五十万トン戦艦
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
五十万トン戦艦(ごじゅうまんとんせんかん)とは、大正時代初期に当時の大日本帝国海軍の金田秀太郎というド偉い中佐さん(後に更にド偉い中将になりますよ)が考案・設計・戦力化した、超巨大マンモス級戦艦である。
……いや、ぶっちゃけ巨大海上要塞か軍艦島に大砲とスクリューをつけたものと言った方が正しいだろう。当初はそのインパクトから戦艦の王者として異名を持った。後、航空主兵時代になってからは五十万トン航空戦艦に改名された。
目次 |
[編集] 概要
タイタニック号が沈み、明治から大正に年号が変わった年に発案・建造されたという。言われるまでもないが、当時の日本海軍は日露戦争を勝ち抜いて海軍の王座のトップに君臨したばかりであった。しかし、日本では必要な数の艦艇を揃える分の予算が間に合わず、結果的に対馬海戦(日本海海戦)で躍り出た連合艦隊ぐらいしか所持していなかった。そこで、金田秀太郎はこんな日本の海軍事情に応じてこんな解決策を導いた。↓
「複数の巨艦を作る余裕がないのですか。だったら、途方にない威容を持つ他国の戦闘力に匹敵するバカデッカい巨艦をド~~~~ンと1隻だけ浮かべてしまえばいい。」
つまり、1隻で他国の軍艦を撃退できる巨大戦艦を1隻だけ作れば予算発注が1回だけで済むというトンデモ発想から作られたのだ。こうして作られたのが超超超弩級戦艦こと五十万トン戦艦である。関係者の中には戦艦大和に関与した人物も多くいるため、大和の存在こそこの五十万トン戦艦の科学が継承されていた証拠である。まず、「軍艦島にスクリューをつけて航行させるにはどうすればいいのか?」という研究から開始され、その研究が始まってから半年足らずで試作機が完成し公試運転した。計画が立ち上がってから実に1年。ようやく第一号「土佐」が完成に至ったのである。その間にドックの確保だとか人員の確保とかで色々手間取りました。また,財政がやばいことに・・・・。
[編集] 巨艦の起源
五十万トン戦艦のような巨大な船を作る構想はかなり古く、神話の時代にさかのぼる。 その時代で大昔の祖先が大量に地球に降り立つ際に乗ったのが「巨大神船」と言われてるらしい(軍艦ではない)。 なお、どの位大きいのかは判明しておらず、「天を覆うほど」または「惑星を覆う」と二つの説がある。 また、有名な話で大水害により地球がプールになった際に作られたといわれるのが「ノアの箱舟」である。 こちらも軍艦ではないが巨大で難民を全て搭載してもまだ行き来が出来る程。 ただし衛星状況は急ピッチで作られたことを考えると最悪だったのではないのかといわれる。 その後、時代はエジプト文明期になり時の覇者クレオパトラとクフ王の命令により巨大な軍船を建造し他の民族や水軍を撃退する際に使用する。 総排水量は20万トン(諸説では25万トン)と言われ五十万トン戦艦の前置きといわれるほど。 中には豪華な王室や億千万の弓矢を放つ甲板などが据え付けられておりこれがエジプト文明を繁栄させた一因である。 また、この船及びピラミッドなどに建造費を取られて財政が破綻したとも言われる。 その後、時代は縄文時代から弥生時代に遡り王族を撃退するために卑弥呼らが超巨大な帆船を作っていたようだが完成する前に戦いが終わってしまったという。 やがて、時代は平安時代・鎌倉・南北朝と続くにつれ軍船の進歩が急激に加速し室町時代には海上戦闘を想定した巨艦の構想図が完成。 しかし、応仁の乱は地上戦だったので実働せず。 やがて、この構想図は戦国時代においても使われることになるが残念ながら地上戦が主で殆ど海での戦いは発展しなかった。 やがて、江戸時代のころになると海外ではイギリス海運企業が8万8000トン級戦艦「ビクトリー号」を完成させ大暴れ。 たちまちイギリスの海運科学が広まる。 当然世界では色々な用途を想定した巨艦が作られたがいずれにせよ財政の破綻や建造費の高騰を招くとしてこれ以降作られなかった。 そして、日露戦争後にこの資料を見つけた日本海軍の金田秀太郎がこのプランを日本の経済事情に生かそうというものであった。
[編集] 名前の由来
- 他国の軍艦に対抗できるパワーとインパクトから計算した艦の総重量が五十万トンだったから。
- 積まれる砲弾と火薬の重さが五十万トンだから。
上記のどちらかである。なお、このような巨大な軍艦に対する野望はやたら古く、大航海時代末期におけるイギリス海軍のビクトリー号の時代からあった。また、この計画が出る以前から超巨大戦艦の建造案が出ていたという説もある。
[編集] データファイル
- 全長 - とにかくでかい。1km以上。割り切って言えば1000m超。
- 最大幅 - これでもか!650m超。
- 排水量 - 50万トン
- 速力 - 42ノット(徐行速度)・200ノット(戦闘時)(この重さでこの速さは信じられない。)
- 乗員 - 一万人超(努力すれば五万人は乗れる。)
装備
- 新造時
- 45口径80糎5連装主砲 - 20基100門
- 50口径41糎副砲 - ケースメイト式単装180門 連装砲塔10基20門
- 50口径14糎連装副砲 - 砲室式 100基200門
- 魚雷発射菅 - 200門?(詳細な記述なし。もしかすると300門だったり。)
- 探照灯6基
- 軍縮条約時(一部武装撤去時)
- 45口径80糎五連装主砲 - 14基70門
- 50口径41糎連装副砲 - 10基20門(ケースメイト式は撤去)
- 50口径14糎連装副砲 - 砲室式 20基40門(来日する色んな国のお偉いさんが見るたびドン引きするので極限まで撤去)
- 魚雷発射菅 - 200門?
- 探照灯6基
- 太平洋戦争終結時(この後近代化されるも考えるのがめんどいのでry)
- 45口径80糎五連装主砲 - 14基70門
- 50口径41糎連装砲 - 10基20門
- 50口径15糎三連装砲 - 20基60門
- 65口径10糎連装両用砲 - 100基200門(この時点でまたもドン引きされる姿に戻った)
- 40粍4連装/連装機関砲 - それぞれ160基/50基
- 25粍3連装/単装機関砲 - それぞれ20基/10基
- 対潜弾投射機 - 20基
- 対艦射撃用レーダー・対空射撃用レーダー
- 航空甲板×2
- カタパルト×4
- 格納庫(艦載機120機を収容。かの赤城2隻分)
- 拡大型ヴォルテックスグラインダー発生装置10基
とにかく通常艦船とは一線を画する。端的に言えばキモイ。まさに動く島である。
[編集] 長所
- 所詮1隻だけ出撃すればいいので、戦闘準備が大幅に短縮される。
- 敵艦隊を瞬く間に撃破できる。
- 攻撃力が凄まじいので、駆逐艦やコルベット艦などは所詮模型に過ぎない。
- 速力があり、日本からアメリカまでならばおよそ3日間で縦断できる。
- 低燃費であり、環境配慮も優遇されている。
- インパクトが恐ろしい。同じ海軍の旗艦である三笠と比べると歴然の差。
- 兵員の数が多いため、1人倒れてもまだ多くの重役が確保できる。
- 日本を瞬く間に一周できる。これは、「1隻優勢」という概要を握り果たしたことによるもの。
[編集] 短所
- 燃料の消費量が凄まじい。
- この軍艦1隻のために、他の殆どの艦艇の整備や補強作業が出来なかったこと。
- ドックや人員確保のため国が破産しかけたこと。
- 弾薬の消費量がものすごく、確保するために輸送船100隻を随伴せざるを得ないこと。
- 軍港に停泊できるサイズではないため、洋上に止めておくしかないこと。
[編集] 成果
五十万トン戦艦は日露戦争にこそ間に合わなかったが,第一次世界大戦に借り出され瞬く間に敵艦の90%の数を撃破もしくは沈没させた。その後、名前を土佐に改名し世界の海を荒らし回ったため、ロシアやアメリカからはモンスター戦艦といわれた。
[編集] 影響
[編集] 国内
単独で艦隊を蹴散らす軽快な巨艦は国内で大絶賛され,人員削減や戦費投入に喘いでいた国民はこの事実を大いに高く評価した。また,大艦巨砲主義の思想が活発化し戦艦大和や八八艦隊の原点にも至った。
[編集] 海外(主にロシアや中国・アメリカ)
日本が建造した超巨大戦艦は世界にとって脅威になった。特に,ロシアは世界に誇っていたバルチック艦隊を喪失し再軍備に励み日本を再攻撃する計画を立てていたがこの戦艦の出現により決行が先延ばしにされた(計画段階では1928年であったが実働した年は1943年)。中国では巨大軍艦の建造(排水量1万8000トン)の建造に着手していたがこの戦艦により更に増改築が命令され就役したのは予定していた完成年である1925年ではなく5年遅い1930年だった。アメリカは持ち前の造船学をフル活用し排水量60万トンの戦艦の建造を実行したが世界恐慌や金融機関の消滅により1941年に完成した(予定していた年は1938年)。この戦艦のため,予定にあった戦艦「ケンタッキー」や航空輸送艦「ユナイテッドステーツ」などの建造が大幅に遅れたのは言うまでもない。時の大統領フランクリン・ルーズベルトは「もし世界恐慌さえ起きていなかったら日本を上回る超絶巨艦の完成も可能だったかもしれない」と痛いコメントを残した。
[編集] その後
[編集] 軍備縮小条約時代
当然、この巨艦は軍隊の装備を縮めるための条約の対象になるため、一部の兵装を撤去してしばらくの間呉沖に置かれた。ところが、台風の被害を想定すると計り知れないため、更に財政が破綻することを踏まえて、高知県をまるまる潰して巨大な整備基地を建造。そこにこの五十万トン戦艦を収容した。いや~苦労した苦労した……。
[編集] 太平洋戦争時代
時代は既に、主力戦艦がボカスカ殴り合う大艦巨砲主義の時代から、戦闘機による水上作戦を主体とした航空主兵時代に成り代わっており、戦闘機の登場で戦艦の出番は限られつつあった。その為、艦橋の両サイドに飛行甲板を増設し、名前を「五十万トン航空戦艦」として活用。終戦まで現役であった。
[編集] 戦後
日本は1945年を持って戦闘を終了。五十万トン航空戦艦はその後海上自衛隊の主力艦として在り続け、1998年に惜しまれながら退役した。永きに渡って魅了してくれてありがとうございました……。