ルドルフ・ヘス

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ハイルヒットラー!この記事は、ネオナチによる執筆です。ジーク・ハイル!
ご機嫌斜めなヘス様。1945年ニュルンベルクにて。
「『特に優れた政治力もなく』、『個人的忠誠によって党の第3の地位を占めたに過ぎず』、『党内での影響力は衰退』、『失敗、捕虜となった。』、『終身刑を宣告され』、『服役中に死亡。』」
ルドルフ・ヘス について、ブリタニカ百科事典

ルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘス(Rudolf Walter Richard Heß)様は、国家社会主義ドイツ労働者党副総統でありナチス親衛隊名誉指導者、親衛隊大将である。

崇高なる生涯[編集]

上述の通り、世界で最も信頼しうる百科事典と呼ばれているブリタニカ百科事典で散々に貶されているヘス様であるが、彼の功績は後に歪曲され、正しい理解がされぬままである。彼は最後の最後までヒトラーと党に殉じた。その崇高な忠誠に満ちた人生をたどっていこう。

少年時代[編集]

彼は1894年にエジプトはアレキサンドリアでドイツ人の商人の家に長男として生を受けた。賢く優しい母親に対して、父親は厳格で常に子供たちへは強く接し、この家庭における二面性が彼の生涯を象徴付けることとなる。少年時代に父親の影響から、薬草学や東洋的な神秘主義に惹かれていた彼は、座禅を組み瞑想すると、そのまま二、三回空中へ浮き上がるといったようなアレンジを加え、独自の瞑想法をひとり寄宿先のドイツ本土のギムナジウムや自宅のヴィルヘルム二世の肖像前で行っていた。一家は金銭的にも余裕があり、父親の存在に畏怖しながらも物理的には何不自由なく、やや内に籠りがちではあるもの「ふつう」の少年時代を過ごす。

彼は常に父親の指示に従って生活、進学したが、彼が20歳になり第一次世界大戦が勃発すると彼は初めて父親への反抗をした。父親の反対を押し切って家を飛び出し、涙をぽろぽろこぼしながら志願兵となったヘスだったが、街は彼のような志願兵であふれていた。志願兵の多さに初めから戦線に立つことができず兵舎で竹槍を素振りすることしか出来ない自分にわだかまりを募らせるヘスは、自分は銃を握れないのではないかという妄想にさいなまれ、「撃てますように撃てますように……」とドイツ兵の損害が増えることを星へと祈った。やっとバイエルン第一歩兵連隊として戦線に立ち、戦火を目の当たりにしたとき彼は心を震わせた。「ムラムラが燃えていました。心を奪われるほど美しい……」と家族に興奮しながら手紙を書き、読んだ家族を妙な表情にさせるも、父親に叩き込まれた軍式生活態度は上司の気に入るところとなり、1917年にはその才能で早くも少尉になる。しかし蠅も叩けない繊細な動物愛護家の面もその頃には育まれていた。

総統との出会い[編集]

まゆ毛強調

1917年に受けた肺の傷が癒え、リフレッシュし再志願した彼は戦闘機パイロットとなり意気揚々と出撃するも、大戦は彼の初出撃後数日で終了し、彼は大好きな戦争との別れを惜しみ声を上げて泣いた。その後はミュンヘンの極右サークルに参加し少しずつ頭角を現していった彼だったが、25歳の若者にも関わらずは飲まない、たばこは吸わない、ダンスは踊らない、肉は食べずに生野菜を反芻、女性との付き合いもない。と、そんな彼はいつのまにか変人と周囲から思われるようになったが、いまにも繋がらんとするその濃い眉の奥にある目は鋭かった。

1920年、彼は自分の人生を変えてしまう出会いをする。ミュンヘンのあるビヤホールで、一人の画家の演説を目にしたのである。その男は黒髪を水飴でも使ったのか完璧な八二分けにまとめ上げており、口ひげは古代ギリシア人が見たら涙をこぼして喜びそうな黄金長方形に切り揃えられていた。男はオーストリア訛りの強い言葉で最近数年間の出来事について語り、最期には全て「ユダヤ人が悪い、ユダヤ人が裏で糸を引いている、ユダヤ人が皮を切り取っている、ユダヤ人がこの世界の王者だ、ユダヤ人は髪を洗わない、ユダヤ人の礼服が暑苦しい……」と、ユダヤ陰謀論にこじつけ、演説も最期の方では「アッー!アッー!」というように聞き取りにくい、ほとんど恍惚たる心の絶叫だった。ヘスは自宅に戻るや恋人のイルゼに興奮しながら彼の髪形や口から飛んだ唾液の数について語り、その顔からはいつもの不機嫌そうな表情は消し飛んでいた。

闘い[編集]

金が余って余って仕方がない。

それからというもの彼はヒトラーにつき従うようになり、その姿は他人から見ると異様でもあった。ヒトラーもこの若い聞き上手な男をすぐに気に入り、二人でカフェに出かけてはいちゃいちゃとし始めると、周囲の席の人間は眉毛と髭のカップルに顔を歪ませて席を一つずらしたが二人には気にならないことだった。ヘスの熱狂はたちまち狂信となり、通っていた大学の講義にも顔を出さず、妻も相手にせずヒトラーといちゃいちゃし、いつしか秘書のような存在になっていく。

1923年11月、バイエルンではパン一個の値段が10億ライヒスマルクになった。人々の給与は2兆ライヒスマルクとなり、当然皆大金持ちとなって街には紙幣が溢れ、家から溢れた金が風に吹かれ、皆紙幣で鼻をかみ、尻を拭くようになった。その頃イタリアではヒトラーの崇拝するムッソリーニがローマへ大遠足会を行って権力を掌握しており、すっかり興奮しきっていたヒトラーはナチ党がまだ弱小泡沫政党であることなど忘れ11月8日に突然突撃隊を率いてミュンヘン一揆を起こす。ヘルマン・ゲーリングやらエルンスト・レームが騒ぎたてて周囲を混乱させ、ヒトラーが拳銃を空中にダアンダアンと乱射し演説をしたりと一時周囲を占拠した突撃隊だったが、翌日にはお祭りのように鎮圧され終了。勇猛果敢に突撃し、あとはヒトラーの隣でニコニコしていたヘスは失敗を知り、国境を越えてザルツブルクへ逃亡した。

ミュンヘンでヒトラーが罰金と禁固刑を言い渡されたと知るやヘスは自首し、ヒトラーの向かいの独房へ配置された。そこでヒトラーとはよりいっそう親密な関係となり、おそろいのパンツを穿き議論を交わすほどであった。ここでヒトラーの著書『わが闘争』の口述筆記をしたことが彼の一生の自慢となったのも無理はない。

忠誠あるのみ[編集]

投獄から政権掌握までが彼の人生で最も幸福な時期であった。相変わらずヒトラーとはキャッキャッとじゃれて仲睦まじく、党も上がり調子で、家庭的にも何ら以上は皆無。しかし党が財政危機に陥り落選し、心労でヘスが倒れサナトリウムでの療養から帰ると党は瓦解寸前になっていた。この危機はじきに回避され、党内人事の刷新で彼は中央政治局指導者(書記長並みの官職)に任命され、彼は「ぎぃやぁぁあああ!」と叫んで感涙を流し、ヒトラーへの忠誠を強めた。

1933年ナチ党が政権を掌握し、最もヒトラーのそばにいるのはヘスとなると、周りの者たちはヘスを介して自分の意見を通そうとし、おべっかを使ったり、昇進させることでそれを成功させようとした。親衛隊長官ハインリッヒ・ヒムラーはキラキラ光るかわいい星やオシャレなバッジがたくさん付いた親衛隊大将の制服を着せ、「本当によくお似合いで!それにこの制服は党に忠誠を誓う者にしか見えないのです!」とその服を着せてパレードに出席させ、国民からもゲーリングと並んで人気だったが、ヒトラーと会話する際以外は彼の表情はほとんど動かないので、周囲からは無気味がられてもいた。彼は国民にも自らのようなヒトラーへの忠誠を誓わせるべく個人崇拝を促進させ、ヨーゼフ・ゲッベルスのプロパガンダ活動ともあいまってヒトラーは国民の父となり、ナポレオン以上の英雄となり、アイドルにされた。ヘス自身はそのアイドルのバックダンサーでよかった。

1934年の長いナイフの夜事件で失脚したSA(突撃隊)のトップであるレームが逮捕され連行されると、ヘスは「最大のは消ヘス様がこんなことを言うはずがない」と言い、自らが手を下すことを要求したがヒトラーは他の者にこの役を与える。ヒトラーの側近たちはヒトラーにヘスをぼんくらだ、薬草マニアだ、六星星術に取りつかれているだ、まゆ毛が濃いだと散々に貶し、そのうわさに対しヘスは「だ……だって私は総統の前で血を出して倒れたのだ!君らにそんな甘美な体験があるかね!」と、より一層の忠誠を強調した。

仕打ち[編集]

潔癖で忠誠に満ちた彼を周囲は次第に疎んじるようになっていった。ある時ヒトラーとの食事会でヘスは出された料理には手を付けず、自宅からブリキの弁当箱に入った茹でブロッコリーとみずみずしいレタスを持ってきてそれを食べ始めた。塩をかけたブロッコリーをぼりぼり食べるヘスに気が付いたヒトラーが尋ねると、健康のための食事療法であるとヘスは答えたが、ヒトラーは「だったら家で食べなさい。」と言い、それ以来ヘスが食事会に顔を見せることはほとんどなくなった。この仕打ちにより心を病んだヘスは入院。精神病のはずが病室で全身包帯ぐるぐる巻きになり、何故か満足げなヘスを見たヒトラーは数日のうちに彼の後任に副官であるマルティン・ボルマンを任命し、もうすでに彼の権力は名ばかりのものになった。

ヘスが飛んだ![編集]

ヒトラーは著書『わが闘争』においても対英和平をすべきであるとの見解であった。ヘスも同意見であり、ドイツ側はしばしばイギリス側へ和平案を提案するも、チャーチルはにべもなく拒否し、その報告を受けたヒトラーは会食の席で「おおヤハウェ以外の神よ、私自身がイギリス人の前に飛んでいき、この髭をじゅうたんの上に押しつけろとでも?」と漏らした。久しぶりに出席していたヘスはそれを聞くとオツムのふやけた考え忠義に満ちた思考を巡らすようになる。まずイギリスへ飛ぶことを画策した彼はヒトラーにイギリス戦線へ行くことの許可を求めるも、さらにも増して最近意味不明な45歳の男を見たヒトラーは「一年間飛行禁止。」とだけ呟いた。しかし彼は自分の考える行動が失墜しかけている総統への信頼を回復するとして疑わず、準備に着々と取り掛かった。希望が浮かんだ彼は健康状態も回復し、その頃対面したヨーゼフ・ゲッベルスは「あのヘスが元気だと無気味だ、きっと明日は雨が降るのだろう。」と日記に記している。

ヘスはゲーリングの部下である空軍装備部長のもとで飛行機を一機所望したが「総統の許可が……」と言われ、次に訪れたメッサーシュミット航空機工場でやっと戦闘機を手に入れる。それを長距離飛行用に少しずつ改造し、秋には英語の猛勉強を始めた。初めは「これはペンですか?」「いいえこれはケフィアです。」程度のレベルだったが、演説の英訳を暗記し、飛行訓練も30回ほど重ねる。最期にヒトラーへの置手紙を「しあわせでした。また戻ってきます。」と2行で記し、準備は整った。

燃料満載の片道飛行[編集]

数日前ヒトラーと4時間にわたる会談を行い、JapanのHosoki曰く運勢のよい日である1941年5月10日の午前に四歳になる息子と別荘でたっぷり遊んだヘスは妻に「明日帰る」と軍服姿で別れを告げ、秘書を伴って午後5時45分に彼は戦闘機に乗り彼はドイツの地を去った。この飛行で彼のキャリアは水泡に帰し、彼はヒトラーと面会することも、残りの一生ドイツの地を踏むことも、また自らの自由が永久に失われることにもまだ気が付いていなかった。夜10過ぎにヘス様と戦闘機はスコットランドの農場に不時着し、戦闘機はぐしゃぐしゃに大破。黒焦げの中からむくりと起き上ったヘス様は素晴らしいことにも足を捻っただけであったため焦げた軍服の肩を叩いてチャーチルの元へと勇ましくも赴き、その場で即逮捕された。

翌日には世界中にヘス飛行の知らせが駆け巡り、それを知ったヒトラーはキャッと短く叫んで直ちにヘスの側近たちを逮捕させる。もしヘスが帰還した場合は銃殺もしくは精神病院に送る予定となった。

鉄格子すなわち病院[編集]

イギリス側はヘス様を軍使として扱わず、病人として扱う。何を言われても揺るがぬ鉄の忠誠心+αを持っていたヘス様には自白剤の投与も全く無駄であり、ただチャーチルへの面会を求めた。しばらく生活するうちに自分への扱いが軍人に対するものではないことに気がつき始めた彼はヒトラーあてに遺書をしたためると、刑務所の階段を転がり始めた。真っ逆さまに落下しのびている彼を見た看守は「何遊んでるんですか、部屋に戻って下さい。」と言い放ち、その後3回に及ぶ落下を繰り返すヘスを相手にする看守も少なくなっていった。

数年に及ぶ監禁で彼の心はすっかり疲れ切ってしまい、定期的な精神医の受診が必要となってしまう。彼の胃痙攣は慢性的となり、彼は監視兵への申し出の手紙で自らへの陰湿な嫌がらせについても記している。

私の食事に腐食性の強酸、すなわち王水や濃煙硫酸が入れられたようです。
私はなぜか泡立つオートミールを口にしましたが違和感を感じました。
それは甘くクリーミィかつスパイシーで刺激的で、その食感はチョコクリームでも、ヌガーでも、ピーナッツバターでもマーガリンでもヴェルタースオリジナルでもありませんでした。
気が付くと私の口内粘膜はぼろぼろになって垂れ下っていました。

さらに、食事はいつも腎臓や揚げたタラ、ミックスベジタブルや堆肥、腐敗した魚の味がする。ラクダか豚の内分泌腺が一番ひどかった。

しかし流石のヘス様である。口内がボロボロになりつつも平気で食事を摂ることができたようだ。ラクダの内分泌腺の味まで知っているのには驚嘆を通り越し我らに感激までもたらす。

ニュルンベルク裁判[編集]

ヘッドホンも付けないヘス様。左はゲーリング。

1945年まで彼がイギリスで囚われの身となっている間に、ドイツでは様々なことがあった。本格的なユダヤ人ホロコースト、第二次世界大戦、敗戦、ヒトラーの自殺……など推挙に暇がないほどである。1945年11月、敗戦国ドイツの戦犯たちを裁く国際軍事裁判が、以前ナチスの党大会が行われたニュルンベルクで開廷した。被告人席の隣にはかつてのライバルのゲーリング、外相リッベントロップ等が並び、元気なのはモルヒネ中毒と肥満から脱却したゲーリング一人で皆はうなだれていた。ヘスはストレス性の記憶喪失となっていたが、裁判官たちはこれを演技として却下。直接ホロコーストへ関わっていなかったことや、比較的早期に党を離れてしまったことなどを酌量し、初めは20年程度の禁固刑を予定していた裁判官側もこの演技によって不信感を抱き始めるも、ヘスの最終陳述を聞いて終身刑に決定した。

ヘス様は最終陳述の権利を行使し、ゲーリングがやめとけと言うのを振り払い、胸を張ると虚空を見据えこう言った。

ムシャクシャしていなかったがやった。何も後悔はしていない。ハイル・ヒットラー

その後の42年間[編集]

何故私を死なせてくれない……?

ゲーリングは絞首刑にされる数時間前に青酸カリを飲み自殺、他の幹部らも多数死刑判決を受けた。シュパンダウ戦争犯罪刑務所に入所したその後のヘスはと言うと生きた。とにかく生き続けた。1966年カール・デーニッツらが釈放されると、彼はその刑務所のただ一人の囚人となり、終身刑の判決を受けた者でさえ出所した中彼のみはヒトラーを礼賛し、背中が曲がっても毎朝右手を高く空へあげる儀式を行っていた。老年のヘスを国際社会は釈放させようとする動きを見せたが、ソビエトがそれを拒否し続け、1969年にやっと家族との面会が許される。

しかし、1987年8月17日の彼の謎めいた死で全ては闇へ葬り去られてしまったのである。刑務所の庭で散歩しているはずのヘスがいつまでも戻ってこないことを不審に感じた看守が捜索すると彼は庭のあずまやで寝ていた。「ホラ、おじいちゃん起きて」と体を揺すったが目を覚まさない、看守は仕方なくこの93歳の老人を背負おうとしたが、いつもとはちがう違和感があることに気が付いた。彼の首には電気コードが絡まっていたのであった、近くには遺書のようなものが存在しており、鬱病による自殺というのが公式の見解だった。

しかしこれには多くの疑問が存在する、まず彼は靴紐も結べないほど衰えており、電気コードを首に結べたとは到底思えない上に、もやい結びなどという高度な結び方ができはずもない。また遺書とされる書置きも筆跡は乱れ、日付も記入されていなかった。ヘスが日付を書き入れることを性格上忘れた可能性は低い、たとえ93歳であっても。さらに公式声明も矛盾ばかりで、検死も体のしわを広げて胃の内容物を見ただけのような杜撰なものである。よってこれはソビエト政府に対し何らかの不都合な情報を握っていたヘスをKGBが暗殺した可能性が高い。つまり彼はソビエト政府の陰謀によって暗殺されたのだ。いや、そうに違いない。