内容

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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内容(ないよう)とは、である。

概要[編集]

内容は形式の中に入るべきものとされ、国語辞典ではそのように定義されていた。しかし、これは間違いである。内容とは無であり、考えることは愚の骨頂とされる。内容があればこの世界は今よりもっと素晴らしい世界になるべきであるし、そもそも内容があるということは根拠として示されていない(なお、無であることは証明済みである)。そのような事実を受け入れない人々は、内容がこの世界線にあると奮闘しているらしいものの、成果には至っていない。

自らの心の中にある内容[編集]

内容は、なにも外からやって来るわけではない。貴方の心の中には、予め沢山の内容があげるほど詰まっているのだ。つまり、宇宙の始まりから内容は充足され、今目の前であなたがアンサイクロペディアの記事を読んでいたとしても内容はどんどんと充足されていなければいけないのである。心の中の内容が膨らんでゆくことで、この世界は内容によって世界が膨らみ、栗まんじゅう問題もびっくりの進み方でこの世界は進行しているという考えである。

哲学的に考える内容[編集]

内容とは一体なんであろう。内容は自己から生み出されたのか、それとも他の人類、生物、果ては神から与えられたものなのだろうか?もしその内容が順々めぐって原点にたどり着いたそのとき、その内容はどこから生み出されたのだろうか。自己から生み出すにはきっかけが必要である。そう考えれば、内容は有限、つまり同じ考えが堂々巡りを起こしていると考えられるのである。では、内容がアレンジされるのはなぜか。それはきっと拡大解釈によって言葉に偏りが生まれ、偏りが偏りを生み出しているからである………(以下略)

内容の自己矛盾性[編集]

「内容がない」という言い回しは、「鑑賞に堪える事柄がない、メッセージ性がなくつまらない」という意味で使われる。しかし「内容がない」と言われた事物にはつまらなさを感じさせる「内容」が確かに存在している。逆に、「内容がある」と言われる事物は興味深い「内容」を含んでいるが、しかし先に述べたように内容とは無であるため「内容がある」ものに内容は存在しないことになる。すなわち全てのもには内容があり、かつ内容がないといえる。

このような矛盾は、内容という言葉が複数の誤った意味で認識されていことに由来する。一つは内容とは事物を成り立たせる実質であるという認識。もう一つは素材事物がもっている意味・価値であるとする認識である。前者の意味での内容は、事物が事物として存在するための必須要素であり、この点で全てのものは内容を持っている。しかし後者の意味においては、観察者の主観によって内容の有無が決まる。すなわち「内容はあるが、面白くないから内容がないもの」と「内容があり、おもしろいからやはり内容があるもの」が生まれる。ここに「内容=無」という真理が加わり、全てのものは「内容はあるが、面白くないから内容がないと言え、その内容は無なのでやっぱり内容がないもの」と「内容があり、おもしろいから内容があると言えるが、内容は無なので内容がないもの」のどちらかに含まれることになってしまう。

このような誤認を避けるためには、内容とは無であるという認識のみに従って事物を評価する必要がある。 内容があるとは無がある状態、すなわち無であり、内容がないとは無すらない状態、すなわち無である。

結論[編集]

内容はないよう。

関連項目[編集]

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吹っ飛んだ.gif この項目「内容」は、まだ内容がありません。内容がないよう、なんちゃって。
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