ミシェル・ド・ノートルダム

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ミシェル・ド・ノートルダム:Michel de Nostredame、フランス:1503年12月14日 - 1566年7月2日)は、16世紀のフランスで活躍した医者

ペストの治療等に献身する傍ら、美食家だったのだろうか化粧品ジャムの研究にも時間を費やし、更には婦人に好まれそうな占星術(すなわち占い予言)にも通じていて、それらに関する書籍を刊行したことによって名声を得た。当時のフランス王妃であったカトリーヌ・ド・メディチなどから重用され、それで得た金を地元のために用いたことから、現地では名士と称えられている。

ノートルダムの肖像画(一見医者には感じられない)

人物概略[編集]

彼はユダヤ人系の家系に生まれ育ったが、事業を行いやすくするために父方の祖父の時代にはカトリックへ改宗しており、彼の代にはかなり熱心なキリスト教徒の家系となっていたことが分かっている。名の「ミシェル」が大天使ミカエルに、性の「ノートルダム」は聖母マリアに因む(ノートルダムの意味は“我なる貴婦人”、すなわちマリアを指している)ことからも、それは良く伺える。

なお生誕日は1503年12月14日であるが、彼の1566年7月2日)から16年後の1582年ローマ教皇グレゴリウス13世が暦を古代ローマカエサル治世下で定められたユリウス暦(1年が365.25日)から現行のグレゴリオ暦(1年が365.2425日)に改訂しているため、後者に合わせると12月24日となる。

15歳の時にアヴィニョン大学へ入学したが、ペストの流行で在学を断念し、どっかを遍歴したあとモンペリエ大学に入って医学を専攻し、医者となった。このとき初の結婚をして子供を2人もうけるも、いずれもやはりペストで失ってしまい、失意のためか再び遍歴に出かけた。そのため、このころの記録は余り多く残っていない。

最初の妻子を亡くしてから10年くらい経った後、南フランスで再び彼が登場する。彼はペストの流行地に果敢にも入っていったという記録が存在しており、最初の妻子を失ったペストをよほど憎んでいたのか、その治療に尽力して名声を高めたようである。

そしてのつてでプロヴァンス州のサロン・ド・クロー(後のサロン・ド・プロヴァンス)に落ち着き、ここで未亡人のアンヌ・ポンサルドと再婚した。ここは彼の腰を落ち着かせる場所となった。

彼はこの地で、むかし習って当時は医学の一部にも位置づけられていた占星術、それにかつて自分が実践したペストの治療術や様々な化学研究の成果を活用して、世間の人々に受けそうな書物を刊行することを画策する。

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「暦書」の項目を執筆しています。

1550年ごろから彼が死ぬまで刊行した、カレンダー形書物の『暦書』(仏:Almanach)はその代表的なものである。彼は現代の日本と同様、その日の気候予測や運勢などを盛り込んだ書物がヒットすることを見抜いていたのだろうか、『暦書』にはそういった話題がちりばめられていて、彼の名前をフランス中に知らしめるのに最も貢献した書となった。

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また1555年には、特に婦人に受けそうな料理化粧医療関係の話題を盛り込んだ『化粧品とジャム論』(仏:Le Traité des Fardemens et confitures)を刊行した。ここでも彼の才能は大きく生かされているが、特に弁舌の面では顕著であった。当書には「年齢が55歳でも、このローションを使えば12歳の少女のようになる」とか、「各地を旅して修行しても、私 のゼリーより美味く名高いものは見つけられないだろう」といったように、彼の自信あふれた文章が散見される。ここからは、彼がこれらの研究に相当の時間をかけていたことが伺えるといえよう。

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「予言集」の項目を執筆しています。

更に同年、予言書として『予言集』(仏:Les Prophéties)を刊行する。これは後世、『百詩篇』(仏:Les Centuries)と呼ばれるようになったものであり、新約聖書ヨハネの黙示録にでも倣ったかのような、キリスト教世界観と占星術に基づく未来を描いた詩集として注目され、『化粧品とジャム論』同様に一定の反響を得た。

そしてこれらの名声は、フランスの王室にも届いた。特に当時の王アンリ2世の妃カトリーヌ・ド・メディチは占いに強い関心を抱いていたため、これら2つの書物が刊行されてまもなくノートルダムをパリの王宮に呼び寄せた。この会見では何を話したか詳しくは記録に残っていないが、カトリーヌは不幸なことを言う予言者を粛清するという噂があったため、大それたことは言わなかったと推測される。彼はここで旅費分と褒美に当たる金を受け取り、別の場所でもう一度カトリーヌに謁見してそこで何らかの占いをし、そのまま帰郷した。

帰郷後はその名声を妬んだ者による中傷、更に『予言集』に代表される予言(ないし預言)の内容に関する批判を受けたりもするが、王侯貴族の運勢を占星術によって占ったり、彼にほれ込んだカトリーヌの影響か、彼女とアンリ2世の次の王でカトリーヌの息子でもあるシャルル7世が、ノートルダムに会うためだけにサロンの街を訪れたりするなど、ノートルダムの名声はこの頃には不動のものとなったようである。シャルル7世からは「常任侍医兼顧問」の地位を授かってもいる。

そして持病であった痛風リウマチ説もある)に苦しみながらも、公共の泉の碑銘起草やクラポンヌ運河への出資など社会貢献も怠らず、1566年7月2日(グレゴリオ暦だと7月12日)に死去した。

なお、彼の遺体は本人の希望でフランシスコ会修道院の壁に埋められたようだが、フランス革命最中の1793年に宗教否定の動きと相まって荒らされたため、後にはサン=ローラン教会聖母礼拝堂に安置し直されている。

良く似た人物とそれとの差異[編集]

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なお1973年から1999年にかけ、五島勉を始めとする日本人により、同じフランスで活躍したミッシェル・ド・ノストラダムス(仏:Michel de Nostradamus)が書いたとされる予言書の『諸世紀』(仏:Les Siècles)が紹介され、「ノストラダムスの大予言」として「1999年、恐怖の大王によりこの世の終わりが来る」と世間で話題になっていたことがあった。だが見事に何も起こらなかった(大外れした)ため、当時の世間の人は彼を詐欺師呼ばわりした。

その際、何故かこのミシェル・ド・ノートルダムもそのミッシェル・ド・ノストラダムスと名前が類似しているせいか、混同されてしまった事例がみられた。しかし、この二人の間には以下のように経歴その他で差異がみられるため、二人が全くの別人であることは明白となっている。

信仰[編集]

ノートルダム

上に記したとおり、祖父の代からのカトリックキリスト教の旧教)

ノストラダムス

諸説あるため、以下にそれを列挙する。

刊行書物[編集]

ノートルダム

暦書』(仏:Almanach)、『化粧品とジャム論』(仏:Le Traité des Fardemens et confitures)、『予言集百詩篇)』(仏:Les Prophéties(Les Centuries))

ノストラダムス

諸世紀』(仏:Les Siècles)[4]、『予兆詩集』(仏:Les Présages)、『六行詩集』(仏:Les Sixains)

アンリ2世への謁見[編集]

彼を呼んだ人と年[編集]

ノートルダム

カトリーヌ・ド・メディチ王妃で1555年

ノストラダムス

アンリ2世本人で1551年[5]

会見で話したこと[編集]

ノートルダム

不明

ノストラダムス

アンリ2世が10年後に死亡すること[5]

会見後の待遇[編集]

ノートルダム

200エキュを賜り、個別でカトリーヌへ謁見した後にすぐ帰郷。後に次期国王から「常任侍医兼顧問」の地位を授かる

ノストラダムス

これも諸説ある

  • 貴族の称号を与えられ、5年間王に仕える[5]
  • 激怒したカトリーヌにより、国外追放される[6]

カトリーヌへの個人的謁見[編集]

ノートルダム

王との謁見後まもなく訪問し、彼女の子の運命を占わさせられ、4人とも王になると発言したといわれている

ノストラダムス
  • 1555年に『諸世紀』初版を見せて、1999年に目に見えない恐怖の大王が降りて来て世が滅ぶと説いた[7]
  • 予言の極意を教えろと詰め寄られ、男装の美少女集団に暗殺されそうになった[8]

予言書の冒頭にあった「セザールへの手紙」の宛先[編集]

ノートルダム

生まれて1年半たったばかりの自分の息子

ノストラダムス

諸説あり

  • 19歳になり、彼が予言詩を書くことに対話という形で協力した息子[5]
  • 予言を解釈したある日本人[9]
  • ノストラダムスの転生[10]

予言の仕方[編集]

ノートルダム

自然的直感や占星術に基づくが、対外的には異端審問(宗教裁判)を恐れて神から聞いた「預言」であるとしていた

ノストラダムス

諸説あり

予言の言語[編集]

ノートルダム

多くはフランス語だが、一部にラテン語ギリシア語、南フランスの方言に創作語が混ざっている

ノストラダムス

上記に加え、日本語モールス信号[15]など。彼は日本に来たことがあり、その際に日本語を学んだ[16]

予言の対象地域[編集]

ノートルダム

主にヨーロッパを対象としていて、一部は西アジア中東、北アフリカなど

ノストラダムス

ヨーロッパのみならず、日本など東アジアやアメリカオセアニアも含む

予言の内容[編集]

ノートルダム
ノストラダムス

脚注[編集]

  1. ^ 高橋克彦『未来からのメッセージ』サンマーク出版・1998年
  2. ^ 山内雅夫『アルマゲドン聖書の復讐』光文社・1998年
  3. ^ アポカリプス21研究会『ノストラダムス大予言の謎』大陸書房・1991年
  4. ^ a b c 五島勉『ノストラダムスの大予言』祥伝社・1973年 など多数
  5. ^ a b c d 五島勉『ノストラダムスの大予言』祥伝社・1973年
  6. ^ 高橋克彦『書斎からの空飛ぶ円盤』マガジンハウス・1993年
  7. ^ 五島勉『ノストラダムスの大予言II』祥伝社・1979年
  8. ^ 五島勉『ノストラダムスの大秘法』祥伝社・1983年
  9. ^ 池田邦吉『ノストラダムス預言集解読I』成星出版・1996年 など多数
  10. ^ ミカエル・ド・セザール『ノストラダムス「大予言」の真実』現代書林・1988年
  11. ^ ジョセフ・サビノ『ノストラダムス大予言は贋作だった』経済界・1992年
  12. ^ 浅利幸彦『セザール・ノストラダムスの超時空最終預言(下)』徳間書店・1992年
  13. ^ 加治木義博『真説ノストラダムスの大予言・あなたの未来予知篇』KKロングセラーズ・1992年
  14. ^ 内藤正俊『ノストラダムスと聖書の預言』暁書房・1986年
  15. ^ 川尻徹『ノストラダムス最後の天啓』二見書房・1990年
  16. ^ 川尻徹『ノストラダムス暗号書の謎』二見書房・1987年
  17. ^ 中村惠一『ノストラダムス大予言の構造』思索社・1991年 など多数
  18. ^ 大川隆法『ノストラダムス戦慄の啓示』幸福の科学出版・1991年
  19. ^ ミカエル・ヒロサキ『神人ノストラダムスの大予言の真相・第1巻』あき書房・1992年
  20. ^ 頭脳組合『ノストラダまス 予言書新解釈』彩文館出版・1997年

関連項目[編集]

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関連リンク[編集]