井伊直弼

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井伊 直弼(いい なおすけ)は、幕末期の彦根藩主で、幕末期の大老。

概要[編集]

安政の大獄による凄惨な粛清で悪名高く、その凄惨さたるや、ムスカ大佐が「ハッハッハ! 見ろ!!人がゴミのようだ!!」と大絶賛した程である。粛清によって多くの尊王志士たち、特に水戸浪士の怒りの導火線に点火し、自ら維新回天の起爆剤となって凶刃に倒れた。

後に舟橋聖一によって彼を主人公にした小説「花火の生涯」が執筆され、記念すべきNHK大河ドラマの第一作に選ばれた。「赤鬼」「赤い彗星」「チャカポン」などの二つ異名を持つ。

略歴[編集]

彦根藩15代藩主。彦根藩井伊家は直弼を含めると5人も大老を輩出しているが、直弼の印象、日本史上に与えた影響があまりに色濃いため、今日では井伊大老といえば殆ど直弼の事を指す言葉となっている。その為他の4人は「俺だって井伊大老だ!」とあの世で憤慨しているとか。

直弼が断行した安政の大獄は、日本史上でも類を見ない苛烈な弾圧と評価されることが多く、維新志士達から「井伊の赤鬼」と憎悪され、再評価の傾向がある今尚嫌われ役としての余韻が強い。「いいなおすけ」から「け」を取ると「言い直す」になり、「武士に二言は無い」を座右の銘とする大和侍達からは、名前の時点で直弼は嫌われる要素を十二分に持っていた。直弼は蛇蝎の宿命を背負ったユダであったのだ。

NEET時代[編集]

後に大老として辣腕を振るう直弼も、若い頃は半ばニート同然の生活をしていた。直弼は庶子の上14男なので井伊家の藩政に加わることは許されず、その上、後に四方八方から憎悪を買った事からも分かるとおり、英明であったが性格に難のある人物で、養子の話が持ち上がっても「そんな凡俗大名のところに俺が行ってやる義理はない」などと貰い先の大名をコケにするため悉く破談になり、結果養子の貰い手も無かった。そのため300俵の捨扶持を貰い、みずから「埋木舎」(うもれぎのや)と名付けた城外の北の小さな屋敷で32歳まで、象牙の塔に篭るニート生活を送った。彦根藩の家老達からは「妾の産んだ冷や飯喰らい」と嘲われていたという。

ニート生活中、初めのころは直弼は「俺がこんな境遇におかれているのは世間が悪いからだ」と世の中への恨み言を垂れるばかりであったが、やがて自らを戒めるようになり、自己を洗練するべく書道、茶道、禅、活花、和歌、絵画、舞踊、能楽などの習い事に精励し、教養を磨いたが、回りからは「まるで定年過ぎた爺さんの道楽みたいだ」と揶揄された。武術、学問にも精通し、居合、槍術、砲術、SUMOUアフガン航空相撲など網羅的に嗜んだ。小遣い稼ぎの為に武道大会に飛び入り参加して賞金を掻っ攫う事もあったという。

この通り、天才肌、芸術家気質の直弼はあらゆる学問や武術に通じていたが、インテリの定めか、生まれつきの天狗気質は改善されなかった。またその複雑な思想、心情は他者に理解されず、直弼は俗人との乖離を感じるようになりますます人格が捻じ曲がってゆく。

長野主膳との出会い[編集]

直弼の懐刀として知られる長野主膳と出会ったのもこの頃である。長野は国学の私塾を経営していたが、生徒に体罰を振るったのなんだのでPTAから糾弾され窮地に立たされていた。この時両者の間を仲介し長野を救ったのが直弼であった。これを契機に直弼は長野と気脈を通じるようになり、長野の国学に感心を抱き彼の薫陶を受け、また井伊と同様エリート思考の気があった長野は井伊に選民思想を鼓吹した。後の大老時代の行動の動機に繋がる彼の思想やエリート思考はこの時期に培養されたのである。

彦根藩主へ[編集]

直弼の兄である彦根藩主井伊直亮には継嗣がおらず、同じく直弼の兄に当たる直元が家督を継承していたが、その直元も嗣を残さぬまま没し、他の兄弟達も夭折、あるいは他家の養子に送られていたため直弼に家督継承が回ってくる。

直弼が藩主に就任して真っ先にやった事は、自分を冷や飯喰らいと愚にした家老達の一斉処分、追放という報復人事であった。彦根藩関係の史料からはそのような記述は見られないが、これは懐刀の長野が隠滅したからである。この私情をむき出しにした粛清行為に非難の声が一部で上がったが、高禄を食むだけの無能な家老達が淘汰され、藩政が円滑化することになり、直弼の粛清行為が吉と出る結果となった。直弼は自分の考えを理解しないもの、自分に反発するものに対しては露骨な敵意を持って排除にかかるところがあり、この傾向は後の安政の大獄にも現れる。

いきなりの粛清行為で世を震撼させた直弼だが、彦根藩主時代は善政を敷き名君の誉が高かったという。しかし一方で長野や宇津木六之丞、愛人の村山たかを使役してスパイ活動を行わせており、特に当時尊王攘夷の気運が高まっていたことからこれに眼を光らせ、攘夷を唱えるものあれば即座に拿捕し、拷問、追放などの処罰を下したという。

大老就任[編集]

その後、直弼はその聡明さをもって中央政権にも関与するようになる。彦根藩井伊家は代々溜間に殿中席を持つ譜代大名筆頭の家であったことを活用して、直弼は松平乗全、松平忠固らを懐柔し、自分の派閥を作っていった。

この頃の幕政は老中阿部正弘によってリードされており、彼は攘夷の巨魁徳川斉昭や、島津斉彬松平春嶽らの外様大名や親藩とも提携し、意見も汲むなど協調路線を取っていたが、水戸烈公の異名を持つ斉昭は盛んに勤皇・攘夷論を唱え、阿部らも手を焼いていた。欧米諸国からの開国の督促に対して解決策を講じないまま小田原評定が続いていた。

佐幕派であり開国派であった直弼にとっては、徳川の御三家でありながら尊皇攘夷を鼓吹する斉昭は疎ましい存在であり、評定が進展しないのも水戸の老公の怪気炎、ついでに烏合の衆の外様連中の意見など汲み取っているせいだと決め付けており、幕政は選ばれた少数精鋭によって運営されるべきであると考えていた。直弼は斉昭の意見にしきりに容喙し、いちゃもんを付け挑発した。無論短気な斉昭から直弼は反感を買って対立が深化し、互いの足の引っ張り合いが始まる。その政争の中で直弼は幕僚内に自らのソックパペットを着実に増やし、彼らの工作によって見事大老へと就任、やりたい放題するようになる。

将軍継嗣問題[編集]

直弼と斉昭達とは将軍継嗣問題でも対立した。13代将軍徳川家定に子がおらず、病弱で今後も子が生まれそうになかったので、他家から養子を迎える必要があった。阿部正弘ら老中他諸侯は斉昭の七男で聡明さで知られた一橋慶喜を推挙していた。これに対して、直弼は紀州徳川家の徳川慶福(徳川家茂)を推した。直弼が慶福を推挙したのは血統を重んじたからであり、現将軍家は8代将軍徳川吉宗の系譜であり、その系統にもっとも近い紀州の慶福を将軍に据えようとしたといわれているがそれは名目上の建前である。直弼が慶福を推挙した本当の理由は、対立候補である一橋慶喜に対する底知れぬ不信感と、大奥を敵に回すことへの危機感であった。

確かに一橋慶喜は聡明である。しかし賢すぎて底意の知れないところがあり、何をしでかすか分からない不気味さを醸し出している。現に岩倉具視などは「奴はモンスターだ、危険人物だ、だから一刻も早く首をはねねばならん」と、江戸城無血開城に至るまでしきりに慶喜の討伐を主張していた。将軍につけたら最後、暗君によって体制が腐敗するのとは別の意味で、慶喜によって内部から幕府は瓦解するのではないか。そういう危機感を直感的に直弼は感じていたのである。

もう一つ無視できない存在があった。大奥である。家定の母本寿院を筆頭に、大奥の鬼女達はこぞって水戸藩を蛇蝎の如く嫌っていた。斉昭が大奥の縮小化をしつこく促していたからだ、あるいは斉昭が大奥の女性達にセクハラ行為を働いていたからだなどと色々言われているが、とにかく彼女達は水戸のみの字を聞くのも嫌がる水戸嫌いであった。愛人村山たかを女スパイとして使役していた直弼には烈女の恐ろしさが良く分かる。大奥はたかのような女が数千人もひしめく魔窟である。もし慶喜を推挙したら最後、自分が大奥の女達にリンチされて樽につめられ江戸湾に投げ捨てられるかもしれない、そう思うととても慶喜を将軍にしようなどという戯言を吐けたものではなかった。

結局、直弼の工作活動などが奏功し、14代将軍には家茂が選任される。直弼はこの時、大奥の水戸藩への反感を利用し、彼女らに諸侯の慶喜推挙への妨害工作を行わせたという。大奥の女中達による水戸藩士に対する投石や、慶喜が将軍になったら自殺すると殿中で懐剣を喉に突きつけて脅迫じみた行為に及ぶものまでいたという。大奥を敵に回すと怖いのである。

安政五ヶ国条約[編集]

開国か攘夷かで小田原評定を相変わらず続ける日本に対しアメリカ総領事ハリスはキレてしまい、強引に条約締結を促すようになる。直弼は「どの道条約は締結せざるを得ない」と速断し、調印を断行する。この時、国の一大事に瀕して天皇の勅許なしに専断で調印したことを孝明天皇や朝廷の公家達から激しく難詰される。直弼は孝明天皇に「公家に鼓舞されて攘夷を気取っているがどっちつかずのヘタレである」という人物評を下していたため、予想外の根強い反発に狼狽したという。またこの独断専行に各藩や市井の攘夷運動家、所謂現代で言うプロ市民らが中心となって澎湃として井伊排斥を唱え、直弼はますます反感を買い、直弼は窮地に立たされる。

安政の大獄[編集]

将軍継嗣問題、安政五ヶ国条約で直弼はあまりに多くの敵を作りすぎ、反感を買いすぎた。終いには孝明天皇から水戸藩に直弼を暗殺せよとの密勅が届けられたほどであった。身の危険を感じた直弼は、将軍継嗣問題で一橋派の妨害に貢献した大奥を頼ろうとした。しかし大奥はネラーと同じで「敵に回すと恐ろしいが、味方につけると頼りない」、豪奢な生活をしているだけのやかましい女の烏合の衆でしかなく、直弼が頼っても「ふーん」とそっけない態度を取るばかりであった。そもそも、冷静に考えて姦しい烏合の衆が政治的な後ろ楯になれるはずがないことぐらいは直弼も承知のはずなのだが、藁にも縋る想いだったのだろう。

ならばやられる前にやると言わんばかりに、直弼は自分に異を唱えるものは軽重問わず片っ端からひっ捕らえ処分することを決意する。腹心の長野や島田左近らを使い、各地に投網を伸ばして嫌疑のかかる者を一網打尽にした。かくして空前絶後の大弾圧である安政の大獄が始まった。吉田松陰らプロ市民を唱道していた思想家や、水戸藩の重臣などが処刑され、水戸斉昭を筆頭に雄藩の諸大名や公家などが大勢謹慎などに処された。

また天皇の許しがない違勅条約を結ばれた事に関しては、「わしは帝のお許しこそ必要だと言ったのに、条約交渉担当の岩瀬忠震と老中の松平忠固が押し切っちゃったせいだ」と直弼は言って、全責任を岩瀬と松平忠固におっかぶせて罷免した。

桜田門外の変[編集]

無論この弾圧は、一橋派や尊王攘夷派の怒りに、油を注ぐ結果となった。直弼は今更ながら、自身の片腕ともいうべき老中の間部詮勝に安政の大獄の責任をおっかぶせて罷免した。自分の保身の為には、躊躇なく片腕だろうが切り捨てるという非情と打算は、現代の政治家の模範といえよう。しかし間部罷免の狙いは直弼自身への批判の矛先を逸らすことだが、結果からみれば全く効果はなかった。1860年3月3日雛祭りの日、大奥のやかましい女達のご機嫌を取るべく江戸城へ登城中、水戸と薩摩の浪士らに襲撃され、その凶刃に直弼は倒れた。世に言う桜田門外の変である。当日は季節はずれの豪雪で、護衛は皆雨合羽を羽織、刀に袋を掛けていたため動作が鈍り次々と斬り捨てられ、かごの中にいる直弼も討ち取られたというのが通説だが、武術の達人である直弼を端武者の浪士達ごときが白兵戦で殺せるはずが無い。実際は遠距離からバズーカやライフル銃で狙撃し、直弼はバズーカの直撃を喰らい即死した。この時直弼を狙撃した、唯一薩摩から襲撃に加わった有村次左衛門は、直弼の肉片が爆発とともに飛び散るのを見て「へっ、汚ねぇ花火だ!」と罵ったという。

ただし異説も有り、直弼はバズーカやライフルの弾丸を剣で斬り捨てて応戦し、浪士達が十字砲火を何十発も食らわせてようやく直弼を死に至らしめたといわれている。この辺の逸話はコーエーのアクションゲーム「幕末無双」の中で描かれている。

直弼の死後、安政の大獄を進めた幕府政治はおかしいという非難が公然と沸き起こる。慌てた将軍徳川家茂と幕閣たちは、すべて死んだ直弼のせいだと全責任をおっかぶせて、彦根藩の領地を35万石から25万石に減らし、直弼の腹心であった長野主膳を処刑した。責任を他人におっかぶせてしまうことは直弼の特技であったが、直弼の死後に井伊家が同じ目を蒙る側になるとは皮肉であった。なお水戸藩の過激派は天狗党の乱を起こしたが、彦根に近い敦賀で幕府軍に捕えられて皆殺しされた。天狗党を殺害した者は勿論、「直弼公の敵を討ち取ってやる!!」と憤激した彦根藩士であった。天狗党員は、殺害される直前には鰊倉に監禁されていた。

逸話[編集]

直弼の苛烈な性格を端的に示す逸話としてこんなものがある。城外の屋敷でくすぶっていた頃、下着泥棒が直弼の屋敷に忍び込み、10枚を越す直弼のふんどしを盗んだ。盗んだ後で男のパンツだと分かった泥棒は失望してそれを川に流し、下流に大量のパンツが流れ着いているのを庶民に発見されて直弼は大恥をかいた(井伊家のものは皆赤いふんどしを穿くという藩祖直政依頼の因襲があったのですぐ直弼のふんどしだと分かったのである)。直弼は激怒し草の根を掻き分けてでも泥棒を探せと命じ、自らも各地に足を運んで泥棒を探した。やがて直弼の熱意が結実し泥棒が捕らえられると、これを逆さ磔の残虐刑に処した。

一期一会[編集]

多くの人から忌避された直弼だが、茶道への造詣が深かった直弼は礼儀作法を重んじ、峻厳な人物であったものの、非常に礼節を弁えた紳士であったという。相手を詰る時も、うんこまんこお前の母ちゃん出ベソなどという罰当たりな言葉を使う事は無く、知的ユーモア皮肉を交えて風刺するように非難したという。もっとも、相手にとってはその皮肉が罵詈雑言よりも鋭く突き刺さったようで、直弼は厭味な奴であると言う印象を助長させる結果になった。

一期一会の精神を重んじたが、直弼はこの言葉に「その人を一度も見ることなく寸評を下すのは愚の骨頂だ」「人の器量や人格は第一印象で大体が知れる」という意味を含ませていた。安政の大獄の折も、吉田松陰ら殺害対象者の処刑の場面にわざわざ出向いて会釈し、あの世で幸せになれよなどと優しい言葉を掛けてやった。直弼なりの善意であったが、水戸藩士鵜飼幸吉などは直弼に向かって唾を吹きかけたという。全員に声を掛けた後、直弼は「一人残らず死に値する人間だった。自分の裁量が誤ってなくてよかった」と述懐している。

直弼と猫[編集]

直弼は大変な猫好きでも知られており、彦根藩主時代には居城の彦根城に1000匹を超える猫を住まわせていた。また直弼は猫に英才教育を施し、人並みの知能を持った猫に育て上げた。それらの猫のうち数匹は明治新政府における枢要なポジションで活躍したり、詩人として文壇にデビューしたりして人間顔負けの活躍をしたという。名高きひこにゃんも直弼の薫陶を受けた猫である。また夏目漱石の「吾輩は猫である」も、井伊直弼が育てた喋る猫にアイデアを得て書かれた。


直弼は国賊か[編集]

尊皇攘夷派の巨魁吉田松陰や、攘夷派の牙城である水戸藩の藩士を多く処刑したため、直弼は売国奴、国賊と指弾されることがあるが、直弼自身、長野主膳に師事して国学の研鑽を積んでおり、どちかといえば大攘夷主義者であった。つまり、直弼は志を画一する同志達を弾圧、処刑したことになるが、何故そんなことになったかというと、彼らは攘夷という点では同志であったが、幕政の方針にいちゃもんをつけたり、長州藩の連中や京都の公家においては倒幕まで画策している輩もいたため、同志であると同時に、幕僚という観点から見れば抵抗勢力であり、不倶戴天の敵であった。直弼は、彼らが幕府の敵であるということを重視し、弾圧、処刑という果断に踏切った。血の雨を降らせたがゆえ忌避された直弼だが、役職と個人の立場を峻別できる人物で、決断力もあった。日和見ばかりしている事無かれ主義者の政治家は、模範にして欲しいものである。

関連項目[編集]