中村研一

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中村研一(なかむら けんいち、明治28(1895)年5月15日 - 昭和42(1967)年8月28日))とは、日本の御用画家である。

概要[編集]

終生の傑作と名高い『シンガポールへの道』1943年。

大正から昭和にかけて活躍した(自称)写実主義の洋画家であり、その作品は帝国美術展覧会(ていこくびじゅつてんらんかい、略称「帝展」)や日本美術展覧会(にほんびじゅつてんらんかい、略称「日展」)などのいわゆる官製展覧会に何度も入選、大日本帝国の御用画家として当局に取り入り、多くのプロパガンダ作品を世に送り出した。中でも戦争画におけるリアリティには定評があり、当時の画壇を代表する最高傑作を数多く描き出したことは、大日本帝国陸軍および海軍の士気を少なからず高めたと言われている

人物[編集]

戦前[編集]

福岡県宗像郡のとある中村家に生まれる。明治42(1909)年に福岡県立中学修猷館に入学、そこで出会った悪友三輪寿壮日高信六郎児島善三郎秘密結社「パレット会」を結成。西洋画を勉強する名目でいやらしい絵ばかり描いてはめきめきと切磋琢磨し合い、結局は終生の強敵(とも、Rival)となるのであるが、そんなことは後になってみないと誰も気づかないのであった。ともあれ大正3(1914)年に修猷館を卒業した後に一浪するも、京都の遠い親戚であった鹿子木孟郎画伯のコネを頼って翌大正4(1915)年に東京美術学校へ入学。そこで師事した岡田三郎助画伯のコネによって大正8(1919)年に第8回光風会展で入賞、これが出世の手がかりとなったのであった。

戦中[編集]

すっかりやつれてしまった。

その後も多くの賞を獲得して帝展、新文展、日展の審査員を歴任し、大東亜戦争時は藤田嗣治らとともに軍の委嘱によって作戦記録画(つまり戦意高揚のための紙芝居)の制作に当たり、コタ・バルで15日間ほど物思いに耽って脳内に描き出した風景を描き上げた『安南を憶う』で第5回新文展の昭和奨励賞を、作戦記録画『コタ・バル』で朝日賞を受賞、その賞金で一生安泰に暮らせるかと思いきや、敗戦によって渋々帰国、東京大空襲によって廃墟にされてしまった代々木のアトリエを前に、呆然とするしかなかった。

戦後[編集]

どうしてこうなったと嘆いていてもしょうがないため、気を取り直して小金井市中町へ移住した研一は、昔日の栄光と遺産を食い潰して糊口をしのいでいたが、その哀れさを見るに見かねたかつての友人たちによって昭和25(1950)年に日本芸術院会員に推挙されたことでどうにか気を取り直して創作活動を再開、それまで噛みしめてきた人生艱難辛苦を淡々と、余計な感慨も情緒もへったくれもなく描き上げるというシビアなリアリズムがマニアにはたまらない作風の渋味を醸し出したのであった。

記念館[編集]

研一の死後、その作品を守り続けてきた富子(とみこ)夫人は、夫の手によって数多く描かれた自分の肖像画を世の人に見てもらいたい、あわよくばその見物料で作品の保全費用を賄えたらいいな、と平成元(1989)年に「中村研一記念美術館」を開設したものの、自分の絵ばかりを展示していたために客足は振るわず、早くも経営に行き詰まったために小金井市へ丸投げ寄贈。2006年に「中村研一記念小金井市立はけの森美術館」と改称、現在に至っている。

外部リンク[編集]