ラムザ・べオルブ

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ラムザ・べオルブ (Ramza Beoulve, 生没年不詳) は、イヴァリース獅子戦争期に活躍した稀代の暗殺者。イグーロスの名門ベオルブ家の出身であり、父は天騎士バルバネス。兄に北天騎士団長ダイスダーグと聖騎士ザルバッグ、他女1名がいる。

略歴[編集]

ベオルブ家の本拠であるイヴァリース西部・イグーロスの出身。天騎士として名高いバルバネスの妾腹の息子として生まれる。幼くして母を失い、代わりに兄達を見て育つ。

貴族界の生え抜きとしてガリランド王立アカデミーに入学、16歳の頃に学徒徴集に応じてディリータ・ハイラルらと共にエルムドア侯爵の救出に当たっている。しかし、その後に課せられた骸旅団の殲滅任務の最中に行方不明となる。

その後の経緯については諸説あり、文献資料および伝承によってまちまちであるため定かではないが獅子戦争の最中に暗殺者として暗躍し、後にグレバドス教会からは「最悪の異端者」「悪の権化」と称される。

人物像[編集]

ラムザの人物像には2つの説がある。

一つは平民王ディリータ立志伝に書かれている人物像で、それによれば「傲慢かつ暴力的な性格」と書かれており、平民を「家畜」と称して「家畜に神はいない」という暴言を吐き、兄ザルバッグの命令を自分の都合の良いように解釈してディリータの妹ティータを殺害したといわれている。

もう一つは後述のデュライ白書に書かれている人物像で、それによると「清廉で生真面目、弱者を見捨て置けない性格」と評されており、シドルファス・オルランドゥ(雷神シド)は「(ラムザの父である)天騎士バルバネスに似たり」と語ったとされる。

暗殺者伝説[編集]

骸旅団討伐から約1年後、イヴァリース南部のライオネル城において、領主であるドラクロワ枢機卿をはじめ約50人が惨殺されるという怪事件が発生する。この現場にラムザを見たという証言やベオルブ家と縁あるガフ・ガフガリオンと見られる人物の亡骸があったとして、グレバドス教会はラムザを犯人と断定し、異端審問への召集を課している。しかし、これにラムザは出頭していない。

その後も各地においてラムザらしき人間を見たという噂が広がる。いずれも大規模かつ凄惨な虐殺事件のあった場所で、白都ゼルテニアにおける異端審問官殺害事件、リオファネス城を襲撃しバリンテン大公を殺害したのもラムザであると言われている。ただし当時のリオファネス城は非常に強固な城として知られており、警備には500人を超える人間がいたにも関わらずすべて殺害されていたなど、ラムザ一人の手によるものとするのは現実的な判断ではない。 またイグーロス城で起きたザルバッグの乱に加担して、混乱の中で兄二人を殺害したという伝説が存在する。これについて、放浪を繰り返し家に寄り付かなかったラムザをダイスダーグやザルバッグが疎んじていたという記録も残っており、ラムザ自身、混乱に乗じて兄達を殺害する動機になり得た可能性は否定できない。

聖ミュロンド寺院において教皇を暗殺した、王女オヴェリア誘拐に関わっていたなど、不確かなものも含めると短期間にかなりの活動をしていたということになる。

暗殺に関してグレバドス教会は、少なくとも前述の異端審問官殺害と聖ミュロンド寺院焼き討ちに関与していたと主張している。[要出典]

機工都市ゴーグの都市年代史に機工士ムスタディオ・ブナンザがラムザに暗殺されかけたという記述があるなど、証拠となる文献の多い伝説である。しかし、なぜベオルブ家の一員が自ら暗殺活動を起こしたのか、史実であるならば何の目的のために北天騎士団、南天騎士団そして教会と、いずれの陣営にも敵対したのかが不明である。

一説には、同時期にガフガリオン配下にいた傭兵ラムザ・ルグリアと混同されたとも言われている。ガフガリオンはダイスダーグと契約を交わしている間柄であり、教会と南天騎士団を結んでいたドラクロワを暗殺すべく派遣され、途中で戦死したガフガリオンに代わってドラクロワを殺害したというものであるが、その後のラムザ・ルグリアに関する資料は全く存在していないことから検証はできず推測の域をでない。またダイスダーグがドラクロワ暗殺、及びオヴェリア誘拐などの手引きをしたという証拠は、残されていない。

他にも教会の刺客説や、ディリータの利用した忍者の総称であるという説も存在する。活動期間の短さと活躍したとされる伝説の数の多さから、複数人あるいは複数の集団での活動を、ラムザ一人にまとめたという考え方が妥当である。

デュライ白書[編集]

稀代の暗殺者としてのみ知られていたラムザではあるが、オーラン・デュライの著した『デュライ白書』が公開されて以来、再評価が進んでいる。現在でも オーランの子孫であるアラズラム・J・デュライらの研究グループによって解析・考察が繰り返されている。一方でグレバドス教会は白書の内容はもちろんのこと、アラズラムらの研究活動をも「過去の捏造にあたる」として激しく非難している。また、デュライ白書は反ディリータの色合いが垣間見える文献であり、対比されるラムザを過度に盛り立てた可能性も指摘されている。

デュライ白書やディリータ立志伝の双方において、ラムザとディリータは対照的な人物像だったとされているが、白書においては両者はかつて親友であったとの記述もある。

著者オーランも幾度か対面し、その時のラムザは南北どちらの勢力に与さない旅団を率いていたという。白書内では伝説の悪魔“ルカヴィ”を使役していたとされる教会や神殿騎士団であるが、その教会の動向をいち早く察知し活動を行っていたされており、そのために異端者の烙印を押されながらも、教会を妨害するため神殿騎士団を襲撃していたとある。凄惨な現場に幾度も居合わせたとされるラムザであるが、もし仮に“ルカヴィ”と形容されるような怪物が実在し、それらを行っていたのだとすれば、ラムザの活動と“ルカヴィ”の活動はピタリと一致することになる。 また獅子戦争屈指の激戦区となったベスラ要塞では、事故とされていた水門の決壊は、両軍の衝突を抑えるためにラムザが故意に決壊させたとある。これに関して、ディリータが直前に情報を与えたとあり、両者は獅子戦争の末期まで何らかの関係を保持していたと見られている。

白書ではラムザの消息を明記していないが、戦争後の生存を仄めかす表現を用いている。

ラムザ率いる旅団[編集]

デュライ白書および伝説での活動規模からどちらからも読み取れることは、それなりの規模の旅団を保有していたということである。 白書内ではベスラ要塞で暗殺されたとされていたシドルファスは密かに生存し、ラムザとともに活動を行っていたとされる。 シドルファス生存説は、「ゴルターナ公とともに発見された遺体は“雷神シド”の象徴とも言えるエクスカリバーを保持していなかった」「王妃オヴェリアの遺書には、シドルファスに着せられた汚名が偽りであったことを知っていたかの様な記述があった」という事実にも合致するものであり、もしシドルファスが生きていたのであれば、ラムザに同行したという話はただの伝説では片付けられない。 また異国の衣服を纏った者、鉄の鎧を纏った巨人、聖騎士の技を扱う者、現在で言う銃器を扱う者などを戦力として携えていたと記述されており、能力者を募った精鋭集団のようなものを率いていた可能性もある。 一説にはガリランド王立アカデミーの学徒徴集の際の生徒らが母体となったとされるが、貴族の子女らが異端者とされるラムザと行動をともにしたかは疑問が残る。骸旅団の殲滅任務中にラムザが脱走したというのが有力な説である。

ゼラモニア史[編集]

近年独立を果たしたゼラモニア政府が自国の歴史観を確立すべく、独立の為に戦った名もなき英雄たちの手記や日記を纏めてゼラモニア史として発行したが、この書物にラムザ・べオルブが登場していることが学会で話題になった。 それによると鴎国の圧制に耐えかねてゼラモニアの独立勢力が力を増していた頃、ゼラモニアの歴史に名を刻んだ英雄たちとラムザは出会い、独立運動に協力してくれたというのである。

ラムザの人物像の記述はデュライ白書のものと概ね合致しており、ディリータ立志伝に描かれている人物像とは全くと言っていいほど一致しない。 一方で純粋すぎて、己が理想を貫くためならばどんな危険な場所にも躊躇わずに行きそうだと有名な暗殺者伝説を彷彿させるような懸念を記述している記録もある。 このことについてグレバドス教会は「そのような人物だったならば時の教皇フューラルV世をはじめとした罪なき聖職者たちを惨殺するはずがなく、同一人物である可能性は極めて低い」と切って捨てている。[要出典]

また前述したラムザ率いる旅団についても言及されており、旅団の主要人物で聖ルザリア近衛騎士団に所属していたアグリアス・オークスの名があげられているのは特筆すべきことであろう。 女騎士アグリアスは王女時代のオヴェリアを警護する任ついていたとされ、そのことからラムザ率いる旅団は獅子戦争において南天寄りの勢力であったという説が一定の支持を得ている。 しかしシドルファスを彷彿させる人物の言及は皆無であることをはじめ、デュライ白書での記述と矛盾している箇所が散見されることもあり、学会でゼラモニア史の史実性を認める者は少数派である。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • Anonym, Res Gestae Regis Delitae ex Populo; circ. AD 1340 (『平民王ディリータ立志伝』著者不明)
  • Olanus Duraia (AD ?-1336), Historiae de Duraia; circ. AD 1330 (『デュライ白書』オーラン・デュライ)
  • Alazlam J. Durai, Historiae de Duraia: Wahrheit nach 400 Jahre; 1784; Leipzig (『デュライ白書・400年目の真実』アラズラム・J・デュライ)
  • Alazlam J. Durai, Raetsel des Leokrieges; 1787; Weimar (『獅子戦争の謎』アラズラム・J・デュライ)
  • Alazlam J. Durai, Brave Story; 1791; London (『ブレイブストーリー』アラズラム・J・デュライ)
  • Anonym,The history of Zeramonia; 1815; Brussel (『ゼラモニア史』著者不明)