三越前駅

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「三越」の項目を執筆しています。
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「今日は帝劇、明日は三越」
三越前 について、オスカー・ワイルド
「今日も三越、明日も三越、あさっても三越・・・・永遠に三越なのよ!」
三越前 について、三越の常連客

三越前駅(みつこしまええき)は、東京地下鉄東京メトロ銀座線半蔵門線の駅である。民間企業の名がつけられた珍しい駅であるが、この名前に落ち着くまで相当な悶着があったものと思われる。この項では、日本橋三越本店周辺、行政区画でいうと東京都中央区日本橋室町近辺、日本橋川より北の地域を併せて詳述する。

「三越前」駅の現況[編集]

銀座線のホームをまず降りてみよう。東京一の老舗百貨店三越の従業員が、東京メトロ職員に混じってホームで甲斐甲斐しく働いている姿を見かけることができるだろう。1932年(昭和7年)に開業して以来、B29の襲来によって炎上した家屋が多い中、昭和初期の建築様式を今に伝える貴重な文化遺産である。そのため駅職員ではなく三越の社員が出張して、柱や床その他の部分を丁寧にワックスがけしている。駅職員はこの神聖なる掃除を邪魔すると百叩きにされるという。すなわち駅職員は三越社員には頭が上がらないのである。今でも東京メトロ職員が勤務する上で人気のない駅の第一位は「三越前」だそうである。この駅まで地下鉄を通すために、あるいは駅を完備するために莫大な資金が三越から提供されたことはよく知られているが、それが現在まで続いているといえようか。

それぞれ床や柱はイタリアから取り寄せた大理石(ところどころに三葉虫の化石が見られる)であり、ミケランジェロダヴィデ像に使われているものと同じである。そして照明にはヴェルサイユを飾ったという蝋燭(ろうそく)式のシャンデリアが煌いている。電車が止まりドアが開くたびに乗客の足元には緋色の絨毯がひかれ、容姿端麗なエスコート役が現れては客をエスカレーターにいざなうのである。エスカレーターも赤と金で装飾がなされ、金色の部分は勿論言うまでもなく純金である。こうして改札口をくぐりぬけるといよいよ日本橋三越本店である。

三越本店の地下入り口に足を向けると、トランペットのファンファーレが鳴り響き、どこで用意したのかクス玉が割れて、中から紙ふぶきが散らばり、鳩が飛び出し、風船が舞い上がり、お客を息もつかせぬように出迎えるのである。まずはテレビ東京系列の午後の超人気番組「レディス4」でお馴染みの三越名誉顧問高崎一郎さんがよたついた足で登場し、三越特製の「カニ缶」を手にしながら「ありがとうございました」でご挨拶。続いてコーラス・ガールがラインダンスをしながら、「お客様ようこそ!」と言っては「今日の目玉商品」が逐一記録された広辞苑のようなチラシを手渡してくれる。このチラシの束は並みではない。まるで鈍器である。うっかり人の頭にぶつけたりすると即死するような代物である。入り口をよく見ると、縁起物である恵比寿・大黒の七福神が、熊手や招き猫や達磨(だるま)が、日本各地の「金運招来」のお札が所狭しと並んでいる。そしてその奥には「お客様は神様です」のロゴをあしらった装飾があり、今は亡き三波春男先生をしのんで、満面の笑みを浮かべる三波の等身大人形が、金糸銀糸をあしらった西陣織の金襴緞子をまとった姿で置かれている。

三越は、初代越後屋三井高利以来、「現金掛け値なし」の標語で知られているが、これを現代風に意訳すると「いつもにこにこ現金払い」である。現金しか信じないという現実主義的な商売戦略は、今日でも引き継がれており、先に述べたような銀座線から本店に入るまでの過剰とも言うべき徹底したサービスは、三越の「お客様」と「現金」を第一に考える社風の現われとも言えるだろう。ただし本店の入り口には監視カメラと赤外線サーモグラフィ、透視システムが常時作動しており、金を払う気のない冷やかしなどは「客」でないと見做され、「客でないのは神でない」という理論から、たちまち店内から黒服のお兄さんたちに寄ってたかって引きずり出され、ヤキが入れられた後、ブラック・リストに情報が登録され、お払い箱になると、噂されている。

三越百貨店の歴史[編集]

三越本店の前身は先に述べたように、三井高利にはじまる越後屋呉服店である。1904年に日本で最初のデパートメント宣言を出し、「三井」と「越後」をかけた「三越」に名称が決められたのである。時代劇ではよく「おぬしも悪よのうよう、越後屋」「そんなお代官さまほどでもありませんよ」「わっはっはっは」という悪徳商人のイメージから脱却するために改称したという説もあるが真偽は不明である。一部に「越三(えつみつ、えつぞう、えつさん、こしみつ、こしぞう、こしさん)」の名称にこだわって頑として意見を曲げなかった人たちもいたようだが、それはそれ、三越の「黒歴史」の一部になっていて、社史からも抹殺されている。

やがて1913年には「今日は帝劇、明日は三越」のコピーが登場し、翌1914年には日本初のエスカレーターを初め、エレベーター、スプリンクラー、全館暖房、屋上庭園、茶室、音楽堂などが設置され、用もないのに庶民がちんたら遊びに行くのに格好な場所となった。特に夏場になると冷房があるせいか、どう見ても貧乏人としか思えない大家族が群れをなしてやって来て、さっさと帰ればいいのに貼りついたみたいに陣取って、引っぺがすのに苦労したと社史に記録してある。さもありなん、この当時、庶民は扇風機すら買えなかった時代である。開店と同時に冷房目当ての客が来ると、棒でひっぱたいて追い返すのもこの時代ならではのことである。

ちなみ三越本館正面玄関にある2頭の「ライオン像」も1914年に設置されたものである。迷信深い人が多かった時代である。獅子舞の獅子と同じように、ライオンの口に時分の首を突っ込むと幸せになれるという話が流行し、多くのチャレンジャーが挑戦したという。中には抜けなくなって耳と鼻がもげた人もあったといい、正面玄関には血が舞ったというが、これはウソであろう。やがて神社と勘違いされたのか千社札が、ライオンのたてがみといい、胴体といい、そこらじゅうにびっちり貼られ、どさくさまぎれて「喧嘩上等 夜露死苦」とかいう書き込みまで増えて、ライオンの地肌が見えなくなることもあったという。更にはライオンにまたがって奇声を発する者まで現れたため、三越当局は、科学の粋を集め、またがると電流がビリビリ流れる仕組みにしたのである。これによっていたずらは大幅に減り、ライオンは今日の今日まで静かに鎮座することになったのである。

「三越前」駅となるまで[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「爆弾三勇士」の項目を執筆しています。

このように東京の人々のニーズを先取りした三越は、ただの百貨店とは見做されなくなり、人々は「日本橋室町に行く」とは言わずに「三越に行く」あるいは「三越前に行く」と地名として通用するようになったのである。調子をよくした三越当局は、地下鉄会社と手を組んで「三越前」の駅名をつけようとしたところ、待ってたかのように役人の横槍が入ったのである。今でも役人は頭が固いと相場が決まっているが、この役人たちも「「公共性」がないからダメ」の一点張りである。どっちでもいいように思うがそれがお役人である。対して三越側は、百貨店のそばに上海事変で亡くなった(1932年2月22日)爆弾三勇士の石碑を建てたいと、しかも日本人の鑑(かがみ)である「勇士」を「える」志の高い民を育むという意味で「三越の碑」を建てたいと、訴えたのである。時代は「爆弾三勇士」で持ちきりで異論があろうはずがない。ということでかなり強引な説得は成功したのである。同年4月29日の天皇誕生日(天長節)に「三越前駅」は開通したのである。「三勇士の碑」は経済的な理由により建てられなかった。目的が達成されたのでどーでもいいと思っていた。

浅草駅」を「松屋前駅」に、「上野広小路駅」を「松坂屋前駅」に、「日本橋駅」を「コレド前駅」や「高島屋前駅」になど、その他の改名は全くうまく行ってないのが現状である。

関連項目[編集]