トマス・アクィナス

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トマス・アクィナス(Thomas Aquinas、1225年頃 - 1274年3月7日)は中世の哲学者神学者ドミニコ会に属し、スコラ学の大成者として知られる。

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暗い青春[編集]

聖トマス・アクィナスの御姿

アクィナスは南イタリアの貴族の子として生まれ、モンテ・カシノ修道院の院長であった伯父の跡を継がそうとする両親によって5歳にして修道院に入れられた。13世紀のイタリアにタイムスリップしたらしいウィキペディアンによれば、当時の貴族にとって聖職者への道を選ぶことはよくあったようだが、その大方はアクィナスの場合と同じく、本人の意思ではなかったろう。「母上様、お元気ですか、ゆうべ杉のこずえに明るく光る星ひとつ、みつけました」等の涙なしには見られない記録が残っている。

アクィナスは、親元を離れた寂しさや、時に厳しすぎる戒律の息苦しさに耐え、自らの鬱屈した感情を学問への熱意に変え、日々刻苦勉励した。毎日のように図書室に通い、鎖のついた分厚い書物を読み漁り、それらを全て記憶し、あとで暗誦して理解を深めた。毎日の勤めも欠かさず、誰よりも早く、多くの仕事をこなした。夕食後に若い修道士の間で交わされる卑猥な冗談に耳を貸すこともなく、自室でに祈り、決まった時間に寝た。修道院から大学に入ってからも常に模範的修道士として振舞う彼は、しばしば周囲から「がり勉」「異星人」「面白みが無い」等の罵声を浴び、その他にも陰湿ないじめを受けた。彼はその場では平静を装っていたが内心傷ついており、そのストレスのために同年代の者の中で一番早くハゲた。それがまた嘲笑の対象となり、比較的分別のある者もあざ笑いはしないまでも「あ、若ハゲやこいつ」という視線を彼の剃髪部分の不自然に広がった頭頂部に向けた。そういったもろもろに耐え、そのストレスでますますハゲるという悪夢のごときスパイラルに陥ったアクィナスは、ついに限界を感じ、人との交わりを避けて地下の図書室にこもった。書棚とテーブルの間の往復を除く運動を怠ったためだらしなく太り、日光をほとんど浴びないため青白くなった彼の体は実に醜悪で、不健康な生活を送る負い目から毎夜自ら鞭打ったために全身紫色に染まっていた。そんな彼を一冊の書物が救った。

それは「禁書」の棚にあった、ドミニコ会の教えを記したものであった。ドミニコ会といえば、ローマ・カトリック教会から見ればごろつきのようなもので、後にベルナール・ギーをはじめとする冷酷かつ見方によれば非常に優秀な異端審問官を輩出したことで知られる。アクィナスは不思議に魅惑的な背徳感と共にその書物を手に取り、目くるめく思いでページを繰った。一枚の挿絵が彼の心を捉えた。燃え盛る炎、そびえる3つの十字架、その上のすさまじい苦悶の表情。その描写は性格かつ臨場感にあふれ、肉の焦げる音や、群集の叫びが聞こえてくるようだった。これまで散々自分を理不尽に痛めつけた誰やかれやの顔を思い浮かべ、それを十字架の上に据えるのを想像すると、アクィナスの顔はほころび、心はえもいわれぬ恍惚感に満たされるのだった。にっくきあいつらに上から好き勝手に難癖を付けて、まとめて火にくべてじっくり眺めてやれたらどんなによかろうか。そして彼は心に決めたのだった。「そうだ、ドミニコ行こう」と。

彼の決断は当然ながら親に受け入れられなかった。両親にしてみれば、穏便に親戚の跡を継いでくれればよかったのに、いきなり不良になると言われたようなものだ。困った彼らは策を弄し、修道院でアクィナスが最も不自由していたであろうものを与えることにした。である。嫌がる彼を無理やり修道院から生家である豪邸に連れ戻し、軟禁状態においた上で、当時その辺りではとびきりの美人の高級娼婦を呼んだ。取っ組み合い、様々なテクニックが用いられたようだが、朝が来ると部屋から出た彼女は大きく首を振った。なんと、うちの息子は不良の上に種無しと来たもんだ!両親には、もう一度説得を試みる気も起きなかった。種無し野郎は意気揚々と、イタリア・ナポリからドイツのケルンへ向かった。

オラは人気者[編集]

晴れてヤンキーもといドミニコ修道会の会員となったアクィナスは、清貧の精神を叩き込まれ、物乞い…ではなく托鉢で暮らすようになった。それだけでもカトリックの信者だった頃に比べ落ちぶれたものだが、彼の師匠がよりにもよって「祈り、働け」の時代に機械に興味を持ち、錬金術にうつつをぬかす、異端すれすれのドミニコ修道会の中でも札付きのワル、アルベルトゥス・マグヌスであったから、彼の不遇の生涯は決まったも同然であった。実際、アクィナスは1277年パリで異端にされかかっている。が、このとき、この大変人の師匠は八十をとうに越したジジイのくせにドイツのケルンからフランスパリまで徒歩で駆けつけ、審問官を論破して弟子を救ったのである。怪物である。

ともかくアクィナスは変な環境の下で着実にそのまじめな性格を変容させ、やくざ者としての素養をひとつひとつ身に着けていった。彼は決して働かず、とっぴな学問に熱中した。学問に熱中して座ってばかりいたためアクィナスは肥え太り、その腹を収めるために机を刳り貫くことが必要となったほどであった。とっぴな学問の中では特にアリストテレス哲学に大変ご執心で、後年その哲学とキリスト教の教義をごっちゃにした大著『神学大全』を発表する。元々学問を好み、優等生であったアクィナスは、1252年にパリ大学の学位取得を試みた。しかし、名門からインテリヤクザを輩出することを懸念した大学側に断わられたため、やむなく彼は執拗かつ巧妙な恐喝によって目的を達成した。彼の巨大な体躯が与える威圧感についてはいうまでもない。この出来事により彼はその道に名を轟かせた。彼は似たような手法を用いてパリ大学教授の資格を取得し、ドミニコ会総会代表の座をも手にした。その後ローマに移り住んだものの、教皇ウルバヌス2世直々の「ねえ、貴方、あの、お願いだからどっか他のとこ行ってくれませんか。そこで何でも好きなことしていいから。頼みますよ、ホントに」との願いにより、故郷のナポリに移住し、著述に専念することにした。ドミニコ会入会当初の目標であった異端審問官就任は、とうの昔に忘れていた。

ナポリの人々は、ケルンやローマでの彼の評判をよく知らなかった。だから彼がかつていたモンテ・カシノ修道院で飯にありつくための公演を行い、トレードマークとなった太鼓腹をゆすりつつ青春時代の苦い思い出やドミニコ会入会後の傍若無人な振る舞いをありのままに語るのを、ただの冗談および自虐ネタと受け取り、大いに愉しんだ。彼のコメディアンとしての名声は遠方フランスまで知れ渡り、アクィナスはフランスで講演旅行を行い、各地の修道院や公会議で演説をぶった。彼が一言しゃべった途端に、厳粛であるべき場に笑いの渦が沸き起こった。公演を重ねるうちに、聴衆の中には彼が出てきただけで笑い出す者も出てきた。その名演説は後にまとめられ、彼の死後の1369年、これを読んだアビニョン教皇ヨハネス22世が「こんなに自分のことを間抜けに書ける奴は、馬鹿聖人かどちらかだ」と発言し、アクィナスがその場のノリで聖人に認定されるきっかけとなった。

アクィナスの代表作であり、スコラ学を大成したものとされる『神学大全』もこの講演旅行の頃書かれた。「スッコラスッコラホイホイホイ、スコスコパカパカソーレソレ、天ニマシマス神サンガ、ズンドコドンドコスットントン」という難解かつ深遠な冒頭の文句を知らないキリスト者はいないことと思う。

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1274年3月7日、フランス・リヨンの公会議に一発ぶちに行く途中で体調不良を訴え、近くの修道院で休養していたアクィナスはついにその生涯を終え、神の御許へ召された。ここで普通ならば彼の体はドミニコ修道会へ引き渡されるところだが、運の悪いことにそのとき彼が泊まった修道院というのが、ドミニコ会よりさらにたちの悪いイカレ野郎の集まりであるシトー会であった。彼らはパナウェーブばりの怪しい白装束でアクィナスの遺体を取り囲み、彼ら固有の儀式を執り行った。まずおもむろに」(ヘタを切り離し、体を2つに裂いて、油を引いた大鍋の底に厳かに安置し、その上に味付けした大豆ペーストをば加え、静かに待った。煮つまってくると、白装束の修道士達はアクィナスのために合掌し、祈りの言葉を唱えた。「イタダキマス」と。

彼をその胃におさめた修道士達は、途端に肉欲を忘れ、その後も迷うことなく神に仕え長生きした。その故事を今に伝えることわざが残っている。「アクィナスは嫁に食わすな」理由は言うまでもない、種無しだからだ。

関連項目[編集]