フェルディナント・ポルシェ

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フェルディナント・ポルシェ(Ferdinand Porsche, 1875年 9月3日 - 1951年1月30日)は、ボヘミア(現在のチェコの都市)出身のお笑い芸人。ドイツを中心に活動した。

芸人としての経歴[編集]

1900年頃からポルシェA.G.の名前でお笑い芸人としての活動を始める。当時はまだ無名の芸人だった。ちなみにこの会社名のような芸名は、設定上ポルシェ本人が社長を務める会社の会社名ということになっているからである。現在の明和電機みたいなものである。

1933年、アドルフ・ヒトラーの依頼によりフォルクスワーゲンを開発し、ヒトラーの信頼を得ることに成功。これは壮大な前フリであった。ドイツが第二次世界大戦に突入するといよいよ彼は本格的にネタを仕込み始める。

第一の大ネタ[編集]

1942年にポルシェA.G.とヘンシェルの2社でティーガー重戦車の競争試作が行われた際、彼はとんでもない戦車を兵器局に提出する。その戦車VK4501(P)は、ガソリンエンジンで発電機を回し、その電力を使用しモーター駆動で走行するガソリン-電気式重戦車であった。しかし、坂道を上ろうとすると駆動モーターが火を噴き、電動砲塔を回そうとすると車内の配線が焼き切れ、おまけにモーターを量産すると貴重な資源であるを大量消費するという、競争するまでも無くボツ確定の欠陥戦車であった。後に彼のファーストネームを取って「フェルディナント」と呼ばれたこの戦車こそが、彼の最初の大ネタである。さらに彼は二重にネタを仕込んでいた。こんな絶対にボツになる戦車を提出しておいて、この戦車の制式量産のためとして資材をを90台分も発注していたのである。 このネタには誰もがずっこけ、ツッコミを入れてくることをポルシェは確信していた。しかし、軍首脳部の判断はポルシェの想定の斜め上を行っていた。「え? 90台分発注しちゃったの? じゃ、しょーがないからその分だけ作ろうか」 その一言で本車は90台分きっちり生産され、さらに駆逐戦車に改造され装甲を強化したためにあまりの重さで橋を壊し、重さ故に故障すると回収も修理もできなくなるというボケの追加付きで最前線に投入されてしまったのだった。

第二の大ネタ[編集]

せっかく仕込んだネタが受けなかったことにポルシェは落胆したが、めげずに彼は新作ネタを発表する。1943年、ティーガーIIの競争試作を再びヘンシェル社と共に行った。彼は再びVK4501(P)と同様のガソリン-電気式戦車を提出。電気式戦車自体は一度出したネタであったが、彼は砲塔に(これ以前に開発されたV号戦車パンターで既に問題になっていたはずの)ショット・トラップ(戦車の秘孔)を仕込むことで新たなネタとしたのだった。 だが、このネタも不発であった。車体部分はさすがにボツになったものの、砲塔部分は「作ったなら使わなきゃもったいないし……。え? ショット・トラップ? こんな所ピンポイントで狙い撃てるトミーもアミーもイワンもいないから大丈夫だって!」と、量産車に搭載されて使用されてしまったのである。

最後の大ネタ[編集]

ティーガーIIと平行して、彼はさらにもうひとつのネタを用意していた。超重戦車マウスである。ガソリン-電気式の動力はもはやお約束。今回はおまけにディーゼル-電気式も用意した。さらに究極の攻撃力と究極の防御力を得るためという触れ込みで主砲と装甲を強化し重量188tという狂った重量の戦車に仕上げた。現代の戦車で重量が大きいと言われるメルカバ(イスラエル)で65t、大重量ゆえ運用が困難だったと言われるティーガーIIの量産型でも69.7tであるのだからその狂いっぷりはまさに常軌を逸していた。しかしこんな大重量なのに最高速度は20km/hぐらい出てしまうというネタ自体のすべりや、そもそも重量188tになるまで誰もツッコミを入れないというドイツの深刻なお笑い人材不足が原因となり、この戦車もまったくウケずに終わったのである。

その後[編集]

彼が人生を賭けたネタの度重なる失敗により彼は芸人として完全に燃え尽きてしまい、芸能活動を引退。復帰することなく1951年に病死した。

しかし彼の芸は死後再評価され、今日もコアな戦車オタクのハートをつかみ続けているのである。

関連項目[編集]