ランチパック

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右が弟のパスカル(後のパック)、左が姉のレティシア(ランチ)

山崎ランチ・山崎パックナチスによる迫害から日本に亡命し山崎製パン創設者飯島氏の親族山崎氏の養子となったユダヤ人である。一般的には山崎製パンのヒット商品であるランチパックの開発者及びキャラクターとして大変有名である。

ランチ・パック兄妹の生い立ち[編集]

姉のランチ(LaetitiaRothschild、レティシア・ロートシルト)は1925年にオランダフランス系ユダヤ人の家庭に生まれ、弟のパック(PascalRothschild、パスカル・ロートシルト)は二年後の1927年に生まれた。ランチの実家はロスチャイルド家にも連なる裕福なユダヤ人家庭で、二人は恵まれた環境の中でに育まれながらすくすくと育つ事になる。パスカルは後の自伝の中でこの時代に母親が作ってくれて姉とともに食べたおやつのパンが後のランチパック開発の原型となるものであったと述べている。

姉弟の悲劇[編集]

しかし1940年5月、ナチスドイツによるベネルクス三国への侵攻作戦によりふたりの姉弟の運命は一変する。強力な武装を持たなかったオランダはドイツに対して降伏し、オランダ王室と政府はイギリスに亡命し、ユダヤ人であったレティシアとパスカルもナチスの監視下に置かれることになる。ホロコーストの始まりであったが、この時点では大部分のユダヤ人が虐殺につながるとは想像していなかった。しかしながら聡明なランチらの父母はこれをナチスによるユダヤ人殲滅作戦の一環と察知し、決死の覚悟で二人をナチスの監視から逃す事を決行する。結果として父母は追撃に出たゲシュタポMP40短機関銃の前に倒れる事になったが、レティシアとパスカルの姉弟は抗ドイツレジスタンスの協力を得て地下に潜伏する事になる。

決死の逃亡[編集]

同年6月、マジノ線をすっ飛ばしてアルデンヌの森を突破したドイツ軍の前にフランスが降伏し、欧州大陸は完全にナチスの支配下に落ちる。ファシズムの支配が固まるこの状況下でイギリスに渡航しアメリカへの亡命を考えていた姉弟は大きな難問にぶち当たる。この時期のナチスのユダヤ人の国外退去は(財産を殆ど持っていけないというものではあるものの)まだ不可能ではなかったが、ゲシュタポの追撃を振り切った二人に対しては別で、ナチスはこの二人を捕まえるために港での厳重な検問を開始していたのである。

姉弟は英国への渡航をあきらめたが、だからと言ってこのままドイツ占領下に潜伏するのは危険極まりない(この危険性はアンネ・フランクの例によって証明されているし、占領下からの逃亡はパスカルらが父母から受けた最後の厳命でもあった)。父母のつてとレジスタンスの協力の下、極秘に北海を渡航した二人はそのままスウェーデンへと逃亡に成功する。スウェーデンは第二次大戦下でも中立を貫けた国であり、またユダヤ人への保護もあったためここを永住の地とする事に一度は決まりかけたのである。

日本へ[編集]

スウェーデンユダヤ人コミュニティの中ですごす事に決めた二人であるが、姉以外のすべてを失ったパスカルは次第にすさんでいき、悪い仲間と付き合いだすようになる。急激な環境の変化がもたらしたストレスと虚無感が彼を非行へと走らせたのである。姉のレティシアは彼の母親代わりとして厳しくたしなめた。そしてパスカルをこのままスウェーデンにおいて置けば、さらなる非行に走ると考えた姉は危険を承知で更なる逃避行に弟を無理矢理連れて行く事になる。目的地はリトアニア、日本領事館が無制限にユダヤ人に渡航ビザを発給している事を聞きつけてのことである。

少年と少女二人の逃避行は困難極まりなかった。何せ今回はレジスタンスやユダヤ人同志の助けなど殆ど無いのである。それでも二人は協力して無事にリトアニアに到着、杉原千畝の発給したいんちきビザを無事確保し、シベリア鉄道上海を経て無事に日本の敦賀にたどり着く事に成功する。

パスカルはやはり後の自伝の中で突如「日本に行こう」と言い出した姉の無謀な行動に驚きを隠せなかったと言う。しかしその姉の行動がパスカルの更正につながり、結果としてかけがえの無い体験ができた事自体はパスカル自体も認めている。またシベリア鉄道乗車中、切符代などで殆ど路銀を使い果たしていたパスカルに姉がロシア製の黒パンで作ってくれた例のパン菓子はまた格別であったと言う。

飯島との出会い[編集]

日本に入国した姉弟は再度日本の神戸にあるユダヤ人コミュニティの保護を受けた。同胞の支援もあり、弟のパスカルにも十分な教育を受ける事が出来たが、大東亜決戦に向けて日本国内は「パスカル」と「レティシア」という欧米風の名前は当局から問題視され、日本への帰化の条件として改名を要求されたと言う。協議の結果、日本側とユダヤ人コミュニティ側の妥協案として愛称で「パック」「ランチ」という名前にされる事になる(正確にはパスカルとレティシアの愛称ではないが、これは日本側の不勉強のためである)。弟のパックは猛勉強の結果、予備士官学校への入学を許可され、将来的に在日ユダヤ人義勇兵の指揮官となるべく教育された。そして士官教育の一環として1945年に高射砲部隊に配属される事になる。(余談であるが、姉のレティシアは弟の軍隊への入隊を快く思っていなかったという)

このとき、高射砲部隊で後の山崎製パン株式会社創業者である飯島藤十郎と出会い、意気投合する。父親以上に年の離れた飯島とパックであったが、飯島は身寄りの無いパックら姉弟に同情し、またその千里行の勇気を褒め称え、彼らを養子として引き取る事に決める(山崎製パンの社名と同じく名義上は飯島の弟である山崎姓を名乗る事になる)。そしてこの出会いが戦後飯島らとともに食品会社山崎製パンの立ち上げに協力する事になったのである。

山崎製パンでの活躍[編集]

ランチの作ったおやつを再現したピーナツバター入りのもの

山崎製パン内では経営者一族と同等に扱われたパックだが、ユダヤ人の利点であるコミュニティを生かし、資金調達や事業展開に奔走する事になる。また海外事業にもパックの見識は発揮され、東南アジアでは菓子パンの事をヤマザキというほどの社への貢献を続けた。1970年のアメリカ合衆国ナビスコ社との事業協力などはパックがロスチャイルド家を動かして実現させたとも言われる。そんな中の1972年、最愛の姉であるランチが急病で死去する。パックは深く悲しみ、この日を境に無理矢理研究開発部門への移動を決意する。

元々、研究開発部門は全くの畑違いであった。しかしながらパックはの思い出をなんとかパンで表現したいと思い、十年以上の年月をかけて研究に没頭した。その結果、作られたものが1984年に製品化にこぎつけたランチパックである。幼い日のパックにが、そして少年時代のパックにが作ってくれたパンを再現したものである。これはパックが食べやすいようにパンの耳を切り落とした上で具を挟み込んだものであった。名前は自分と姉の名前をくっつけたものであり、イメージキャラクターとして故郷であるオランダの民族服やシェフコートを着た少年少女時代の姉と自分のイラストをのせる(山崎製パンではこのキャラクターの名前を公表していない)という極めて独創的だが独走的な行動であったが、パックの強い意思もあり山崎製パンはこれを特別に製品化決定する。

極めてパック個人の考えが強い製品であったが、このが感じられる製品がバブル景気にわくと同時に何か大事なものを失っていた日本人のOLやサラリーマンに大ヒット、一躍ヤマザキの代表的な製品へと成長し、現在でも生産・新製品の開発が続けられている。パックはこの製品が成功したことを見届けたのち、1985年に死去した。死後山崎製パン経営者一族同様の社葬が営まれ、本人の強い意向で姉の眠る墓地の隣に埋葬されている。

余談[編集]

パックは生涯独身を貫いており、また姉のランチは1950年に結婚しているが、1960年に離婚、その後は死去するまで独身である。なお1966年から山崎製パンのトレードマークであるパンをかじる3歳の女の子のスージィちゃんはランチの実の娘であるが、ランチの死後は叔父のパックが養子として引き取り、実の父親のように養育したと言われる。