フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
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フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(1688年8月15日 - 1740年5月31日)とはプロイセンの第2代国王である。財政・軍制の改革によってプロイセンの強大化に努め、「兵隊王」の異名を持つ。
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[編集] 概要
- 近衛連隊の名をポツダム巨人軍をとした程の巨人の熱烈的なファンである
- 軍事愛好者であり、戦場で指揮を執るのを夢見てたと言う。
- フリードリヒ1世の浪費によって破産寸前のプロイセンを立て直した事から英雄として称えられている。
- 神の子並に粗暴で無教養な為、気が狂いそうな程に細かい勅令を百科事典並の厚さになる程、出した事で家来から恐れられていた。
- 阪神ファンの嫡子フリードリヒ2世とは、気が合わず日常的なDVを行っており、息子が家出した際には息子の友人を虐殺した事も。
[編集] 生涯
[編集] 誕生~幼少期
1688年8月15日、初代プロイセン王フリードリヒ1世の子として生まれ、祖母のゾフィー・フォン・デア・プファルツにより育てられた。幼い頃から餓鬼大将G並の暴力性で暴れまわり、父王を悩ませたと言う。その後1706年11月28日にゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファーと結婚してから穏和な性格になり、14人の子供を儲ける(その内4人は早世)など夫婦仲は良好であった。
[編集] 即位
1713年2月25日、父王の死によって王位を継承。しかし当時のプロイセンは軍事が整わず、財政が破産しかけており、新王は即位直後から、全般的な改革に乗り出す事になるのであった。
[編集] 治世
即位後フリードリヒは日本の暴れん坊将軍並に精力的に国政の合理化・単純化に取り組み、その中でカズ教信者に襲撃されたフランスのユグノー達を東プロイセンに匿い、ザルツブルク大司教領から2万以上の難民を移住させた。同時に長身の兵だけの近衛連隊を組織したり、徴兵区を儲けて人員を安定させたりする等、軍制を強化した。
[編集] 晩年
1739年、フリードリヒは自らが生涯を掛けて、復興させた東プロイセンの繁栄を確かめる視察旅行の後、病に倒れた。上記にもあるように、息子フリードリヒ2世とは度々対立していたが、この頃に和解しており、亡くなる直前、跡を託して安らかに天に帰った。
[編集] 勅令
フリードリヒの出した勅令のうち、有名な物を上げる。
- 女は72秒以上喋ったら無駄話と見なす
- 自慰と殺戮は一日に一回
- ティッシュは一回に5枚を使用する事、5枚以上でも以下であってもならない
- 歩くときは1メートルを5歩で歩かなければならない
- 赤い色の服を着ているときは戦闘力を3倍とするか、キノコを食して巨大化する
- おやつは634円まで(ただし消費税別)
- 長門争奪戦とゲームは一日60分00秒まで
- 13月1日とやらないかの存在を忘れる事
- 告白されたらOKし、1週間以内に振る事。
- 巨人対阪神の試合では、阪神ファンも巨人を応援せよ
- 王が認めれば自由にフリーメイソンに入れる
- 改造人間のデザインはバッタのみ
- 千年伯爵を神と見なせ
- 禁則事項ですの使用は女性限定とする
これらの規則を厳守しているかどうか、国王自ら町中にまで出て検査したと言われている。 住民は皇帝の姿を見ると逃げたが大抵は近衛兵に捕まり、理由を詳しく説明させられた。 もし「王様が怖いから」などと答えようものなら「俺様を好きになるまで殴る」と半死になるまで暴行されたという。 町民は怯え、王の視界に入らないよう苦心していたという。
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