パウル・フォン・ヒンデンブルク

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パウル・ルートヴィヒ・ハンス・アントン・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク(Paul Ludwig Hans Anton von Beneckendorff und von Hindenburg)は、ドイツヴァイマル共和国二代目大統領であり、超ジュラルミンでできた、人生のほとんどの期間がおじいちゃんであった軍人。

人生における三分の一[編集]

彼には貴重な若き頃。

ヒンデンブルクは1847年かのマルティン・ルターの血筋を引く没落貴族(ユンカー)の子として生を受けた。ギムナジウムで小学校教育を受けた後12歳で陸軍幼年学校に入学。18歳の時にフリードリヒ・ヴィルヘルム四世の後家であるエリーザベト王妃の近習を務め、純粋な彼はたびたび彼女の放つ大人の色気に耐えきれず鼻血を出していた。翌年卒業し少尉に任官すると、ビスマルク宰相の指導するプロイセン王国の中で彼の軍人人生は本格的な始まりを告げる。

二つの戦争に従軍した彼は1871年、ヴェルサイユ宮殿鏡の間で行われたヴィルヘルム一世のドイツ皇帝即位式に近衛連隊代表としてやや後ろの方に参加参加することを許された。軍人たちでごった返す鏡の間に設けられた台に立つヴィルヘルム一世の頭部は強く光り輝いており、内壁に敷き詰められた鏡による反射がまともに目に入ったヒンデンブルクはその場で卒倒し、その一挿話はヴィルヘルム一世の威厳を示すものとされた。1888年ヴィルヘルム一世が死去すると彼はを守る衛士の役目を勤める栄誉に浴し、棺を覗きこんだ際感極まって皇帝の口ひげをむしり取りポケットに突っ込むと、それっきり髭のことは考えなかった。その後着々と軍部内で昇進を重ねていった彼は一時期参謀総長の候補へ挙げられたが、結局は1911年に大将の位までとなって退役している。

はい、もう63歳。

のこり[編集]

英雄[編集]

1914年の第一次世界大戦の折りに65歳で現役復帰したヒンデンブルクは、東ドイツに侵攻してきたロシア軍を撃退すべく参謀長エーリヒ・ルーデンドルフと共に作戦の指揮を執ることとなった。闘いはルーデンドルフの巧みな作戦が功を奏しロシア軍数万人を殲滅するドイツ側の大勝利に終わり、追い詰められた敵将サムソノフも自決した。ヒンデンブルクは歳なのでお茶を飲んで居眠りをしていたところ途中ドイツ軍勝利の知らせが伝わり、ヒンデンブルクはタンネンブルクという村でルーデンドルフより早く「ドイツ軍勝利」の電報を送った。ドイツ人のブルク好きにウンザリさせられるエピソードであると言えよう。

ドイツへルーデンドルフとヒンデンブルクが凱旋すると、皆の崇拝の的となったのは主に作戦を練ったルーデンドルフではなくヒンデンブルクであり、国民にもてはやされることを期待していたルーデンドルフが隣を見るとヒンデンブルクは満面の笑顔でルーデンドルフと国民に手を振っていた。この老獪な65歳に情報操作をさせることなどわけないことだった。国民は彼を「タンネンブルクの英雄」と称し、さらに上級大将、陸軍元帥、参謀総長とうなぎ上りに出世し、記念に彼の名を冠した潜水艦(1915年進水、1919年浸水)も作られるが、参謀次官止まりにされたルーデンドルフがあまりにもかわいそうな眼をして彼を見るので実権をルーデンドルフに掌握させた。

1918年ドイツ革命が発生すると王制を守ろうとヴィルヘルム二世を国外退去させようとしたが、ヴィルヘルム二世自身は「余はもう疲れた」と勝手にシンボルマークのカイゼル髭を口から外し、皇帝をさっさと退位してしまったため、ヴァイマル共和政がここに誕生する。彼はヴェルサイユ条約に不満を抱き、1919年に軍役を再び退くも、既に齢70歳を数える年齢であったため皆からは心底慇懃に「お疲れ様、おじいちゃん。」と言われて終わった。

まさかの出馬[編集]

しかし彼はここで終わるつもりは毛頭なかった。「人生まだまだこれからだ」をモットーに1925年(このとき77歳、狂気の沙汰である)大統領選挙に無所属で突然出馬。周囲からは「ついに徘徊が始まったか」と心配の声が上がったが、保守派ブルジョワからの幅広い支持を受けなんとヴァイマル共和国二代目大統領に選出されてしまう。始めは安定を見せた政権だったが、1929年の大恐慌の煽りをモロに受けその対応にまごついた結果彼は焦り、その中成立したハインリヒ・ブリューニング内閣の少数与党議会を立て直すために議会を解散しては総選挙を行うという行動を取った。しかし結果的にナチ党とドイツ共産党の躍進を進めてしまい、内閣も閣外協力でやっと成り立っているような状態に陥る。そのためヒンデンブルクはヴァイマル憲法の抜け穴である大統領緊急令(半分独裁できる)を議院内閣制が機能しなくなるほど連続使用し、棺桶と独裁者に片足を突っ込む状態となった。

国家社会主義ドイツ労働者党台頭[編集]

ナチ党の党首。毛だらけである。

1932年の大統領選では国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)党首アドルフ・ヒトラーも出馬し、ヒンデンブルクが票の五割、ヒトラーが三割を獲得する。過半数の票を集められず決選投票で政権を維持したヒンデンブルクはどうでもいいような失策を問題にしブリューニング内閣に総辞職を言い渡すと、拒否権を持つはずのブリューニングが意外ととあっさり辞職したので彼のお気に入りであるフランツ・フォン・パーペン内閣を発足させた。

しかし7月31日の総選挙でナチス党は多くの議席を得て第一党となる。他の野党勢力も一貫してパーペン内閣の経済政策などを批判し、さらにはナチス党が図々しくも首相の座を求め、ヒンデンブルクがそれを拒否すると内閣不信任案を提出するなどふてぶてしい態度をとった。ヒンデンブルクのヒトラー嫌いは有名であり、「ペンキ屋、詭弁師、煽動家、ボヘミアの伍長、七三分け、チョビ、チビ」などやたらと種類の多い蔑称で呼び、対談した際などは84歳にして195.5センチの身長と体重90キロという体格で終始威圧し、隙あらば頭に被ったピッケルハウベで頭蓋を砕こうとするほどの気合を見せた。

血気盛んなヒンデンブルクにパーペンは軍によるクーデターという大それた作戦を持ち出して誘うが、軍部のトップであるシュライヒャーが動かないので断念し、今度はヒトラーと同盟を組んだ。シュライヒャーもヒトラーと連立政権を組もうとするも首相の座を渡そうとしないシュライヒャーとの連立をヒトラーは拒否する。しかし調子に乗ったパーペンは勝手にヒンデンブルクの息子オスカーと官房長官マイスナーをヒトラーと組ませ、ヒンデンブルクにヒトラーを首相に任命するよう毎日説得を続けた。ヒトラーを毛虫のように嫌っていたヒンデンブルクは当然断固拒否したが、連日の説得と眠気に勝てず「ンァ」と漏らしたところオスカーが「よく言ってくれました父上!」と部屋を飛び出していき、数日後ルーデンドルフから「売国奴」とだけ書かれた手紙が来た。

爆発[編集]

晴れて首相となったヒトラーは総選挙に打って出、ドイツ国会議事堂の火事を共産党のせいにしたナチ党は勝利を収める。国会ではヒトラーに権力を集中させた法案が平気で承認され、ヒンデンブルクの権力は著しく制限される形となったが、ヒンデンブルクはやる気無さそうにしているだけであった。ヒトラーは第一次世界大戦の英雄、ドイツ王国の象徴たるヒンデンブルクを政治的に利用しようと彼には慇懃な態度で接し、ある時右手を上げて敬礼しようとしたところ彼に引っ叩かれたため、「そう長くないだろうから」と次からはプロイセン式敬礼で接するなど配慮を見せた。

荼毘一片の煙。

1934年頃には彼の健康も相当悪化しており、たびたび昏睡状態に陥った。ヒトラーは手土産を持って見舞いに来たが、ヒトラーが面会に訪れる際は会話中であっても急に昏睡状態になったという。そして1934年8月2日、病院のベットの上でヒンデンブルクは突如発火し、爆発した。その時オスカーは

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「大変です!ヒンデンブルクが突然火を噴きました!本当です!これはどうしたことでしょう!ベットの上で燃えています!どんどん火の手が大きくなっています!炎がカーテンに燃え移りました!ちょっと、前の人どいて下さい!どいて、どいて!ああ、なんと見たこともない恐ろしい光景だ!最悪の事態だ!もう、言葉になりません!とても実況などできません!…」

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と大声で騒ぎ怯え、当のヒンデンブルクは他人の手など借りぬと言った様子で自分で自分を荼毘に付した。89歳だった。ヒンデンブルク爆発事件の知らせを聞いたヒトラーは早速彼の燃えカスを集めさせ、最後の政治利用として彼の棺を大統領の称号と共にタンネンベルクにある戦勝地の霊廟に担ぎ込み、ヨーゼフ・ゲッベルスに「お疲れ様でした、お疲れさまでした。」と彼の徳を称える宣伝を流させた。これ以降ヒトラーは本格的な独裁者の道を歩み始めることとなる。

また、この際、住友金属工業によって回収された遺体から、超々ジュラルミンが開発された。

関連項目[編集]

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