サクマ式ドロップス

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サクマ式ドロップス(式マクサスプッロド)(サクマしきドロップス、しきマクサスプッロド)は、室町時代後期の頃から現代に至るまで紆余曲折を経ながら発売され続けている飴菓子である。正確には喧嘩した兄弟が別々の会社でつくる「サクマ式ドロップス」(通称:赤缶)と「サクマドロップス」(通称:緑缶)のふたつがあるのだがでもそんなの関係ねえ!!

歴史[編集]

戦国時代[編集]

再現された当時の丸薬。現代の色使いとは若干異なる。

信長公記』によれば、織田家に仕えた武将佐久間信盛が携帯用兵糧として発案した丸薬が元祖とされている。兵糧の軽量化を目して開発されたものであったが、腹を満たせないと不評で実際に採用されることは無かった。一方で、その甘味から茶の湯の席のお茶請けとして重宝され、ナウなヤングにバカウケした。この功により、信盛は近江に知行地を得ている。

嗜好品として定着した信盛の丸薬は、ヨーロッパからの宣教師等によって食品添加物が伝えられたこともあり、それぞれに赤・緑・黄色などの着色が為されていたという。しかし千利休が提唱した侘びの世界観や、最近ちょっとだけ話題のロハススローフード志向に傾倒した信盛は、後年これらの着色を全て黒糖(遺伝子組み換えでない)による黒褐色に統一した。

これが主君であった織田信長の趣味に合わず、特にハッカ味が消えたことに怒った信長は信盛を南方に追放してしまった。信盛の最期の地となった紀伊国(和歌山県)には、東京の人があまり知らない銘菓「那智黒」があるが、これが当時の信盛の飴に最も似ていると言われている。わっかるっかなぁ、わっかんねぇだろうなぁ。

江戸時代[編集]

信盛の追放後、佐久間家は一度断絶した後に旗本として再興した。信盛の丸薬も復活し、佐久間氏の専売特許であることを示す為に「佐久間式」を称するようになった。

水戸藩主の徳川光圀も愛顧していたとされており、食べ終えた後の缶に漆塗り・箔押ししては各所で見せびらかしていたという。『水戸黄門漫遊記』でもこの逸話が使われており、有名な「この紋所が目に入らぬか」の決め台詞とともに出されるようになった。ただし、TBSでのテレビドラマ化された際には、スポンサーの関係から缶が印籠に差し替えられており、この設定は現在でもこのままである。

時代が明治になって、武士から士族階級とされ領地を失った佐久間氏は、以後は製菓業者「サクマ製菓株式會社」として身を立てることとなる。

昭和時代[編集]

太平洋戦争中、砂糖の供給不足から製菓業はお上に廃業を申し付けられる。通算3度目の断絶であった。ちなみに、この頃までの名称は式マクサスプッロドであったが、戦後、糸田木娄攵子によってサクマ式ドロップスに改名させられた。

戦後、日本の菓子業界が米兵の配るギブミーチョコレートに席巻されていることに危機感を抱いたサクマ製菓の旧社員らは、佐久間氏の末裔を探し出して擁立、現在も続くサクマ製菓株式会社を再興させた。しかしこの時期製造ラインには不備が多く、後述する異物混入事件の原因ともなった。

砂糖も依然として高価(反アメリカ活動家が米兵のジープに混入させる用に大量に買い占められてことに由来する)であり、そんじょそこいらの貧民が容易く手を出せるものではなかった。しかし日本国内において大きくシェアを獲得し、これが日本においてヴェルタースオリジナルを特別な孫に贈る習慣が根付かなかったことの一因となった。米英の陰謀どおりに習慣を形成してしまった前述のチョコレート業界とは大きな違いを見せている。

分裂[編集]

購入者は観賞用・口に含む用・高くなったら売る用に最低3つは買っていく。おかげで在庫が簡単にはけたとか。

1950年、サクマ製菓はユニゾンシフトから発売予定であったアダルトゲームななついろ★ドロップス』とのタイアップを企画し、これのファングッズとして同名のドロップス缶を製造した。

しかし、高度経済成長期に伴うプログラマーやグラフィッカーの不足から同ゲームの製作が遅れに遅れ、サクマ製菓も大量に抱えた在庫に頭を悩ませた。そのため、当時の社長は同社とのタイアップを打ち切る方針を発表したが、この発表に社内外のエロゲ同好家たちは憤慨し、株主を動かして社長を退陣に追い込んだ。

サクマ製菓は後に缶の塗装色を緑に塗り直し(緑缶)、色彩による印象付けを行って「エロゲは危険なものじゃないよ」と全国の少年少女に訴えかけた。この啓蒙活動は功を奏し、現在の日本のヘンタイ文化の形成に大きく寄与した。2007年に『ななついろ★ドロップス』がようやく発売されたとき、そういった文化に触れて大きく育ったお友達がそれらを買い漁っていったことも、それまでの活動の成果と見なされている。50年前の食品の消費期限がどうとかは、ここではどうでもいい話だ。

一方で、追い出された側の経営陣は元祖と本家を自称し、ソビエトロシアの支援を受けて新たに「佐久間製菓株式会社」を設立している。佐久間製菓は創業当時の味を守り続けているが、そのせいか時代が進むにつれてパッケージがどんどん古めかしくなってゆく不思議な現象が起きている。これについては共産主義の限界であるとか、後述の女児の怨念によるものであるとか、U.N.オーエンは彼女なのかとかなどの憶測がきっと進んでいるものと思われるが、まだ『ムー』にも特集されていないのが寂しい。

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現在のフレーバーは、前述の『ななついろ★ドロップス』の初回特典用に作られたものが基である。ただし、同ゲームの発売はその先50年遅れることとなり、実質的な関連はあまりなくなっている。また、本来は原作を模してのフレーバーにする予定であったものの、当時の技術的な問題もあってか無難なフルーツアソートとなった。

初期のフレーバーは「いちご」「レモン」「オレンジ」「パイン」「メロン」「ハッカ」「ぶどう」「コーヒー」であった。……あれ?七色じゃないような?でもそんなの関係ねえ!!

サクマ製菓(緑缶)は近年になって、これに「りんご」「すもも」のフレーバーを追加、「ぶどう」「コーヒー」を廃止した。おそらくは件のエロゲがちゃんと発売される見込みが立ったことに由来しているとされるが、どうしてアスパラ味が実現しないままなのかはわからない。

フルーツアソートにも関わらず入っているハッカ味の異彩さは常に注目を集め、その動向に誰もが一喜一憂した。織田信長もハッカ味を珍重していたことは有名で、佐久間信盛に突きつけた『19箇条の折檻状』において、ハッカ味を失った悲しみを28行に亘り書き連ねていた。一般的にお子様には不人気だったものの、大人気取りのお子様には「大人の味」として妙に人気があり、2ちゃんねる上でもしょっちゅう「俺にはスーパーハッカの知り合いがいる」と自慢するお子様が後を絶たなかった。これを利用して、1980年代においては中二病診断にも用いられていた。

異物混入事件[編集]

少女の亡霊が出ると噂される缶。(写真はイメージです)

1945年、終戦間もなくの兵庫県西宮市で4歳の女児が、製品の缶に混入していたおはじきを口にするという事故が発生した。女児は翌日に栄養失調により死亡した。

この事故は長らく隠微されてきたが、フリーライターの野坂昭如が1963年に発表した業界告発ルポ『火垂るの墓』によって世間一般に知れ渡ることとなる。遺族が不在であったことから補償などは行われなかったが、この事件以降サクマ式ドロップスの売り上げが低迷した。単に安価な飴菓子が増えたからという意見もあるが気にするな。

その後、この事件を基にした都市伝説が生まれており、2000年頃から「サクマ式ドロップスの缶に少女の顔が浮かんで見える」という目撃談が多発し、皮肉にもこの影響でサクマ式ドロップスの売り上げが若干上向いている。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • さくまあきら『さくま式人生ゲーム』(1998年 タカラ


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