月の歳出記録には大量の鹿の肝を、家財を売り払って購入した様が書かれ、家臣たちがそれを嘆く記述が残されている。マクドゥール辺境伯のこうした散財は、当時の家計を(その度合いは考察の余地があるものの)逼迫させていたと推測することができる。

またヴァレンタイン・マクドゥール辺境伯の倒錯振りを現す伝説として、各地で転戦しながら死んだ兵士の首や心臓を蒐集し、塩漬けにして現地に持ち帰っていたというものが存在している。こんにち伝わるエヴァンジェリン伝説に基づいた逆説的な噂と信じられてきたが、瀬田の研究によって、フランス北部の船造り大工の家系において、進駐していたマクドゥール家の男(おそらくはヴァレンタインの部下と思われる)が、大量の『塩漬け肉』を輸送できるような小船を急造するために発注した書物の現存していたことが判明している。この『塩漬け肉』がいったい何であったのかは、はっきりとしないが、上述の伝説を実際のものと主張し、それを人間の心臓であったと主張する学者も少なからず存在する。

こうしたバックボーンを持つ貴族の次女として生まれたエヴァンジェリンであったが、彼女は1425年の十歳の誕生日に忽然と姿を消す。またこの日、同時にヴァレンタイン辺境伯が「研究室」と称した地下室で怪死する事件が起き、マクドゥール家は騒然となる。

エヴァンジェリンは一切の家財道具を残して失踪しているが、唯一、小熊を模した大陸製の縫いぐるみだけなくなっていたと言う。最後にエヴァンジェリンを目撃したと称する家政婦の証言によれば、彼女はうつろな目でヴァレンタインの所在を聞き、それに対して家政婦は地下室の一隅にいると返答したということである。その後、地下室でヴァレンタインは胸部を獣の爪で引き裂かれたような裂傷からの大量出血により死亡しているところが、夕方になって発見されたのである。

この当時金髪碧眼で小柄な少女であったエヴァンジェリンは、将来王室に入る美姫として領内で知られており、父に寵愛されたため多くの伝説伝承に触れる機会があった。ヴァレンタインはエヴァンジェリンを溺愛しており、「王室へ嫁がずに、永久にこの姿でいてほしい」と、近臣にその愚痴を漏らしていたという。

その愚痴を溢すようになってから、ヴァレンタインがアラビアやバルカン半島に伝わる魔術、「真祖化」の第六秘術、および吸血鬼化の研究書などを大量に購入するようになったのは事実であり、結果的にこれがエヴァンジェリン伝説の引き金となったのだろう。父にかけられた秘術によって吸血鬼化した少女は、発狂しながらもそのまま生き永らえた、あるいは秘術が失敗して少女は死に、後にサキュヴァスに変幻した、などと言った伝説がまことしやかに囁かれるようになる。決定的であったのは当時流行していた黒死病が、マクドゥール家が侵攻したフランス領内で大流行し、多くの死者が出たことである。医術が未熟であった当事、死者と勘違いして危篤患者を埋葬してしまうことは多々あり、その埋葬者が息を吹き返して墓から這い上がってくるさまが、あたかも伝承の吸血鬼であるかのように語られていた。吸血鬼伝説の根源のひとつである現象が侵攻先で起きたことにより、マクドゥール家の異端術が領内で流布され、エヴァンジェリンは吸血鬼として畏怖されるようになったのである。

こののちヴァレンタインの弟が家督を形式的に相続したのち、長女を王室へと継がせることと長子へ正式に家督を継がせることで、混乱の波及を防いだ。また吸血鬼に類する噂を公式に否定したものの、エヴァンジェリン伝説はすでに噂の域を脱してしまい、以後現代に至るまで語られる伝説となるほどに、一人歩きをするようになるのである。

これが現在推測されるエヴァンジェリン伝説の起源といわれるものである。

15世紀中盤から後半まで[編集]

旧ワラキア領内に伝わるエヴァンジェリンの肖像画。吸血鬼の一般的なイメージを色濃く反映している。

14世紀後半においてエヴァンジェリンに関する特筆すべき事項としては、ヴラド・ツェペシュのワラキア領内で起きた、領民の虐殺事件がある。

『串刺し公』として有名なヴラドは「竜の子」の意味である「ドラクリア」の異名を持ち、のちにブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』のモチーフとなった人物でもある。

ワラキア領内に限らずヴラドの領内では賤民貴民の差なく、多くの人間が串刺しにされて処刑され「串刺し公」などと呼ばれていた。無論、これはオスマントルコ帝国から領地を護るための政策であり、残虐な処刑方法も風紀を護るために重要な方策であったのだが、これらの事例から、多くの奇聞や風説が流布される事となった。その風説の中にエヴァンジェリンと絡む伝説が存在する。

それによれば1460年頃のとある夜にワラキア領内で大量の領民が失血死、あるいは惨殺されて村が壊滅状態になる事件が発生した。この被害のなかで二名の金髪の男と、背の小さい女が戦っていたという記録が残存する。吸血鬼の第六法を開発したとも、故国を護るために不死の命を得たともされるヴラドの領内において、彼女は何かを求めて彷徨したのではないかと噂される一方で、ヴラドの残虐さに共感した陶酔的なものではないかともいわれる。

この事件にはローマ・カトリックが介入し、教会側の被害報告によれば、構成員である錬金術師とその従者の二名が殉死したとの報告がなされているのみである。しかし、当時極秘行動であったにもかかわらずこの事態が公開されていることに関して、吸血鬼事件に対する教会の姿勢には若干なぞめいたものがある。しかし、これはエヴァンジェリン討伐の一環であったとすれば、その被害を正確に喧伝することによって教会のストイックな面を強調することにもなり、いまだ22体に及ぶ吸血鬼を討伐しきれないローマ側の政治的意図が少なくとも存在すると言われている。

このとき、ズェピア・エルトナム・オベローンという名前が人々の間で概念的に伝承されているものの、それに該当する名前がこれ以外現存していない(文献・伝承双方においても)ため、詳細は不明である。

この時期、ローマ・カトリック教会から吸血鬼に対する敵対宣言(駆逐すべき存在であるとの、異例の敵対認識)とともに、処分すべき27体の吸血鬼として、エヴァンジェリンはその中に名を連ねている。当時討伐対象となっていた吸血鬼は23体であり、エヴァンジェリンはその中ではブリュンスタッド姉妹と同等かそれ以上の実力を持つ、吸血鬼および「魔法使い」と認識され、討伐令が正式に出されている。

この虐殺事件の後、ワラキアの夜と称される吸血鬼がローマ・カトリック教会によって出された。1400年代にジャンヌ・ダルクをイギリス王国が捕らえ処刑して以来、再活性した魔女裁判に三たび火がつく結果を生むこととなった。

1544年、フランス・アルプス地方の小村おいて、20年以上外見が変化しないという10歳程度の少女が捕獲され、魔女裁判によって処刑された記録が残っている。その記録によれば、少女は「エカテリーナ」とだけ名乗り、金色の髪をしていたという。また、緑髪の小さな操り人形をつれ、時に腹話術をしながら日銭を稼いでいたとも伝わる。少女は20年以上たっても成長が見られず、外見が変化しないことを村民たちは不安がっており、また領内で黒死病による死者が続出した背景もあって、彼女を「魔女」あるいは「吸血鬼」と認識(現代からすれば錯覚)し、処刑してしまった。

しかし一部の心ある村民が彼女の遺骸を集めて棺桶に入れて埋葬したという逸話が残っている。「ゼロ」と名づけられた操り人形との劇を見て幼少の頃を過ごした青年がその主催となり、支配者に見つからないように遺体を集めた。村人たちはわずかな資金を出し合って棺桶を自ら製作し、遺骨と切断された彼女の頭部を納めた。しかし翌日になって見てみると棺桶は空になっており、村人は首を傾げたという。魔女裁判を行った地区での事件でありながら、埋葬に携わった村人が恐慌状態に陥った記録が残っていないことなどから、一部では墓が荒らされないように秘匿されたと言われるが、多くの人はエカテリーナを不死の魔女と信じ、エカテリーナという名の魔女が、復讐のため満月の夜空を飛びかっているという伝説が今なおフランス北部の農村に強く残っている。この伝承は、金髪の少女という点、エカテリーナ (ECHATELINA) という名前がKittyのアラビア表記と一致するといった点から、前述のワラキア領内と同様にエヴァンジェリン伝説の一部となっており、瀬田やその弟子である浦島景太郎も論文内において強く一致性を主張している。

16世紀から18世紀前半まで[編集]

瀬田が発見した、レーベンスシュルト城壁

この間エヴァンジェリン伝説は欧州において進展は見られない。16世紀中期には民間で寝付けない子供に「闇の福音(エヴァンジェリン)がさらいに来る」といって脅すといった、われわれ日本人にとってのなまはげのような存在になっていたようである。

16世紀後半からエヴァンジェリン伝説は大航海時代に合わせて世界的に展開し始めるが、16世紀から18世紀の間では主に暗黒大陸(アフリカ大陸)、あるいはそれに属する島嶼において伝説が存在する。

それによれば、エヴァンジェリンは南海の孤島(当時の南海の概念では大西洋の島嶼のいずれかであると推測されている)に、レーベンスシュルト城と称される城砦を築き、吸血鬼と化した化け物を幾重にも従えて「国主」として君臨していた、ということである。この地を求めて何人かの航海者たちは渡航したが、渡航者はいずれも戻っていない。多くの行方不明者を輩出しながらも、エヴァンジェリン伝説はこの200年間、大きな変質は見られずに「暗黒大陸の島嶼、あるいは奥地において金髪の吸血鬼がいる」「それらは多くの勇者を殺めては血祭りに上げ、夜毎宴会を開いている」といった、多くの化け物の類に数えられている。

しかし1997年、イギリス政府と日本の東京大学の共同チームによる発掘調査により、カメルーン共和国沖にあるサントメ=プリンシペ領内の無人島において、中世の城砦と思われる遺構と城壁が残存した状態で発見された。この城砦こそレーベンスシュルト城であると瀬田は主張するものの、外壁部分と基底部分を除いて、まるで切り取られたかのように存在していない状態であり、やや苦しい部分も見られる。

一方、宗教上ではローマ・カトリック側もプロテスタント側の対立が激化し始めたこの時代において、吸血鬼に対して打つべき手数を減らしている状況であり、おいそれと手を出せなかったのも事実である。こうしてこの頃に、吸血鬼伝説はほぼ洗練されきっていくのである。

18世紀中盤から20世紀まで[編集]

インドのプロテスタント教会に残存するエヴァンジェリンと思しき人物像。アジアの一部地域では吸血鬼ではなく、子供を危機から救う、優しい女性であると伝承が残っている。

その後、エヴァンジェリンと思しき少女の伝説は世界各地に飛び火する。レーベンスシュルト城の伝説はいまだ存在しながら、アジアを中心に彼女の目撃談やそれにまつわる死者などの報告、吸血現象は根強く残るようになる。これらを統括すると、エヴァンジェリンは何らかの方法をもってレーベンスシュルト城からアジアを渡り歩いたのではないかといわれている。

まるで裏付けるように伝説は、ロシア南部モンゴル中国(明、清)インド亜大陸マレーシア、そして日本にまで及んでいる。

日本には確たる文献がないとされていたが、1900年ごろ、大東流合気柔術の祖である武田惣角の門弟が書き記したとされる手記の存在が明らかとなり、考古学界を騒然とさせた。

その文献によれば、全国行脚中の惣角が小田原のはずれにある小さな寺で、一人の異人と戦った。金髪の少女は妖術や奇術を駆使し、惣角を翻弄した。惣角もこれに対して合気柔術で応戦し、激しく戦った。数合打ち合うのち、少女のほうから戦いを止め、自ら教えを乞うた。受け入れられた少女は瞬く間に合気道の才能を発揮し、三日のうちに合気柔術を完全に習得してしまった。果たして惣角は彼女に合気柔術ではかなわなくなってしまった、と。

文献内の端書において、少女の名前は「イヴァンゲリヌ」とのみ記されており、エヴァンジェリン (Evangeline) の表記の読みと一致する部分が多い。とはいえあまりに滑稽な内容であるため、こんにち資料価値はないと扱われてきたが、瀬田・浦島両氏の論文内で原本の暦年較正が行われたうえで、原本をある程度再現することに成功しており、この資料は看過できない重要な資料であると強く主張している。


現代[編集]

エヴァンジェリン伝説はしかし、2000年代に入ってからはそれらしい文献として残らなくなる。国連のNPO法人、「赤き翼」が彼女と思しき吸血鬼と接触したという報告が秘密裏になされていたといわれている。これは一部の関係者からのリークと推測されており、詳細は定かではない。これに関して当時「赤き翼」の一員であった神鳴流第23代目当主、近衛詠春は断片的にしかその情報を知らないとし、『ムー』などのオカルト雑誌のインタビューでは答えを濁している。しかし却ってこのことが信憑性を生み出すこととなっている。

こののち、2003年にはさいたまにある学園都市麻帆良において、同様の吸血鬼の噂が4月の上旬に流れることになった。それによれば魔帆良学園中等部の桜並木において満月の夜に吸血鬼が徘徊し、血を吸って回るというものである。実際に血を吸われたという教員の腕の写真がネット上にアップロードされ、一部コミュニティを騒がせた。

本人は吸血鬼にかまれたと主張しているが、イタズラの類と認識されている

噂自体は数週間で急速に終息するものの、エヴァンジェリンのイメージはこれまでのフォークロアから肥大化し、インターネット上でもミームのようなものになっていく。中には真夜中に童貞の男子の寝床に忍び寄り、エヴァンジェリンは足を突き出してきて自分の足をなめるように強要、もしなめると永遠に僕としてこき使われるというものもある。

同年の5月には京都市において同様の目撃談と大量の湖面温度の低下事件、あるいは怪光現象などを確認した天文マニアの写真もアップロードされるといった事件も起きている。

こうしてあまりに曲解され変形したエヴァンジェリン伝説は都市伝説と化している。

しかし2000年の美咲町における吸血鬼騒動ではアルクェイド・ブリュンスタッドらしき人物像と、エヴァンジェリンに近しい姿の吸血鬼も目撃されたといわれている。美咲町には多くの呪術伝説が残り、吸血鬼の目撃談、あるいは「真夏なのに雪が降る」「雪の中で白い猫や黒い猫を見た」といった噂が絶えず、学者の中にはこれをエヴァンジェリン伝説の波及ではないか、あるいはいまだ存命のエヴァンジェリンが何らかの呪術的行為をしているのでないか、と大真面目にかたる学者も存在している。

関連項目[編集]

参考資料[編集]

  • 瀬田記康『エヴァンジェリン伝説における資料群の再考』東京大学出版、2006年  
  • 瀬田記康『中世資料の再検討 マクダゥエル家の系譜』東京大学出版、2007年  
  • 浦島景太郎『現代日本に波及するエヴァンジェリン伝説』東京大学出版、2008年  
  • ポール・バーバー『ヴァンパイアと屍体 死と埋葬のフォークロア』野村美紀子訳、工作舎、1991年