ル・マン24時間レース

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ル・マン24時間レース(-にじゅうよじかん-、フランス語: 24 heures du Mans)は、フランスル・マンという町で毎年開かれる自動車ドッキリショーである。

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概要[編集]

名前の通り、本来は24時間ぶっ通しでマシンを走らせて何周回れるのかを競うレースで、フランス西部自動車クラブ(ACO)が主催者である。
大体2~3人のドライバーが1台のマシンをかわりがわり乗るが、後述する無謀なドライバーチャレンジャーが1人で1台のマシンをぶっ通しで走らせるチャレンジを繰り広げることもある。
1923年からほぼ毎年6月ごろに開かれており、ル・マンの公道を封鎖してサルト・サーキットというサーキットをでっち上げて24時間の耐久レースを繰り広げている。しかし、そこで繰り広げられる様々なショーが話題となり、何故か「世界三大耐久レース」の一つに数えられている。

特筆すべきショー[編集]

このイベントでは、様々な見世物が話題となっている。24時間の耐久レースの前にホームストレートで観客にショーを繰り広げているが、レースの最中にショーを繰り広げることがあり、むしろそちらの方が見ものである。筆者の独断で特筆すべきショーを紹介する。

エクストリーム・我慢比べ
1952年にピエール・ルヴェーというフランス人のドライバーがタルボのレーシングカーで一人でどれだけ長く運転できるのかを確かめるためにル・マンに挑んだ。23時間目までルヴェーはトップを独走したものの、シフトミスでリタイアしてしまう。この挑戦に感激したメルセデスはルヴェーを後述する空飛ぶ車のパイロットに迎え入れた。

メルセデスの自動車飛行ショー
1955年に未来の車が空を飛ぶ事を予見したメルセデスは車での飛行にトライした。しかし、パイロットのルヴェーがホームストレートで飛行しようとした矢先に、ピットインしようとした車両を避けた他車に追突してしまい、ルヴェーのマシンは飛んだもののルヴェーも含め80人以上の死者と200人以上の負傷者を出す大惨劇になった。この時にメルセデスは、どうやって飛んだのかがバレないようにマシンの残骸を即座に回収した事で不正を疑われている。この失態でメルセデスは30年以上ル・マンに顔出しできなくなってしまう。1985年にザウバーにエンジンを供給する形で復帰し、1989年にレースを優勝することとなる。しかし、メルセデスの目的はあくまでも車を飛ばすことであり、1989年の優勝だけで終わったショックで1991年を最後にル・マンへの挑戦を中断してしまう。1998年に復帰し、1999年の予選でマーク・ウェバーが、本選でピーター・ダンブレックがそれぞれ名ばかりのGTカーの成れの果てで成功を果たす。これに満足したメルセデスは本選の途中で棄権し、ル・マンから消えた。


マツダミュージック
マツダはロータリーエンジンの排気音でいかに多くの観客を感動させられるのかに1974年から長年挑んできた。その長年の挑戦が実ったのは1991年で、4ローター+連続可変ファンネル4つのおにぎりと4連トランペットの究極の管楽器R26Bエンジンを載せた787Bでついに日本車初の総合1位を勝ち取る。レース終了時にはマツダに感激した観客がコースに飛び出てくる騒ぎを起こしている。また、その20年後の2011年の本選の直前には当時のドライバー演奏者であるジョニー・ハーバートによる再演が行われた。
最高速チャレンジ
ル・マン24時間レースの舞台となるサルト・サーキットには1989年まで全長6キロメートルのユノディエールというストレートがあり、そこで最高速チャレンジが繰り広げられていた。特にプジョー社員のウェルテルムニエの2人の男が率いるセカテバWMプジョーが熱心にチャレンジに取り組んでいた。そんな彼らも当初こそは最高速そっちのけでル・マンに挑んでいたがポルシェに勝ち目が無いため、予選での最高速アタックを目的にル・マンに挑むようになった。彼らの努力が実ったのは1988年の予選で、その時彼らのマシンは405km/hを叩き出した。「最高速さえ叩き出せればそれでいい」という姿勢で挑んでいたため、本選ではチャレンジで疲弊したマシンが故障して必ずリタイヤしてしまうのが彼らの様式美であった。この彼らのお遊びに激怒したFIAは主催者であるACOに難癖を付け、1990年にユノディエールに2つシケインを作らせ、最高速チャレンジを出来ないようにしてしまった。
珍車チャレンジ
90年以上の歴史を誇るル・マン24時間レースの歴史の中で、数多くの珍車がチャレンジしている。日本に於いては日産が第一人者であり、前述のユノディエールがFIAの手で潰された後のコースでのタイムアタックで勝手にトップタイムを叩き出してメカニック同士の殴り合いの喧嘩を引き起こしたR90CK飛行機魔改造したデルタウィングGT-RをFFのハイブリッドカーに改造したGT-R LM NISMOといった魔物を輩出している。
魔物のドッキリイタズラショー
このレースにはイタズラ好きな魔物が住んでおり、魔物のイタズラによってレースの展開が狂わされる事が度々ある。日本のチームではトヨタが主に被害に遭っている。1994年にはトヨタから94C-Vを借りて参戦していたサードが優勝目前だった所をマシンの駆動系にヒビを入れて一時走行不能状態に陥らせる、1999年には片山右京操るTS020が328km/hで追い上げている所でタイヤをバーストさせて片山を死の淵に追いやる、2016年にはトップだったTS050の吸気系統に穴を開けて終了3分前に走行不能に陥らせて筆者を含む多くの人間にトラウマを植え付ける等、悪行は枚挙に暇がない。トヨタを絶望の淵に追いやるのが魔物の好みのようであるが、2017年にはそれに飽き足らずポルシェにまで手を出してしまう。トップカテゴリーであり、トヨタとポルシェが覇を競うLMP1クラスの車両全車に手を出し、LMP1の4台がリタイヤに追い込まれてしまい、トヨタとポルシェは1台ずつしか生き残れなかった。この時も当然トヨタには優勝させなかったのは言うまでもない。そんな魔物も2018年にはネタ切れに陥り、トヨタの優勝を許してしまう。

代表的ドライバー[編集]

  • ジャッキー・イクス - 24時間耐久レースで6度の優勝を誇る。2005年には下のクリステンセンに最多優勝の座を譲っている。
  • トム・クリステンセン - 24時間耐久レースで9度の優勝を誇る。
  • ミハエル・シューマッハ - 1991年にメルセデスから出場して1位を狙うも、楽器演奏者の策略で5位に終わる。噂では、F1のベネトンでハーバートが冷遇されたのは、ついぞル・マンで優勝出来なかったシューマッハを差し置いてハーバートがル・マンを優勝してたからだとか。
  • 寺田陽次郎 - 日本人最多出場のドライバー。マツダスピードのドライバーだったが、所属していたマツダスピードがル・マンから撤退したら辞めてまで自力でル・マンに出る程ル・マンに取り込まれ、「ミスター・ルマン」と呼ばれるようになる。最終的にはACOに取り込まれ、役員に選ばれた。
  • ベルトラン・賀正ガショー - マツダの楽器を演奏して優勝。
  • ジョニー・ハーバート - ガショーと共にマツダの楽器を演奏して優勝するも、疲れで倒れて表彰台に立つまで20年待たされた。
  • カミカゼ右京 - トヨタから出場。1999年に上記の魔物によって328km/hでタイヤバーストさせられて死にかけるも、スピン回避で魔物から逃げ切り、その上で2位表彰台という離れ業を披露した。
  • 鈴木亜久里
  • ドリキン
  • 眉毛 - 2018年と2019年にトヨタから出場。2018年にはネタ切れした魔物をアッサリとブチのめして優勝し、すでにモナコグランプリを制してる為トリプルクラウンに王手をかける。翌年の2019年に残ったインディ500の制覇を目論むも、魔物に反撃されて予選落ちした。ただし、同年のル・マンで魔物への復讐を果たして2連勝している。

主な出場チーム及びコンストラクター[編集]

ポルシェ
最多優勝記録の持ち主。何が起こっても高確率で優勝してしまう。ポルシェ自身でなくてもポルシェのマシンを使うユーザーが優勝する事も多い。プライベーターのヨッヘン・ダウアーがグループCの962CをベースにGTカーとしてでっち上げて廃物利用しダウアー・962LMを出したり、ジャガー・XJR-14のシャーシに自社のエンジンを載せて屋根を放棄した寄せ集めWSC95をヨースト・レーシングにぶん投げたりしても優勝してしまう。2014年に復帰し、その翌年には早速優勝して貫禄を見せつけた。しかし、その2年後の2017年には魔物の餌食になって怖じ気付き、早速撤退してしまう。
アウディ
2000年から2008年、2010年から2014年まで連勝し、ル・マン14勝を誇る強豪であった。特に初期はクラッシュしても部品を簡単に交換出来るようにしていたため、魔物がイタズラを執拗に繰り返しても魔物の方が折れていた。尤も、魔物の抗議によりその方法が封印されてしまうが。2006年からディーゼルエンジンを用い、NOxやPMを撒き散らしながらル・マンを制覇しまくるも、皮肉なことに親会社共々ディーゼルエンジンでやらかして米帝に金を毟り取られたせいで予算がなくなり、2016年に撤退してしまう。
ヨースト・レーシング
かつてはポルシェと組んでいた強豪プライベーター。1998年にアウディに寝返り、アウディと共にル・マンで勝ちまくっていた。VWが市販車でインチキさえしていなければ…
プジョー
地元代表。上記のセカテバWMプジョーのウェルテルとムニエも所属していた。
トヨタ
常に魔物のイタズラの餌食となり、2018年に優勝するまでは良くて総合2位止まり。2016年には優勝目前だったTS050 HYBRID 5号車の吸気系統に穴を開けられて終了3分前にマシンが止まってしまうという悲劇に見舞われ、筆者を含む多くの者が深いトラウマを植え付けられている。LMP1のワークスがトヨタのみとなった2018年は魔物との一騎打ちと目されるも、魔物のネタ切れで優勝した。
マツダスピード
1979年、1981年~1992年、1994年~1997年に出場。他のワークスチームと比べ予算に乏しかったが、チーム内で出される食事の旨さは一流であった。主催者であるACOの胃袋をガッチリ掴んで仲良くしていたのは公然の秘密である。1991年に日本車初の総合優勝を勝ち取ったのも、料理の旨さで魔物がマツダを見逃したからだという噂もある。最終的には親会社のマツダ共々クロノスの悲劇で金欠となり、1997年を最後にル・マンから撤退してしまう。
日産
内ゲバとゴタゴタが十八番のチームとして知られている。1990年には日欧米の3拠点が同時に出場し、予選での争いで興奮が高まった欧米のメカニックが壮絶な殴り合いのバトルを見せた。2015年にひょっこりとル・マンのトップカテゴリーに顔を出したと思ったら、GT-R LM NISMOがアレ過ぎてプロジェクトそのものがゴーン会長からクビを宣告された。

関連項目[編集]