シュヴァルの理想宮

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「シュヴァルの理想宮」の項目を執筆しています。

シュヴァルの理想宮(-りそうきゅう)とは、20世紀初頭、フランスのオートリーヴに建てられた建築物。伝統的なフランス合理主義とは相反する外観を持つが、現在ではフランス史における合理的経済の象徴的な建物であるとして、国の重要建築物になっている。

建設経緯[編集]

発端[編集]

1879年、フェルディナン・シュヴァルが、突如として取り憑かれたかのように日曜大工を始めた。不審に感じた家族が聞くと、「自分の手で一軒家を建てる」つもりなのだと語った。オートリーヴの郵便配達夫であったシュヴァルには、当然、建築についての知識などなかった。また、資材も真っ当なものではなく、適当にどこからか拾ってきたような使えそうもないものばかりであった。

もっとも、シュヴァルがこのような一見奇行とも思える仕事を始めたのも、当時のフランスの世相を考えれば無理からぬことであった。というのも、1871年の普仏戦争敗戦により20億フランもの賠償金支払いが義務付けられたフランスは、八年が経過した1879年になっても深刻な不況を克服できていなかったのである。そればかりか、1875年に発足した第三共和制政府は、徹底した経済の合理化を断行、それに伴って政府関連企業も次々と整理されていった。郵便事業とて例外ではなく、煽りを受けて容赦なく民営化されたのである。独立行政法人の座にふんぞり返り、驕りまくっていた郵便局員たちであったが、民営化されてしまったとあってはそうも言っておられず、抜本的な体質の見直し・改善、さらにはサービスの向上や多角化など戦略的な経営方針への転換を余儀なくされた。そうした努力も空しく、不況の影響もあって郵便局の経営は苦しい状態が続き、ついにリストラや給与減額に踏み切らざるを得なくなっていたのである。退職こそ免れたシュバルであったが、大幅な給料カットによって、妻と子どもを食べさせるのが精一杯という状態であった。1879年で43歳となっていたシュヴァルにとって、夢のマイホームを手に入れるには自ら造り上げるしかなかったのであろう。

苦労[編集]

まずは資材集めから始めたシュヴァルであったが、田舎の小さな村ということもあり、彼のマイホーム建設の噂はたちまち広まった。数日後にはシュヴァルの職場にも話は伝わったが、それを聞いた上司や同僚たちはシュヴァルをからかい、時には工事現場まで冷やかしに来ることもあった。シュヴァルはそんな心ない仕打ちにも負けず、ただ黙々と一人で必死に土地をならし、石を積んだ。しかし、後に彼の孫が語ったところによると、理解を得られない孤独からを呷り、悔し涙を流すも多かったらしい。

建設開始から一年が過ぎ、やがて家の基礎部分が出来上がり少しずつ完成像の輪郭が現れてくると、周囲の人間の態度に変化が起きてくる。なんと、飲み物を差し入れたり工事を手伝ったりするようになったのである。郵便局の同僚たちだけでなくオートリーヴの村人たちも、シュヴァルを労い、笑顔で工事を手伝った。彼らは、表面ではシュヴァルを冷眼視つつも、内心ではシュヴァルの適応能力やMOTTAINAI精神にいたく感動していたのだという。経営不振や薄給にもめげず、ひたむきに日曜大工に勤しむシュヴァルの後ろ姿は、どんな言葉よりも雄弁に彼らに語りかけ、心を強く揺さぶっていたのである。

多くの協力を得て工事は着実に進んだ。そして、ついにあと少しで完成というところで、シュヴァルの同僚が次のようなことを言ったのである。

「なあ、フェルディナン。どうせならもっと大きい宮殿みたいな建物をおっ建てて、世間の皆をあっと言わせてやろうぜ。俺たちならきっとできるさ」

元来ノリの良い性格をしていたシュヴァルは、目を輝かせてこの提案に乗った。こうして、建築士はおろか設計図すらもない、ズブの素人たちだけの宮殿建設が始まった。

一軒家から宮殿へ[編集]

宮殿を目指すとはいえ、シュヴァルたちに余財はなく、高価な大理石や金銀宝石をあしらった装飾などは望むべくもなかった。そこで彼らは、見た目がきれいな岩や面白い形をした石を拾っては建設現場に運び、宮殿の飾りとした。工事に携わった多くの人はそれぞれに職を持っているため、建設はもちろん石運びも仕事が終わってからの作業であった。仕事で疲れた体に鞭打っての無償の仕事であったが、彼らは誰一人文句を言わなかった。難題に直面すれば皆で考え、宮殿をより良いものにするために皆で工夫を凝らした。ただ単純に楽しく、そしてやり甲斐があったのであろう。

しかし、1894年にはシュヴァルの娘アリスが病気で他界するなど、 全てが順風満帆だったわけではなかった。それでも、建設作業員のリーダーとして、シュヴァルは娘の葬式の日以外は決して作業を休まず、他人の前で泣き言を言いもしなかった。そんな彼を見た他の作業員の中には、「あいつは娘よりも宮殿の方が大事なのか」とシュヴァルの正気を疑う者もいたらしい。しかし、そうではない。アリスを失った瞬間から、シュヴァルにとってこの宮殿は最愛の娘への最後の贈り物であり、墓碑としての意味合いをも持つようになっていたのである。

それから二年後の1896年、シュヴァルは29年勤め上げた郵便局を退職し、いよいよ宮殿建設に専念する。1899年には宮殿の東の正面が完成。この時点で、起工から実に二十年が経っていた。この頃には既にベテランの貫禄すら身に付けていた作業員たちは、宮殿に遊び心を反映させていく。フランスが植民地を拡大させていたこともあり、世界中の色々な建築物のデザインを模倣し、宮殿を彩ったのである。それは宮殿各所の名前にも表れており、刻んだ女性像をミイラと呼んだりもしていた。

完成とシュヴァルの死[編集]

一緒に石を積んだ仲間が相次いで死んでいくなど、幾多の困難と悲しみを乗り越え、ついにシュヴァルは宮殿を完成させた。竣工は1912年で、シュヴァルの同僚や村人といった最初期の建設仲間は、そのほとんどが落成を見ることなく他界してしまっていた。ただ、元はと言えば長年の夢であったのは宮殿でなくマイホームだったので、シュヴァルはそこに住むことを望んでいたらしい。実際に住むことはなかったが、その理由としてシュヴァルは晩年に「皆が手伝ってくれたからこそ完成させることができた。私個人の住居とするなんておこがましいよ」と語っている。もっとも、建設中から宮殿はフランス中で話題となり好奇の目にさらされていたので、住みたくても住めなかっただけだとも言われる。シュヴァルは宮殿に名前を付けなかったが、いつしか誰からともなく理想宮と呼ぶようになった。

1924年、シュヴァルは88歳で亡くなった。家族と共に宮殿に葬ってほしいと願っていたが、村の教会に反対されて叶わなかった。世情に翻弄されて宮殿(元マイホーム)を建て、最期の願いであった埋葬も世情によって拒否されたというのは何とも皮肉なことである。

評価[編集]

シュヴァルの死後、詩人であるアンドレ・ブルトンという人物が、シュールレアリスムの立場から宮殿を激賞した。1969年にはフランス政府が理想宮を文化財として登録した。しかしこれは、シュヴァルが19世紀当時の政治や経済などの国策に迎合するような活動をしたことに対する評価であって、建物自体を評価したのではない。要するにジャンヌ・ダルクと同じで、民衆の手本になるような人物であるとしてシュヴァルを持ち上げ、国民の愛国心向上のために利用したに過ぎない。この場合の「民衆の手本になるような人物」というのは、「政府にとって都合が良い人物」を意味している。

1971年に大規模な修復工事が行なわれ、理想宮は現在は一般公開されている。その割りには完全に崩壊した部分も少なくないという。

関連項目[編集]