ドナウの呪珠

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ドナウの呪珠(どなうのじゅじゅ)とは、拾い上げた勢力をすべて呪い倒した恐るべき宝石が刻んできた歴史である。1000年ずっとハンガリー人と共に歩んできた。

中世[編集]

ハンガリー人はアジアからやってきた遊牧民族を起源とする。9世紀頃現在のハンガリー領内に至り、アールパート朝を建てた。彼らは異教を奉じて西洋社会を道徳的に破壊するカルト教団の国々を圧迫した。カルト教団は彼らを魔邪有人と呼び、大いに恐れた。

カルト教団はあらゆる金、女、奴隷を積んでご機嫌をとり、1000年ようやっとイシュトヴァーン1世を自分たちの教えに改宗させた。カルト教団は自分の教えが聞き入れられたと歓喜したが、以降しばらくキリスト教勢力の勢いは止まった。

13世紀モンゴル人が西方からやってきた。モンゴル人は民族慣習に無知だったので、ハンガリーの方を先に攻めた。そのため呪いにかけられ、そこから先に進めなかった。16世紀にはオスマン帝国がハンガリーを征服したが、ハンガリーを領有したために、そこから先を征服することができなかった。

近世[編集]

やがてオスマン帝国は衰退し、ハンガリーはハプスブルク帝国のものになった。そして、帝国は大いに停滞した。

(近世以前を書き足してくれる人募集中)

1848年、ハプスブルク帝国に革命の波がやってきた。ハンガリーもコッシュートを指導者にして蜂起し、「どうじゃ、ジェルジ!」と独立を宣言した。ところが、ハンガリーが参加したために、革命の波はハンガリーの地から逆流し、挫折した。日本人東海散士はこのコッシュートの娘を自分の小説に出して、呪われた民族「匈牙利人」の赤い糸を一貫して語らせた。あるポーランド人はこのように歴史を総括する。

「我らの英雄コシューシコが1800年代、独立戦争に敗北したのは、呪いのハンガリー人とあまりに紛らわしい名前だったからだ。我らの名前がタデウシで、ハンガリーの名前がフェレンツだったら独立闘争は勝利に終わったのに」

戦後ハプスブルク帝国は国土を改編し、二重帝国(アウグスライヒ)とした。これは民族の呪いを避けるためだった。

ハンガリー人は都を築くために、ドナウ川に河をかけて二つの町を結び付け、1873年首都とした。これが現在の首都である豚ペストの起源である。オーストリアの啓蒙君主フランツ・ヨーゼフ1世はこの名前を聞いて大いに驚き、一緒の国にしておかなくてよかったと安堵した。皇妃エリザベートは慈悲を示そうとして体を崩し、暗殺されてしまった。

やがて第一次世界大戦が始まった。オーストリアはハンガリーの呪いを抱えていたせいで体裁ストがバーンと破裂して敗北し、ハンガリーを独立させることにした。

列強諸国は新生ハンガリーにトリアノン条約を結ばせ、300万人をハンガリー国外へ追いやった。これは東欧諸国に呪いのタネを巻き散らし、東欧諸国が一致団結するのを防ぐための巧妙な作戦だった。

大戦後[編集]

第一次大戦で敗れると、社会主義革命の波が起こり、クン・ベーラという社会主義者が社会主義のタナーチ共和国を建てた。ルカーチ・ジェルジは早速、教育大臣として性文化大革命を唱え、新たなる時代の始まりを宣言した。二人はソビエトのレーニンに政権の承認を求めた。

しかし、レーニンは「ハンガリーを味方につけた勢力は必ず負ける」という歴史の発展法則を熟知していたので、政権を承認せず、そればかりか反革命軍の支援まで行って革命を潰した。ロシア革命が成功したのはハンガリーを排除できたからである。

そのハンガリーでは間もなく、ホルティ・ミクローシュが全権を握った。ホルティは飾り物の国王をどこかから連れて来ようとしたがどの候補者も要請を拒んだので、ホルティは極東の政治史に学んで「摂政こそが最高権力」と宣言し、自分が最高君主となった。

ホルティはやがてムッソリーニヒトラーの思想に接近するようになり、二人に頼んでハンガリーの領土をどんどん拡大していった。晒しフェレンツという者が矢十字党を立ち上げ、手でキバールという地理学者がハンガリーの歴史的領土を主張した。そして、ハンガリーを味方に加えて、「ドナウの呪いから民族を救う」という前代未聞の大戦争」に踏み出すよう両国を誘った。それが最大の原因で、枢軸国は第二次大戦に敗れた。

冷戦[編集]

大戦で連合国の勝利が近づくと、チャーチルスターリンは東欧をどのように分割するかを巡り密談を重ねた。歴史に造詣の深いチャーチルは

「ハンガリーを味方にする者は皆負けるという呪いがあります。しかし、スターリン閣下、共産主義社会の新たなるプロジェクトとしてハンガリーを勝利者の側に入れるという試みに挑戦してみませんか?」

と持ちかけた。支配地域を広げることしか頭にないスターリンは、この提案を呑んだ。そして、ラーコシ・マーチャーシュを派遣し、社会主義リアリズムの名の下で民族の呪いを解き放ってやろうと偉大なる作戦を展開した。

だが、道半ばにしてスターリンは亡くなった。フルシチョフがスターリン批判を行ったのを発端に、ハンガリーでも批判運動が起こり、操り人形のラーコシは哀れにも追放された。そして、修正社会主義者のナジ・フェレンツが後任となった。

ナジは社会主義体制の不合理な規制を撤廃する改革を実施し、それを支援してもらうために西欧諸国に援助を請うた。だが、西欧諸国はこれを拒んだ。チャーチルらが「ハンガリーを支援すると冷戦に負ける」と叫んで反対したためである。改革は頓挫し、ソ連軍の戦車がやってきて改革は無効化される。日本の左翼大内兵衛は、この経緯について、「ハンガリーはまだドナウの呪珠から解放されていない。民主主義体制整備のために戦車突入はやむをえない」と評した。

ソ連は新たなリーダーとしてカーダール・ヤーノシュを派遣し、事態を監視させた。ところが、ソ連はハンガリーを隠れ資本主義国にしてドナウの呪珠を発動させる作戦を採ったため、比較的自由になり、ぐった煮スープと呼ばれる比較的寛大な政治体制が採用された。カーダールは他国でも同じような動きを育成しようとしたが、チェコ人などから「本当に支援したいのなら我々の改革に反対する声を挙げてくれ。そうすれば、ドナウの呪珠が逆発動する」と返答されたので、他国のことは気にせぬポーズをとった。

その後[編集]

社会主義体制はハンガリーの存在を最大の原因として1980年代以降崩壊した。そして10年後にはイラク戦争に関する論議が高まり、ハンガリーの態度に最大の注目が集まった。ハンガリーのオルバン首相が出した答えは「イエス」だった。そして、イラク戦争が始まり、珍しく勝利したが、ハンガリーの参戦ゆえに連合国軍の信用は大きく地に落ちた。

2004年にはEUに加盟した。すると、それを境目にしてユーロの信用はみるみる低下し、6年後にはハンガリー加盟が最大の遠因となって、ギリシアなどで通貨危機が起きた。ハンガリーは資金援助を申し出たが、資金が入ったらもっと事態が悪化するといわれたため、何もしなかった。ハンガリーの国債は実際のところ、ギリシアと同レベルのジャンク状態で水あめのようと評されている。

ドナウの呪珠は永久不滅である。他国人はこれを恐れ、今もハンガリー人だけ名字を先に置かせるようにし、自分が呪われぬよう民族区別を行っている。

関連用語集[編集]