五・一五事件

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索

五・一五事件(ご・いちごじけん)とは、犬養毅総理が来日したチャップリンのために準備したコメディーが、何らかの手違いでリアルな首相銃殺事件に発展してしまった謎多きミステリードラマである。

脚本準備[編集]

時は1932年。前年成立したばかりの犬養毅内閣の下、無謬なる軍師、チンギス・ハーンをも射殺する目くるめく神策と謀略の彗星石原莞爾公は不滅の関東軍を率いて堂々と満洲の地において合法的に満州国を建国したが、無知なる国際連盟は「泥沼の魔術師」蒋介石の策略に乗せられて、満州国が実は日本の傀儡国家ではないかとの疑いを立て、「謀略の米」スティムソンを派遣し、違法性の調査を行っていた。国内外では、大日本帝国が独裁化しているとの懸念の声も高まっていた。

若い頃、あの孫文に民主主義の大道を訓示した犬養総理は、この懸念を大いに憂慮し、日本の民主主義の水準の高さを世界に示さねばならないと考えていた。ちょうどその時、英国の人気役者チャーリー・チャップリンが日本にやってくるとの知らせを聞きつけ、軍の協力を得て大日本帝国の民度の高さをアピールする演劇を行うことを計画し、脚本を執筆した。

リハーサル開始[編集]

5月14日、ついにチャップリンが東京にやってきた。犬養総理は自らチャップリンを出迎え、民度の高さを示す演劇を創作したから明日観にこないかと誘いをかけた。思わぬ大物に出くわしたチャップリンは、これもコメディーのタネになると思ったので快く承諾した。チャップリンは順調に予定を消化し、翌日の夕方総理の息子と一緒にムチムチとした肉体の男同士が裸同然の姿で互いに相手の腰に腕を回して抱き合い、押し倒したり一線を越えたりするスポーツを鑑賞した後、総理公邸で演劇をみることにした。

その日の5時半ごろ、総理官邸では本番に向け古賀清志監督の下、最後のリハーサルが行われていた。民主主義を脅かす襲撃者役の三上卓海軍中尉が護衛警官役の田中五郎巡査を射撃すると赤い液体が体から流れてきた。しかし、一五の日に合わせた演出だったので、これは演出用のイチゴの液だと思って気にする者はいなかった。

ここまでは台本通りだったが…

三上ら襲撃者役の5人はその後、脚本通りに総理のいた食堂に向かい、家族に向け銃を向けた。ここで犬養総理は民主主義思想の寛大さをアピールするため、台本通りに「まあ、せくな待て。話をすればわかるだろう。撃つのはいつでもできる。あっちへ行って話を聞こうではないか」と5人を客間へ案内した。三上らは台本通りに靴を脱がずに客間へ乗り込み、「靴ぐらい脱いだらどうか」と総理にたしなめられた。

すると、これも台本通りに、山岸宏海軍中尉ら4人が後ろから駆け込んできて「問答無用、撃てっ!」と叫んだ。この声のあまりの良さに、三上は思わず「よしっ!」とOKを出した。チャップリンに認められるほどの迫力を出すために、総理はここで銃声を入れることをアドリブで指示した。

致命的手違い[編集]

そこで早速エキストラの黒岩勇海軍少尉が手持ちの銃で犬養総理に向けて発砲し、次に三上が銃撃してその場を離れた。イチゴのような赤い液が総理の体から流れた。ここで総理は「いまの若いモン、ちょっと話して聞かせることがある」と台本通りに喋ったが、そこで予定外にも倒れた。驚いた官邸スタッフがかけつけてみると、本物の血が全身から流れていた。驚いて二人の銃を調べてみると、手違いで本物の銃弾が入っていたことが判明した。無念のままその日のうちに総理は絶命した。

本来の脚本によると、犬養総理はここでイチゴの血を流した後、「デモクラシー万歳」と叫んで一瞬で傷口をふさぎ、その圧倒的治癒力で悠々と煙草を吸い、襲撃者たちを威圧して慈悲深き日本の民主主義の威光を知らしめることになっていたとされる。しかし、正確な脚本は混乱の中散逸してしまったので真相は不明。ちなみにその夜、犬養の息子はチャップリンを飲酒中毒にするほど泥酔させ、何とか演劇の約束を忘れてもらった。チャップリンが事件の3日後悠々と歌舞伎を鑑賞したのは泥酔による記憶喪失の証明である。

裁判への支援[編集]

古賀監督をはじめ、この演劇に参加した者達は間もなく捕えられ、軍事裁判を受けることになった。現職総理を殺したのだから当然極刑が予想されたが、ここで古賀監督は素晴らしき弁明を行い、後世に名を残した。

「私があのような演劇を立案したのは、米国の芸能人チャップリンを殺すためでございました。これは大日本帝国の遠大なるセカイ計画のためでございます」

裁判官「その計画を一言で語りたまえ」

チャップリンを殺せば、アメリカの使徒たちと戦争ができると思った。それだけです!」

この発言は、朝日新聞にとりわけ大きな影響を与え、同社は社説で極刑をとりやめるよう大キャンペーンを張った。国民も同じく感動し、この「義挙」を行った第三新ニホン志士たちの思いに応えよと70万通も投書を送り付けた。その結果、最も重くて懲役15年という判決が下された。

青年将校たちはこの事件に大いに熱狂した。そしてチャップリンの次の来日時期を調べ上げ、4年後再来日を祝って、イチゴの雨を総理官邸に降らせたのだった。

事件への国際的反響は大きかった。4年後に事件の記憶を取り戻したチャップリンがその後独裁者でヒトラーを演じた時、頭に浮かべたのはこの日の出来事だったという。チャップリンは晩年の回想録で自分が米国人になれたと実感できた瞬間として、古賀監督の裁判での発言を知った時を挙げている。

関連項目[編集]