レフ・トロツキー

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

親愛なる同志、ヨシフ・スターリンは見ている
ソビエト社会主義共和国連邦閣僚評議会付属国家保安委員会認可

本項の文章と内容は、完全に正しい事実としてソビエト社会主義共和国連邦閣僚評議会付属国家保安委員会第10課長により認定されており、 全ての無産階級人民と、ソビエト連邦共産党員に見せることが認可されています。

この資料を疑うことは思想犯罪であり、疑った場合は国家反逆罪の対象とされます。

注意
この記事を書いたヨシフおじさんは、クレムリン暗殺されました。

レフ・トロツキー(英:Lev Davidovich Trotsky,露:Лев Давидович Троцкий)とは、どこまでもしぶとかったソビエト思想家

学者肌のトロツキー

目次

[編集] 青年期

彼は、のちにニガヨモギが川を汚し、作物を枯らすで1879年に生まれた。 青年期に、社会主義感化され、学生運動をする傍ら、自らの革命に対する熱い思いをしたためたい冊子を自前で製作、駅前でポケットティッシュ配りのアルバイトの際に冊子も配り、夜は革命への思いをオカズにぴーをして過ごす青春を送っていた。

ひと目その髭を見てからというものマルクスを敬愛していた彼だったが、当初マルクス主義に触れたころは、その主義に賛同はしていなかった、しかし、ある寒い朝、私服警官にティッシュを配り、「君が作ったのかね?」という質問にニコニコしながら答え、自らの溢れんばかりのマルクスに対する愛と、革命の必要性を2時間にわたり説いた。

警官は聞き終わると彼を灰色の建物に連れて行くと、彼は「バカに寒いところですね」とコンクリートの壁でできた建物に入り、「おじさんがおごってやる」と私服警官からかつ丼を渡され、部屋に入ると鍵を閉められた。

オジサン遅いなと思いつつ、嫌いなタマネギを除けて食べていると、屈強な男たちが部屋に入ってきて「お話しよう」といった、それから6時間「お話」をしたが、彼は警官に向かってやはり自らの思想を演説するのみで、改心せよとの警察の言葉に聞く耳を持たず、警察は彼を「危険な状態」と判断し、収容されることになった、彼は、かつ丼がおごりではなく自前であったことにブーブー言いながらも割と従順に2年の懲役を受けた。

その間に、差し入れの「資本論」という本を読み、今まで賛同していなかったマルクス主義に感動、その後も看守に頼んで本来禁じられているマルクス主義についての本を読み耽り、ロシア初の社会民主労働党の会議が開かれたと知ると、彼は飛び上がって喜び、自らが出所し、党に入ることを夜な夜な考えてはぴーをしているところを看守にたびたび見られている。そのこともあって気分が高揚し、ついには同じ房のマルクス主義者の女性とノリで獄中結婚までしたが、あくまでノリなので再逮捕されシベリアに流刑になった際に、結婚は無かったことにされた。さらに、シベリアで看守の名前を借り「トロツキー」という偽名に改名した彼は、シベリアで同志が大量粛清されていることを知り、危機感を感じて、自らのヨダレで徐々に鉄格子を溶かし隙間を広げると、全身の関節を外し鉄格子の隙間から脱走するという離れ業をやってのけ、の船でその極寒の地から脱走した。

一本のウォッカと「資本論」を持って。

[編集] 革命時代

脱出後、ロシア全土で起こったデモに参加したりするもの、ある日トロツキーの宿泊先で、トロツキーの部屋掃除をした老婆が、トロツキーのかばんの下からロリ画像を発見、警察に密告した、当時のロシアで、性倒錯者はシベリアの大地行きが決定していたため、トロツキーはシベリアでの終身流刑を宣告された、このことについてのちにトロツキーは著書「わが生涯」で、「人生最悪の過ち」としている。結局、トロツキーは、生活に必要だろうとのことでサツマイモ2本とピッケルを刑務所から渡され、シベリアに護送された。

しかしトロツキーは護送中に自らの自慢のヨダレで手錠を腐食させ、ピッケルで手錠を打ち砕き、ついでに護送中の職員の頭も打ち砕いて脱走、しかし思いのほか自分の着ている服が薄く、寒がりのトロツキーはクシャミをしたはずみに強い風に吹かれてウイーンへと飛んで行った。

ウイーンでも彼の気持ちは変わることが無く、2流誌に自らのマルクスに対する熱い思いを投稿したことなどもあった、しかしウイーンの人々が革命に対して誰も気にしないことに気がついた彼は8年後に住まいをスイス、続いてフランスに移し、マルクスに対する思いを「ツィンメルト会議」でまくしたてるも、狂人扱いされ、永久追放されてしまった。次にニューヨークに移り、ホットドッグを食べていると、どこからともなく「ロシア革命勃発」との知らせが飛んできたため、急遽ロシアに戻り、社会主義サークルを仲間内で作成、イベント好きの彼は革命という一大イベントで大いにしゃしゃり出て、厄介者として有名になった。

そこでトロツキーの作ったサークルよりも大きいサークルのリーダー、レーニンに「君も革命やらないか」とスカウトされ、お調子者のトロツキーは死をも共にすると誓った自らのサークルのメンバーを捨て、レーニンと付き合うことになった。

彼の信条は、「ナンバー1より、ナンバー2」であった、十月革命でレーニンの後ろについて活動していたが、いかんせんレーニンよりも髪は濃かったものの、影は薄かったようで、今日の日本の教科書においてはナンバー2どころか名前すら出てこない。

また、トロツキーはアナキズムを嫌っており、ウクライナの農民たちが無政府主義を掲げたが、トロツキーによって粛清されました

[編集] 失脚とピッケル

こんなモノを頭からぶら下げながら取り調べを受けた。

彼は、ハゲとは仲良しだったもの、ヒゲとは、以前食事の席で堅ゆでたまごか半熟のたまご、どちらが好きかといった話題で大ゲンカをしたあとから不仲であった、レーニンの死後、スターリンが台頭、次第にスターリンは、トロツキーのヒゲが自分と似ていることに不快感を示し、その頃からどうやってトロツキーを孤立させ、失脚させられるかで頭がいっぱいになった。

スターリンは、彼が過去にロリ画像を所持していた咎で終身刑になろうとしていた件を蒸し返し、我らが共産主義の国に撤廃したはずの性倒錯者がいるのは許してはならないとして、彼を次々に重要な役職から外していった、トロツキーは必死にしがみつくも、スターリンはトロツキーの周りに山吹色のお菓子を送り、自らの味方にしてしまい、孤独化したトロツキーをついに国外追放にしてしまった。

寒がりの彼は南国メキシコに亡命したが、ロシアで自分の元サークルメンバーが次々とスターリンに粛清されているといった状況に危機感を感じ、タコスを食べながら自宅を高野豆腐で塗り固め要塞化していたが、彼が出かけていた際に難なく高野豆腐のバリケードは破られ、強盗に身代金目的で息子が誘拐されてしまったのであった。

彼は「200円で手を打たないか?」と強盗に電話で交渉したが、生憎露店でタコスを買い食いした帰りだったために財布の中身は180円、「20円まけてくれ」とのトロツキーの懇願もむなしく、金が無いとわかった強盗にトロツキーの息子はひき肉にされタコスの具になってトルティーヤの間にはさまれてしまった。

息子の死を、悲しむ間もなく、トロツキーは自宅を日曜大工で学んだ技術でこれ以上は無いほど要塞化、結果非常に住みにくい家になってしまったが、防犯性は格段に上がり、最初からそうしなかったことが悔やまれた。

ある日、秘書の愛人と紹介されたジャック・モルナールという登山家の青年が自分の論文を見てくれと書斎にやってきた、実はジャック・モルナールというのは偽名で、本名は「ラモン・メルカデル」というスパイであった。メルカデルは油断したトロツキーの背後から迫り、トロツキーの頭蓋に思い切りピッケルを叩きこんだ。

だが、どこまでもしぶといトロツキーは頭にピッケルが刺さった状態でも倒れず、意識も失わず、「なんじゃこりゃ~ッ!」と叫び、警備員を呼ぶと、冷静にジャック(メルカデル)にこう言った、「ジャック、お前もか。」

頭からピッケルをぶら下げながら。

彼は常人なら即死する傷、つまり、ピッケルが脳にまで達するほどの傷を負いながらも、トロツキーは2日間刺さったまま取り調べを受け、収容先の病院で死亡した。

その時トロツキーは61歳であった、どこまでもしぶとい男の人生は、武勇伝に満ちていた。

[編集] 関連項目

Wikipedia
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