九条廃帝
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九条廃帝(きゅうじょうはいてい/くじょうはいてい)とは、順徳天皇と後堀河天皇の間に即位していたとされる天皇である。明治になって即位が確認され仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)の諡号を諡された。紛らわしいことに本名は懐成(かねなり)という。
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[編集] 略歴
順徳天皇の第一皇子として生を受け、わずか4歳で即位。幼少期から輝かんばかりのオーラを放っていたという。しかし血走った父天皇が承久の乱を引き起こしたことにより鎌倉幕府に譲位をさせられてしまう。退位後、『愚管抄』の著者・慈円の影響を受け、しだいに非武装中立を唱えるようになる。しかし弱冠17歳で崩御。死亡時の様子から暗殺という見方が強い。当時にしては珍しく妻は一人で一夫一妻制も守った。娘も一人儲けたが、娘が生まれた年に崩御してしまった。
[編集] 歴史での扱われ方
死後、クビになることを恐れた庶子家の武士の働きによって歴史からその存在を抹消されてしまった。しかし帝の聖性に感銘を受けた高僧によってその事績が語り継がれ、九条廃帝の名で知られるようになる。明治時代になり、天皇の代数を増やそうという目的ではあるがようやく歴代天皇に並んだ。
[編集] 九条廃帝虚構説
戦後になり史学のタブーがなくなると、九条廃帝は共産主義者によって作り上げられた虚構の存在ではないかという説が唱えられた。その論拠は以下のようなものである。
- まるで作り上げられたかのように憲法九条は非武装中立を唱えている。
- 同時期に諡号を諡された弘文天皇も、天武天皇を貶め国体を乱す存在であり、そちらは虚構であったことが通説となっている。
- 後高倉上皇は即位が認められておらず、しかも九条天皇との血縁が遠すぎ、おかしい。後高倉上皇=九条天皇である。
[編集] 進歩的文化人からの評価
非武装中立を唱えたということで総じて評価は高い。大日本帝国時代に諡された仲恭天皇という諡号はあまり使われず、九条天皇、九条大帝、九条聖帝などと呼ばれている。また、団体によっては九条大聖帝と呼ぶことが義務づけられている組織もある。
安倍晋三内閣下の2007年4月1日、靖国神社を潰し九条大聖帝神社を建立しなければ日本は必ず滅ぶという主張の立正珍国論と呼ばれる文書が首相官邸に送りつけられた。