三方ヶ原の戦い

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「―とこんなわけで僕の初めての武田信玄クソミソな結果に終わったのでした…」
~ 三方ヶ原の戦い について、徳川家康

三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年(1573年)に遠江国で行なわれた武田信玄徳川家康の戦争の事である。家康が終始脱糞していたことで有名である。

目次

[編集] 概要

畿内に進出した織田信長足利義昭による信長包囲網の戦いは熾烈を極めていた。そんな中、徳川家は織田家の忠実なイヌならぬとして信長の野望を支えていた。姉川の戦いなどのように信長の家康に対する扱いは思わず脱糞するほど過酷なものであったが、家康は本能的に信長が怖かったためにうんこを漏らしながらも信長に従っていた。

そんなある日、高坂昌信に飽きてきた武田信玄はついに上洛を決意し軍を動員し三河に侵攻した。当時の武田信玄配下である甲斐の兵は屈強で知られる三河武士のさらに三倍の強さを持つといわれていた。その数は実に30,000、当時の徳川家の動員兵力の三倍以上であり、この時点で徳川家は10倍ほど差があったといわれる。負けは必須の戦いであり、家康は脱糞しながらも頼みの綱の織田信長に援軍を請うが、信長の回答は3,000だけ援軍を寄越すというものである。この報を聞いた家康は絶望のあまり脱糞したという。

武田軍の侵攻に対し、脱糞しながらも家康は徳川家の総帥としての責務を果たすため本多忠勝ら屈強な武将を引きつれ、偵察に出かける(一言坂の戦い)。だが家康があまりにうんこ臭かったため、武田軍に発見された家康達の軍勢は襲撃を受け、その恐ろしさに脱糞しながら忠勝に殿を任せて逃亡した。このとき、忠勝はうんこ塗れの主君のケツを守るために奮戦したため、武田家の渦中から「家康ニ過ギタルモノガ二ツアリ、唐ノ頭ニ本多平八」と言われる事になる。ウンコマンには忠勝と素敵な飾りつき兜は勿体無いという意味である。

こうしてまさしく汚名と汚物塗れの家康は浜松城に引き返し、恐ろしい武田家と便意をやり過ごし篭城をしようと考えていたのである。しかし家康がのんびり尻をふいている間に調子に乗った武田家はそのまま二俣城を攻略し、間抜けな家康を無視して織田領に侵略を開始しようとしていた。このままではあの恐ろしい信長に叱責され脱糞してしまうと考えた家康は、武田信玄の恐ろしさに脱糞しながらも全兵力を持って武田家に奇襲を仕掛けることを決定した。こうして便を漏らさぬように肛門括約筋を必死に絞めていた家康は武田軍の背後を突こうと祝田の坂やってきたが、この時に信玄が家康に気がついており、軍を反転して待ち構えていたのである。敵の罠にかかったことを知って恐怖のあまり脱糞した。

武田家とは兵力も戦意も違う徳川軍は織田軍の援軍もろとも一蹴される。もううんこだだ漏れの家康の首を狙って襲い来る武田家相手に、家臣達は家康の兜を奪い、家康の名乗りを上げ、うんこをわざと漏らす事で家康の身代わりになろうと奮戦した。家康はひたすらうんこを漏らしながら逃げる途中、あまりに漏らしつづけたため腹が減り茶屋で老婆よりを買い求めるが、敵が迫ってきたため家康はも払わず尻も隠さないまま逃亡を始めた。が、家康から漂う異臭のために老婆に場所がばれて結局つかまってを払わされた。家康はこの時、老婆のあまりの剣幕に再び脱糞したという。この餅を買った場所を小豆餅、お金を払わされた場所を銭取と後世呼ばれたという。なお家康が便を漏らした場所はあまりにも多すぎたため、このままでは三河・遠海すべての地名を「糞漏」と改名しなければならないために見送られた。

浜松城まで逃げ込んだ家康は城につくと途端に今までの下痢のため体力を消耗してしまい寝大便を漏らしながらスヤスヤと寝込んでしまった。家臣達は城門を閉じようとしたが、城内があまりにうんこ臭いために仕方がなく城門を開けっ放しにした。これを空城の計と勘違いした武田軍は浜松城攻略をあきらめたという。(あまりに臭かったから近づきたくなかったとも言われる)

[編集] 戦後

ゲッソリ。実は、この絵を描かせている間にも…
  • 家康はこの時、あまりに大量に大便を漏らしたためにゲッソリと痩せこけてしまった。
    その戦の凄まじさを忘れぬように、帰還した際の姿をそのまま描かせたのが、かの有名な『顰像』(右図)である。
  • 大敗した家康であったが、武田信玄に対して致命的なダメージを与えていた事までは知らなかった。
武田軍は快勝したものの、追撃戦では家康が退路に残しまくった鼻が曲がるほどの異臭を嗅がされ続けた。おかげで、年齢的にも体力を消耗していた総大将の信玄へのダメージが深刻であった。しかしその後は、わずか数日の休息だけで回復するものと安易に考えてしまい、そのまま越年して再び西への進軍を続けたのである。ところが、三河での攻城戦を最後にブッ倒れてしまった信玄。全身に行き渡った異臭の毒素は強烈で、西上作戦の継続を武田軍に断念させるほどであった。
結局、本国へ辿り着く前に、信玄の命は潰えたという。

[編集] 家康のその後と、後世への影響

命を拾ったとは言え、この戦いで身に付いてしまった「家康の脱糞癖」は、年齢を重ねても直らなかった。

  • 本能寺の変の凶報を知らされた際にも、丸腰同然の家康は恐怖のあまり、またも脱糞。敵に見つかって、穴山梅雪が戦死する原因を作っている。特に『伊賀越え』までは食事すら喉を通らなかった空腹状態だったのに、脱糞だけは続いていたという。
  • 関が原の戦い島津義弘による果敢な突撃離脱を喰らった際や、大坂夏の陣真田幸村にカチ込まれた際にも、恐怖のあまり脱糞している。
  • 調子に乗って、鯛の天麩羅をバカ食いした為に食中毒で苦しめられたが、実は下痢が命取りとなっている。
  • ホントなら黒歴史。当然である。幕府中枢を担う人材たちも恥ずかしい事実を隠蔽すべく、黒歴史として闇に葬るところであった。しかし、チョッと思慮の足らない旗本の大久保彦左衛門が記した暴露本・「三河物語」によって、彼らの労苦は全て台無し。江戸時代の庶民にさえ知れ渡ってしまったのであった。

[編集] 関連事項