ピエール・キュリー

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ピエール・キュリー(Pierre Curie, 1859年5月15日〜1906年4月19日)はフランス物理学者で、キラキラした結晶、磁石、小型ブザー、元素同位体の収集に情熱を燃やしており、それがためにノーベル脳筋賞を受けた。彼の妻、マリア・スクウォドフスカ・キュリーアンリ・ベクレルは、いやいやながらも彼と賞を共有した。

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つつましいスタート[編集]

ピエールはパリで生まれ、父親に教育を受けた。数学と地理情報学にかなり高い適性を示し、物理学において数多くの輝かしい業績を残すのみならず、側宙の後に続けてバク宙を決めることができた。18歳の時、若いピエールは、サーカスの曲芸師として一花咲かせるという夢を抱き、熱心に取り組んだ。尊敬すべき雲の上の空中ブランコ乗りであり真性のペドフィリアであるジュール・レオタールのトレーニングを受けようとしたものの、レオタールは今日のお金で17フラン、つまり800,000 ユーロを求めた。残念ながら資金が足りず、ピエールは夢をあきらめて、退屈な古い研究室で働かなければならなかった。彼はぴちぴちのレオタードを着て逆立ちをしながら研究に励んだ。

若いピエールが科学について唯一関心を持てたのは、結晶と磁石に元々備わっている、不可解で美しい性質だった。彼はそういうものを、子供みたいなやり方でさんざんいじりまわした。ある科学者によって何かが何らかの形で発見されたことを科学界が認めるころには本人はよぼよぼの老人になっている、というのが世の常だが、ピエールの場合は若い頃にいくつもの功績を認められた。彼は磁石のコレクションをガスコンロで熱するとくっつかなくなることを発見した。さらに、拾った石を大きなハンマーでぶっ叩いたときに電気が流れたように感じることを発見した。これは驚くべきことであった。

ピエールの兄のジャックは、発見の瞬間に立ち会っていた。

「ピエールはいつものように岩の塊をめちゃくちゃにいじりまわしていました。何年もそんなことをしていたのです。彼は失神し、目を覚ますとその場にいた一人を殴りました。そして、電気による刺激を私に伝えようとして、叫び声を上げながら激しく痙攣しました。アホみたいに見えたので私は笑いました。今は分かっています、その一筋の電流がすばらしい可能性を秘めていたのだと。我々はそれをピエロ電気と呼ぶことにしました。われらがピエロによって発見されたからです」

「ピエロ電気」は19世紀においては一般的な呼称だったが、今は「ピエゾ電気」と呼ばないとみんなから間違いなく馬鹿にされる。ピエゾ電気はエレクトロニクス革命の革命的分野に革命的革命をもたらした。

感情教育[編集]

この時期、ピエールはパリ大学の奨学金を得て、何かが起きるまで物をいじくり続ける「科学的研究」を続けることができた。さらに、子供のための放課後のパフォーマンス集団『シルク・ドゥ・パトス』(哀愁のサーカス)の一員となり、曲芸への情熱を再燃させた。この団体のメンバーは子供達に全く愛されないことによって団結を深めていた。大学の研究所のみんなに知られている美しいポーランド人女性、マリア・スクウォドフスカを知ったのもこのころである。 ピエールは恥じ入り、委縮し、社会生活に支障をきたすほどのぼせあがった。彼は次のように書いている。

「なんてことだ!彼女の膝ときたら!大学への道を自転車で疾走する天使だ!男子学生が彼女を目指して群れをなし争っている!ああ、彼女と並んで走れたら何でもするのに!彼女の目に留まるために、私はどうすればいいんだ!」

ピエールは怖気づいていたが、マリアに近づくために勇気を振り絞って考え、数秒で答えを出した。明るくチャーミングで社会的に洗練された彼女に欠けているのは、勉強を教えてくれるボーイフレンドであると。しかし実際にはマリアはすでに何人もの男子に勉強を手伝わせていたので、ピエールは苦悩した。彼は最愛のサーカス団を離れ、マリアのレポートを肩代わりし始めた。というか元々サーカス団において人気がなかった。ある団員はこう述べている。

「ピエールが跳ねまわっている時、ぼくたちはみな気も狂わんばかりの悲壮な面持ちで、手は目に見えないお花を摘んでいました。バク宙や側宙なんざもう古いんですよ。ええ、マジで嫌いでした」

ピエールはマリアを3年間援助したが、彼女からは何の見返りもなかった。そしてついに、若い頃に癇癪を起してそうしたように、お気に入りのきれいな石をハンマーでたたき割り、結婚してくれないとこれまでの不正をばらすと彼女を脅した。ピエールの脅迫はうまく行き、数日後に彼らは結婚した。 結婚後、マリア・スクウォドフスカ改めマリ・キュリーは夫に尽くし、家では実験をしたい気持ちを抑えて、割烹着をつけてビーカーやフラスコを使ってスープを作った。にもかかわらず、一カ月ほどで恋の甘いミルクは酸っぱくなってしまった。ピエールのその頃の日記にはこうある。

「ああ神よ!実験室の外での議論と研究に私がどれほどの時間を割いていることか!あの女は、最もありふれたあの概念を全く理解しようとしないのです!このまま何も変わらなければ、私は寝室を実験室に移さなければならなくなる恐れがあります。あれほど刺激的な会話ができるというのに、涙が出るほど退廃的なアクロバットにはいささかもつきあってくれないのです!」

やがてピエールは深淵なる化学の世界に再び没頭していった。しばしば深夜まで実験室にこもり、何かの反応をどうにかして起こそうと躍起になった。

ノーベル賞[編集]

1897年5月、マリは屋根裏部屋に未知の物質の古いサンプル、つまりよくわからない石ころを見つけ、それが重要かどうか判断しかねて夫のところに持って行った。ピエールはそれを実験室に持って行き、だいたい1年くらいの間それをずっといじくりまわしていた。

「私は石をトスして遊んでいました。実験室のテーブルの反対側にあるカップの中に入れようと思ったのですが、投げた石は偶然、写真乾板の上に落ちました。アンリ・ベクレルの著書『放射線(Radiation)』の上に載せていたものです。乾板はベクレルの実験と同じ反応を示し、直ちに私はこの「放射線」に関する何かを発見したことに気付きました。 私がマリにそう伝えると、彼女はそれか何かしら新しい反応であるかのように聞こえるように、そしておそらく賞や何かを得るために「放射能(Radioactivity)」に変更することを提案しました。私は「ラジエーション」を正しく言うことができなかった親愛なる妻に敬意を表して、私たちの小さな塊をラジウムという名前で呼ぶことにしました」

ピエールが妻の名前を彼の論文に追加した理由は分かっていない。ただのジョークだと考える歴史家がいる一方、ノイローゼすれすれの優しさであったと信じる者もいる。ともかく科学界は、夫がトイレにいる間に妻が自分の名前を書き加えたということで合意に達している。その理由が何であれ、科学的にメリットのある論文に女性の名前が出現したことによるセンセーションの嵐は、世界中の人々、とりわけマリに実際に会ったことのある人々に衝撃を与えた。

経済的成功[編集]

ラジウムの特許を取得し、それに少しでも手をつけようとした企業を片っ端から告訴することによって、キュリー一家は信じられないほど裕福になった。とはいえずっと前から、夫婦は金銭に関して議論を重ねていた。ピエールは、盲目の孤児のためにアクロバットと空中ブランコを披露する『キューリとサンショのピリ辛雑技団』の設立を望んでいたが、マリは服やコスメや靴、そして近所じゅうでいちばん立派な豪邸を建てるために新たな資産を費やしたいと考えていた。さらにはすべての女性と同じく、マリは卑しむべき性行為をついに全く行わなくなっていた。ピエールはそのことに憤り、一時は心から憎しみを感じたものの、やがてあきらめて半隠遁生活に入った。彼はばかでかい庭に留まることを選び、庭の境界線を越えて外に出ることをしばしば拒んだ。庭で逆立ちや宙返りを練習する姿が頻繁に目撃された。そうやってピエールは46歳を迎え、最後の致命的な外出をすることになる。

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1906年4月の暗い雨の夜、ピエールは地元の小さなスーパーに向かう途中で、馬車によるひき逃げにあった。何人かがこの事件を目撃した。

「彼は助走をつけ、路の端で華麗に側宙を決めました。そのあとバク宙で反対側に渡ろうとしたようですが、その時に向かってきた馬車が彼を撥ねて、彼にじつに10回以上のフリップをさせました。後世に残るすごい記録です。事故ですが。

ピエールは軽傷を負って道に倒れました。もし馬車がそのあと3回以上彼の上を行ったり来たりして頭蓋骨を粉々にしなければきっとまだ生きてたでしょうね。私が御者の顔を見る前に、馬車は闇夜に走り去ってしまいました……」

死後の尊敬[編集]

1995年、キュリー夫妻はパンテオンの地下に祀られた。 毎年何千人もの科学者が訪れ、マリ・キュリーの全身と、その下の段に安置されたピエール・キュリーの膝および左耳の一部に心からの敬意を表する。そう、ピエールの膝と左耳の一部以外は、彼の死の数時間後に彼の妻の手によって、科学の発展のために捧げられたのであった。

この記事は、en:Pierre Curieから翻訳されたものです。