ヨブ・トリューニヒト

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

概要[編集]

ローエングラム朝銀河帝国の正史銀河英雄伝説に記される歴史的偉人である。 自由惑星同盟最期の元首として、専制政治と戦ったことで知られる。 また、名演説家、愛国者として数々の功績を残す。 一般には、彼のヤン・ウェンリー提督の最大の理解者にして支援者として名高いが、トリューニヒト自身の功績も忘れられるべきではない。

事績[編集]

国防委員長就任まで[編集]

宇宙暦755年2月13日生まれ。 国立中央自治大学を首席卒業した後、政治家としての経験を積む。 当時からその雄弁と人心掌握の才を評価され、有望な若手議員として目されていた。 本来、注目度が低いはずの役職を持たない平議員でありながら、人当たりの良い気さくな人柄と、洗練された所作、自由民主主義に捧げる深い情熱から、ファンも多かった。 これが後の慈善社会福祉団体『憂国騎士団』の母体となる。

国防委員長時代[編集]

ラインハルト帝の台頭に拠り、祖国が危機に晒される中、国防委員長として、よく士気を鼓舞し、戦争を指導した。 国防委員長として総力戦体制の整備を推進した。 これを快く思わぬ自由主義原理主義者らの誹謗中傷に晒されながらも、国民とマスコミに粘り強く帝国の脅威を熱弁し、世論の理解を求めた。 結果として、総力戦体制下という苦しい情勢にも関わらず、当時の政権は非常に高い支持率を維持し続けた。

しかし、トリューニヒトの識見は他の戦意を鼓舞するだけの国粋主義者らとは一線を画するものであった。 悪名高いアムリッツァ星域出兵計画が企画された際、多くの高官が新進気鋭の秀才参謀フォーク准将の周到緻密な作戦を賞賛した。 実際、その戦略は従来難しいとされてきた兵站面の問題に対し、高度の柔軟性を保ちつつ臨機応変に対処するという斬新かつ明晰な解決策を示しており、トリューニヒトの啓蒙を受けていたネグロポンティ氏や、アイランズ氏にさえ、魅力的に映るほどのものだった。 だが、トリューニヒトはこの大胆にして緻密なる作戦計画における唯一の欠陥--即ち必要予算及び物資の計算がなされていなかったこと--、にいちはやく気づき、強く反対した。 計画に反対したのはトリューニヒト国防委員長とヤン・ウェンリー提督の他、わずかな高官のみであり、計画は遂行された。 トリューニヒトは後に「私には全てが見通せていた。私が五年早く最高評議会議長に就任していればあの大敗は防げていた。私が自由主義惑星同盟に対して負うべき、最大の罪責だ。力が足りなかったことを痛感して止まない」などと述懐している。

最高評議会議長として[編集]

最高評議会議長に就任してからも、後世に残る格調高き演説を数多く残し、大衆を魅了した。 これはトリューニヒトがしばしばキング牧師と比較して語られる所以である。

また、為政者としても優れており、苛烈で知られるラインハルト帝を相手に一歩も引かず交渉し、粘り強い外交によって捕虜交換を実現させ、長きにわたって帝国に囚われていた拉致被害者らの帰国を為す、等多くの功績を立てた。

彼のヤン・ウェンリー提督の理解者としても名高く、救国軍事会議のクーデターの折り、ヤン提督と連携してこれを打倒し、民主主義体制の危地を救う。 その功績を以て再び最高評議会議長に返り咲く。 しかし、トリューニヒトの尽力にも関わらず、長きに渡る戦争は祖国を蝕み、ローエングラム王朝の侵攻を受ける。 宇宙暦799年、ローエングラム王朝の艦隊に首都ハイネセン上空を征圧され、トリューニヒトは部下達の身の安全と引き換えに降伏勧告を受け入れる。 そして、失意の中で辞任を余儀なくされた。

独裁政治との戦い[編集]

トリューニヒトは政敵でもあったが、同時にその力量を認めていたレベロに後を託し、自らは単身ラインハルト帝の下に行き、粘り強く外交交渉を続ける。 ラインハルト帝は初め黙殺を繰り返していたが、その熱意に打たれ、トリューニヒトに旧同盟領総督府高等参事官の地位を与える。 これは敵国の最高指導者に対する処遇としては極めて異例のものであった。 その後、帝国に憲法を作り、議会を開設させることにより帝国の民主化を完成させるために尽力した。 しかし、専制主義への時代の流れには抗えず、彼の愛する祖国はローエングラム王朝の軍閥化と内紛の余波を受け、戦地と化してしまう。

最期まで、自由主義者として[編集]

新領土総督・ロイエンタール元帥の反乱のおり、トリューニヒトはロ元帥に銃殺され、その生涯を終えている。 その際、トリューニヒトは身の危険も省みず、その弁舌を以て皇帝ラインハルトの専断を誹謗し、ロ元帥の怒りを買ったという。 これは人心掌握に巧みであった彼らしくもない失敗である。 トリューニヒトがこのような無謀な行動をした理由は祖国愛であったとする説が主流である。 つまり、愛する郷土を占領された上、征服者達の都合で戦地となり、同胞が死んでいくことに義憤し、耐えきれなくなったのである。 トリューニヒトが演説の中で、しばしば自由と祖国への忠誠を表明していることも、このような通説を裏付ける。 またその死後、トリューニヒトが事実上帝政を有名無実化し、民主共和制へ限りなく近い立憲帝政へ移行する構想を有していたことが明らかになっており、自称民主共和制の継承者であり、稚拙な立憲主義構想を有していたユリアン・ミンツを戦慄させたと伝えられる。

人物像[編集]

ヤン・ウェンリー提督の理解者として[編集]

不敗の名将として知られるヤン・ウェンリーだが、私人としては少々偏屈なきらいもあり、人物の好悪が激しく、他の閣僚らには疎まれていたという。 孤立しがちであったヤン提督を、トリューニヒトは終始エルファシルの英雄と称え、気さくに接し、その才能を遺憾なく発揮できるよう協力を惜しまなかった。

独断専行に走りがちなヤン提督が、敵将たるメルカッツの亡命を無断で受け入れた時、当然高官らの非難を浴びることとなった。 この時もトリューニヒトは最高評議長としての責を以て、ヤンの独断専行に対し、異例の追認をしている。 民主主義を理想としたトリューニヒトとしては、かかる手続の無視は本来許容されるべきものではなかった。 しかし、トリューニヒトは仁義に厚いメルカッツ提督の人柄と老練な艦隊指揮の才能を高く評価し、僻地で戦うヤンの力になるものと確信して、あえて超法規的措置を行ったとされている。 その後も、もとは敵であったメルカッツを疎うばかりか、一時は軍務尚書にまで抜擢していることからも、そうした意図が窺える。

このようにトリューニヒトはヤンの良き上司として、政治的才能に欠けるヤンをよく支援していた。 にも関わらず、ヤン提督はトリューニヒトを嫌っていた。 アッテンボロー、ユリアン・ミンツといったヤンの友人らが残した記録の中で、ヤンはしばしばトリューニヒトを人格批判している。 あまつさえ「寄生虫」呼ばわりさえしている始末である。 この理由は後世の史家の間でも見解が分かれているが、結局のところ学者志向で偏屈なヤン提督には、トリューニヒトのように社交的な人物は肌に合わなかったのであろう。

このようなヤン提督の態度にも関わらず、トリューニヒトはヤンの能力評価には私情を持ちこまず、終生手放しで功を賞賛した。 例えば、このような逸話も残っている。 ある日、トリューニヒトはヤン・ウェンリーに握手を求めた。 氏を嫌うヤン提督はしばしためらい、さらに露骨に顔をしかめて握手に応じた。 そのような無礼を気にする様子もなく、トリューニヒトは終始笑顔を保っていた。 トリューニヒトがいかにヤンという人物を気にかけていたかを窺い知るエピソードである。


エルウィン・ヨーゼフ二世の庇護者として[編集]

ラインハルトによって旧ゴールデンバウム王朝が滅ぼされた際、トリューニヒトはゴ朝最後の皇帝エルウィン・ヨーゼフ二世の亡命を快く受け入れている。 敵国の専制君主の亡命受け入れには世論も賛否両論であったが、トリューニヒトはいささかもためらわず決断したという。 これは敗軍の将への武士の情けもあろうが、ヨーゼフ二世が未だ七歳の幼児であったことがトリューニヒトを決断させたものと言われている。 トリューニヒトはしばしば子供達とともにTVに映り、子供達に笑顔を見せていた。 このことからトリューニヒトは無類の子供好きだったとも言われている。

慈善社会福祉団体『憂国騎士団』の資金援助者として[編集]

長引く戦争によって首都ハイネセンの民心が不安定となる中、祖国の行く末を憂慮する若者達が憂国騎士団を立ち上げた。 彼らは街の秩序維持のために無償で見回りを行い、不審者を取り締まり、時には警官の代わりに暴徒を鎮圧することもあった。 しかし、有志のボランティア活動団体である憂国騎士団は慢性的な財政難に苦しんでいた。 こうした若者達の苦境を思いやったトリューニヒトは、自らの私財を投じて彼らを支援した。 もともと憂国騎士団にはトリューニヒトの支持者も多く、以来、トリューニヒトと憂国騎士団は強い友誼で結ばれるようになった。 その友情は彼らが後に銀河帝国の憲兵隊に弾圧されるまで続いた。

ジェシカ・エドワーズ事件[編集]

国防委員長時代、演説中に若い女性が乱入するという珍事があった。 周りが色めく中、トリューニヒトは紳士的な態度でこの女性に接した。 女性は、出征した夫が戦死したのだと陳情し、トリューニヒトは深い同情を示した。 また、この女性が夫との死別によって精神に錯乱をきたしていることを察し、丁重に自宅まで送迎するよう命じた。 精神的障害から、女性はトリューニヒトを糾弾するかのような言動を示したが、トリューニヒトは全く咎め立てることなく、終始満面の笑顔で女性を気遣っていたという。 これはジェシカ・エドワーズ事件として知られ、トリューニヒトの人柄を示す逸話として引用されることが多い。

なお、余談ではあるが、くだんの女性はその心傷につけこまれて極左団体に洗脳され、デモに巻きこまれ亡くなっている。 この知らせを聞いた時、トリューニヒトは深い哀悼の意を示した。

評価[編集]

その卓越した弁才によって、苛烈で知られるラインハルト帝から捕虜解放、高等参事官就任という大きな譲歩を二度も引き出している。 また、自らを嫌うヤン・ウェンリーを重用し、政敵であったレベロの識見を高く評価して閣僚に登用するなど、その人事は公正なものであった。 総力戦下において、終始高い支持率を維持したことからもその政治家としての手腕が窺える。 エルウィン・ヨーゼフ二世亡命事件や、ジェシカ・エドワーズ事件で知られるように、女性や子供に対して常に紳士的に接した。 また、憂国騎士団との交わりから伺い知れるように、熱意ある若者達に柔軟な理解を示す度量を持った大人でもあった。 アムリッツァ出兵の折りに自ら語っているように、もし、トリューニヒトがあと五年早く最高評議会議長に就任していれば、あるいは自由惑星同盟の歴史もまた違ったものになっていたかもしれない。