上杉憲実

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上杉 憲実(うえすぎ のりざね)とは、室町時代に活躍した、足利学校の先生である。学識に富んだ人物だったが、一番の教え子である足利持氏の教育に失敗してしまったので、模範的な教師としては及第点に及んでいない。

人物[編集]

憲実が生まれた上杉家は、代々関東管領という職務についていた。関東管領とは、関東を統治する鎌倉公方として足利尊氏の三男足利基氏が鎌倉に着任した時に、それを補佐する役目として設けられた役職で、代々上杉氏が世襲した。関東管領の役目は、鎌倉公方を補佐する事と、鎌倉公方が逆心を抱かないよう監視することで、複雑な役目をもった役職であった。

憲実は学問を好んだ人物として有名で、関東に足利学校と呼ばれる学校を設立、多くの関東人の啓蒙に励んだ。そのおかげで、関東の人間の教育水準は飛躍的に上昇、鎌倉幕府が滅んだ後荒廃し蛮族が闊歩する土地になっていた関東は一気に文明的な地域へとなった。

関東管領[編集]

憲実は一方で関東管領として鎌倉公方足利持氏を補佐すると同時に、彼の家庭教師も担当した。しかし、憲実は持氏を「教育」することに失敗した。反骨精神の強い持氏は何かと憲実に反発し、素行は荒く、ついには将軍足利義教と真っ向から対立した。義教も義教でDQNであったため、両者は同属嫌悪でいがみ合った。そして将軍義教は、教育係、監視役である憲実を徹底して糾弾、追及した。

「教師であるお前の責任だろ、責任もって奴を始末しろ」
持氏の処遇 について、足利義教

憲実はやむを得ず主人持氏に刃を向けることとなり、永享の乱が勃発、結果、持氏は滅亡し、憲実は主人殺しの汚名を着ることとなった。これ以降、憲実は世を儚んだのか、出家して隠遁しようとした。ところが、結城氏朝が持氏の遺子を担ぎ出してまたしても将軍に反旗を翻したので(結城合戦)、将軍から鎮圧の命令が下った。憲実は雲隠れしようとしたが、息子の上杉憲忠によって無理矢理前線に引きずり出され、結果またしても主人殺しに荷担してしまうこととなった。

度重なる合戦で関東も疲弊し、足利学校も荒廃した。憲実の啓蒙によって一時は文明的になった関東は、再び掠奪や殺戮が横行する荒廃した土地となった。心身ともに疲弊した憲実は、隠居して各地を放浪し、最後は周防の大内氏の世話になり、そこで淋しく生涯を終えた。

不幸[編集]

憲実は決して関東管領として無能な人間ではなかった。しかし、彼が仕えた鎌倉公方の足利持氏、さらには、当時の室町幕府の将軍である足利義教、この二人が、共に自尊心が著しく肥大した好戦的なDQNであったことが何よりの不運であった。憲実ほどの人物の交渉をもってしても、この二人、いや二匹の猛獣の間を融和させるのは、至難の業である。むしろ、板挟みになりながら過労死しなかったその精神力を、最後まで融和に尽くそうとしたその忠誠心を称賛するべきだろう。

家族関係[編集]

憲実は息子憲忠との関係が悪く、後に絶縁している。学問を好み学校を設立するなど、優れた教育者であった憲実だが、鎌倉公方を補佐する関東管領としては主人と幕府を協定できず、息子とも良好な関係は築けなかった。すぐれた教養をもった人物でも、良好な家庭を築けると限らないということを、憲実の人生は物語っている。

足利学校[編集]

足利学校は日本で最古の学校だと言われる。憲実はこの足利学校を設立した人物とされている。つまり憲実は日本で最初の校長先生ということになる。しかし、現在の栃木県足利市昌平町[1]という、お世辞にもアクセスが良好とは言えない場所に立地していたので、あまり生徒を集められなかったのではないかと推測されている。

また設立に関しても、憲実は廃れていた学校を復興させただけで、学校の基盤自体を作ったのは小野篁であったとも言われていたりする。もしこちらの方が真実であれば、憲実は「日本最初の校長先生」の称号を剥奪されてしまうことになる。そのため上杉謙信はじめ、上杉氏の後裔達は、必死で「足利学校を設立したのは憲実である」と日本中に吹聴した。その宣伝が奏功して、小野篁設立説はマイノリティになっている。