今川了俊

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今川 了俊(いまがわ りょうしゅん)とは、日本の南北朝時代に活躍したチート軍人シンガーソングライター(歌人)。軍事、学問、歌謡曲(和歌)全てに秀でており、あの足利義満が嫉妬と恐怖から手練手管を用いて抹殺しようとしたほどの才覚の持ち主。そしてかの北方謙三をして、独逸にルーデルあれば日本に今川了俊ありと言わしめたほどの名将である。存在自体が反則とは、まさにこの男のためにあるような言葉である。

前半生[編集]

了俊は足利一族の支族である今川氏の出身である。了俊は出家してからの号で、出家前は貞世(さだよ)と名乗っていた。足利の血を引いているといっても当時の今川家は地位が低かった。そのため了俊の父今川範国は権謀術数を用いて今川の家をグレードアップさせようと画策し、息子の了俊を将軍足利尊氏の子足利義詮に近侍させ、もし義詮の身に何かあったらその時は息子を身代わりにさせるとまで言い放った。何とも物騒な話だが、こうして親父がコネ作りに腐心してくれたお陰で貞世は順調に出世階段を上り、室町幕府の中枢にポジションを確保することに成功した。ところが、親父の代からコネ作りに必死になって蜜月の関係を構築した2代将軍義詮は若くして病没してしまう。貞世は悲嘆し、「俺の人生俊(はや)くも了(おわり)」と言って出家して了俊と号した。

九州探題[編集]

ところが、武将として才覚のあった彼を3代将軍義満の執事で管領の細川頼之は見落とさなかった。了俊は頼之の推薦により義満から九州地方を攻略、統括する九州探題という大役を任されたのだ。当時の九州と言えば、南北朝の動乱も収束へと向かい、殆どの南朝勢力が尻すぼみになっていた中、後醍醐天皇の子懐良親王を旗頭に未だ南朝勢力が活発な地域であった。その九州を攻略する探題として了俊が派遣された事は、了俊の武将としての才覚の高さを裏付けている。

…しかし悪い方に解釈すればこれは敵でごったがえす最前線に決死隊として送り込まれたも同然ということになる。後に了俊を恐れ始末しようとする義満だが、この時からその才覚を恐れ、体よく利用してあわよくば南朝と共倒れさせようと画策していたのかもしれない。

驚くべき迅速さで九州北半を平定[編集]

何はともあれ九州に派遣されることになった了俊だが、九州までの道中の旅路で見た風景を「道ゆきぶり」という紀行文にしてまとめている。これから死地に赴く途中で紀行文を書いてしまうその余裕ぶりも驚嘆に値するが、その内容がまた名文であり、紀貫之松尾芭蕉らの紀行文にも劣らない出来である。これもまた彼のチート資質ゆえのなせる技である。

そして1371年、九州に赴いた了俊は、前の九州探題である渋川某とやらが長年月日を費やしてもなんら進捗させなかった九州での戦局を、たったの5年そこらで幕府有利に導き、九州北半国を平定してしまった。その理由として、南朝征西府の要である菊池氏当主が相次いで死去し、幼少の賀々丸12歳が継ぐことになったのもある。だがしかし、運も実力の内である。運さえ呼び寄せるチートっぷりなのである。しかもその後、九州の統括を大した瑕疵もなく執り行い、明や朝鮮との交易も円滑に行い、ケチのつけどころがない優等生ぶりを発揮した。

敢えて猿も木から落ちる余裕♪[編集]

肥後の水島陣で南朝征西府と対陣していたときである、了俊は自らの陣へ九州三人衆と呼ばれる大友親世島津氏久少弐冬資を呼び寄せると、酒に酔ったふりをして冬資の足にワザとつまづいてひっ転び、「てめぇ、小2にもなったクセして、お行儀よく足引っ込めて酒も呑めねぇのかァ!?」と因縁をつけざま斬り殺した。実はそのようにすることで、敢えて味方からの信用を失墜せしめ、氏久や他の北九州の豪族らを離反させ、自らがピンチになるよう仕向けたのである。

これは、あっさり九州を平定してしまうのがつまんないと思ったものか、或いは菊池とのフェアゲームを望んだものか、はたまたひた隠しにしていたドMの性癖の発露であるのかは、今となっては定かでない。が、これにより九州平定が半ば振り出しに戻された。にも拘らず、それから高々10年ほどで征西府を八代宇土あたりにまで封じ込めると、後は悠々自適にジワジワと追い詰めた。そして、やはりチート資質の運の良さであろうか、1392年、義満が上方にて南北朝合一を果たしめる。了俊は半ば不本意と思いつつも自らのチートっぷりに酔い痴れてもあり、未だ降伏しない征西府から少弐や菊池を裏切らせて九州平定をやってのけてしまったのである。その後は、嘗て島津が離反していたのを思い出し、これを打つべしと幕府に許可を得て薩摩・大隅・日向へ侵攻せんと企てた。

狡兎死して走狗煮らる[編集]

ところが、了俊にこのまま九州を掌握されると危惧した将軍義満の裁量により了俊は九州探題を解任される。さらにその後、大内義弘が応永の乱を起こすと、了俊がこれに荷担していたという疑義を受け、処罰の危機が迫った。だが了俊は筋の通った弁明をして身の潔白を証明、了俊を始末しようとする義満の計画は頓挫した。

…ところで、濡れ衣を着せられたとする了俊だが、実は本当に義弘と通じていたのではないかとも言われている。だが周到な了俊のこと、たとえ本当に通じていたとしても根拠となる書類などは迅速に処分したことは疑いない。現実にその手の文書はない。そのため、後世の調査では、了俊が義弘と通じていたことを実証するのは不可能になってしまっている。というか、九州平定という功績がありながら用が済んだらあっさり解任されるような仕打ちを受ければ、謀叛を画策するのもむべなるかなとも言える。了俊ほど有能な人物であれば、なおさら、の話である。

愚痴に余生を費やす。[編集]

その後了俊は静かに余生を過ごして没した。ちなみに没した時は90歳をゆうに過ぎていたと言われる。人生50年と言われた中世で90歳以上の長寿を達成しただけでも化け物じみているのに、その上学問や軍事でも卓越した才覚を発揮したのだから、最早神様と言っても過言無い存在である。

さて了俊の晩年だが、将軍から散々な仕打ちを受けたことへの報復から、自分の立場からの愚痴を書き連ねた歴史書を残した。その書物は、当時流行していた歴史物語『太平記』をなぞりながらそれを批判した箇所の多い形式であることから『難太平記』と呼ばれているが、その内容の殆どは今川家の扱いの不当さと将軍の横暴さ、更に欲深な売僧上がりの甥今川泰範などに対する愚痴で占められている。

文化面での功績[編集]

これだけの戦績を残した了俊だが、一方で文化面でも多大な功績を残しており、室町時代前期に作られた歌学、有職故実に関する書物の7割までもが了俊が執筆している。九州探題として八面六臂の活躍をする一方で、多くの書物を執筆して室町の文化の担い手となり、挙句の果てに90余歳の長寿を誇る、もし信長の野望に登場していれば、能力値全てカンストのチート武将としてゲームバランスを崩壊させていたことは言うまでもない。生まれてきた時代がもう200年遅ければと、コーエーは少し残念がっているかと思いきや……蒼き狼と白き牝鹿4には政治56・戦闘54・智謀58の将軍として登場しており、実に凡武将扱いしていたりするのが現実である。