ルイ=アレクサンドル・ベルティエ

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ルイ=アレクサンドル・ベルティエとは、ナポレオン・ボナパルトの元帥達の中でも最も忠実なパシリであった人物。ナポレオンからは「代えの利かない人材」と評されており、それはベルティエが良く使える駒であったことを端的に示している。

人物[編集]

1753年11月11日、ベルティエは王国軍測量部隊に所属する地図製作部門総指揮官の子として誕生する。性格は実直であったが少年の頃から既に腰抜けの片鱗を見せており、吃音で会話する時は常にどもっており、周囲に馬鹿にされることも多かった。こういう気質の人間はストレスを内心に鬱積させ易く、おそらくインターネットが当時あったらネット弁慶になっていたことは明白であると藤本ひとみは指摘している。

父同様工兵学校に入学して測量技術を会得し、卒業後は王国軍に入隊して独立戦争真っ只中のアメリカへ派遣される。死に物狂いで戦った武功を評価され大佐に昇格するも、1789年に革命が起こり、貴族のベルティエは解任され、ロベスピエールが失脚するまでNEETとして雌伏の時を過ごすこととなる。

復職後の1795年ケレルマンに随伴してアルプス方面へ遠征する。ここでかのゲーテと出遭ったが、ベルティエはただの白髪の老人としか認識していなかった。

1796年、イタリア方面軍の最高司令官としてナポレオンが赴任し、ベルティエはその参謀長となる。以降、20年近くに渡り、16歳年下の若造にベルティエはパシリとして酷使されることとなる。

参謀長とは、軍の編成から兵糧の調達、最高司令官への申告など、様々な役目を負う重要な役職であったが、ベルティエが参謀長として最も身を削って尽力したのは、ナポレオンの書いた文章の添削、並びに彼の言葉の翻訳であった。コルシカ育ちのナポレオンは訛りが酷すぎる上文章を書かせれば酷い悪文であり、故意に使っているのではないかと疑わせるほど誤字脱字が多かった。ベルティエはその補填とナポレオンの口から発せられる、周囲の人間には解読不能なメッセージの翻訳に腐心し、ミュラやランヌなどの元帥仲間からインコだのオウムだの渾名されるようになった。

ベルティエは有能かつ小心者という、ナポレオンにとってあまりにも使い易い駒であった。ナポレオンが少しでも凄みを利かせると、ベルティエは萎縮して命令を実行してくれる。その為ナポレオンはありとあらゆる仕事をベルティエに押し付け、ベルティエは参謀長の範疇を逸脱した大車輪の活躍を見せた。だが本人が疲弊したのは言うまでもない。さらに、これだけの貢献をしたにも拘わらず、何故かミュラ、ランヌ、マッセナ、オージュローら他の将の方が注目の的となっていた。おそらく顔面偏差値でベルティエは彼らに劣っていたことが原因と推察される。ただしイケメンに限るという不条理は、ナポレオン帝国の中にも適用されていたのだ。

ナポレオンがベルティエを重用、寵愛した何よりの理由は身長であったと言われる。ナポレオンが小男であったことは有名だが、一方で彼の周囲に参集した将達は、いずれも優れた体躯の持ち主ばかりであった。だが、唯一人ベルティエだけが、ナポレオンとさほど変わらない身長であった。ベルティエの身長は、ナポレオンの劣等感をほんの少しだが払拭させ、彼に安堵を与えていたのである。

不倫[編集]

ベルティエは、40歳を過ぎても未婚であり、女癖の悪さで有名なミュラからは妖精さんと笑われていた。これを恥じたベルティエは、こともあろうにナポレオンの妹エリザを手篭めにしようと画策する。しかし、察知したナポレオンにきつい一喝を食らいあえなく失敗してしまう。落ち込むベルティエを見てナポレオンを良心が悼んだのか、ベルティエに手ごろな女性を紹介してやった。だがその女性は人妻であった。

しかしベルティエはその女性、ヴィスコンティ侯爵夫人に魅了されてしまい、蜜月の関係になった。几帳面な人柄だったベルティエも、貞淑だけは守れなかったようだ。しかも悲しいことに、ヴィスコンティ侯爵夫人は複数の男性と関係を以っていて、ベルティエはあくまで不倫相手の一人としてしか認識されていなかった。だがベルティエはそれに気づかず、遠征先からヴィスコンティ公爵夫人に対するラブレターを送り続けた。それもかなり恥ずかしい内容だった。

なお、ナポレオンは紹介しておきながら、自分の部下が不倫をしていることは醜悪であると考え、後にバイエルン公の姪を無理矢理ベルティエに嫁がせた。ナポレオンが怖くて仕方が無いベルティエは逆らえるわけもなく、やむを得ずバイエルン公の姪と結婚する。しかもそれから僅か2週間後にヴィスコンティ侯爵が死没し、夫人が未亡人となったのだから、天運に見放されたとしか言い様が無い。

離別、そして…[編集]

長らくパシリとしてこき使われてきたベルティエだが、ナポレオンが失脚すると、あっさりと彼を見捨ててルイ18世のいるパリへ向かってしまう。しかし、ナポレオンはエルバ島で捲土重来を期す。ナポレオン再起の報にベルティエは竦みあがった。ナポレオンは再び自分の下に仕えるよう召集を元帥達に促してきた。長らく酷使された経験からナポレオンのパシリとしての気質がベルティエの体内に浸透しており、ベルティエはナポレオンについついついていってしまいそうになるが、自制してルイ18世に随行し、ベルギーへ退避する。

ここでベルティエは住居を供給され、妻のバイエルン公の姪と、愛人ヴィスコンティ侯爵夫人の二人を招いて安穏な生活を送った。どう見ても修羅場としか思えないのだが、文献には安穏な生活と書かれていることが多い。

程なくして、ベルティエは変死体で発見される。飛び降り自殺であると周知され、ナポレオンがベルギー侵攻を企図していたこともあって、ナポレオンに対する畏怖と罪悪感から自殺したという風聞が流布した。しかし、ベルギーでの妻と愛人との三人での生活という状況を考慮するに、痴情のもつれによって何かが起きた可能性も考えられる。