円覚寺

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円覚寺(えんかくじorえんくじ、Engakuji-temple)とは、北条時宗によって1281年に建立された臨済宗(りんざいしゅう)の寺院である。鎌倉五山の第二位に列せられている。

概要[編集]

開山の無学祖元夢窓疎石など、歴代の住職を務めた僧侶はどいつもこいつも揃っていかがわしい人間が多いと言われているが、それは「坊主にでもなってどこか有名どころの寺に収まって、ひと財産築いてみるか!」と転がり込んだにわか坊主による嫉妬に過ぎない。鎌倉五山第二位の名刹ともなれば、一見さんがひょっこりと住職に収まることなど出来ないのである。

寺名の由来は、無名の木こりが鎌倉の山奥を開墾していたところ、円覚経(えんがくきょう)というありがたいお経が出土したことに由来する。円覚経の出土を聞いた北条時宗は、この地は神の恩寵に浴していて寺を建立するのに絶好の条件であるとして寺院の建立を決意した、というのが建立に至るまでの顛末である。いかにも出来すぎている話であり、最初からこの地に寺を建てたいが為に先んじて円覚経を埋め、木こりに身をやつしたをした家来に掘らせて、「円覚経が出土した」という既成事実を作り上げたものと思われるが、まぁ歴史的事件など真相はそんなものである。

建立までの経緯[編集]

鎌倉時代中期は、禅が興隆した時期であった。宋から渡来した禅僧達を庇護、後援し、禅の普及に積極的に尽力したのが、時宗の父北条時頼である。蘭渓道隆を招請し、鶴岡八幡宮の北の山奥に建長寺(けんちょうじ、鎌倉五山第一位)を創建したことは有名である。時頼が蘭渓道隆に深く帰依(きえ)したように、時宗にも、禅の師匠として、また人生の相談相手として帰依した無学祖元という禅僧がいた。当時、日本はモンゴル帝国(元王朝、フビライ・ハーン)の脅威に晒されるというのっぴきならない情勢であり、時宗は無学祖元の教えを精神の拠り所としていた。蒙古の内情に詳しい無学祖元は、敵の情報を時宗に提供してくれると言う点でも貴重な人物であった。

このように、無学祖元は時宗にとって恩人であったのだが、少々あつかましいところのある無学は、時宗に対して「今まで支えてやった恩返しに俺の為に寺を建立しろ」と要請して来た。無学に対して大恩があることに加え、父時頼が蘭渓の為に建長寺を建立したという前例もあるため、時宗としては断ることができず、しぶしぶ建立させられたというのが実情である。

寺の構造[編集]

名目上は禅の修業に励む施設として建立された円覚寺だが、実際は時宗と無学祖元の別荘も同然であった。円覚寺は建長寺よりも山奥に立地しているが、それも無学が避暑と保養を求めたためである。境内には9代執権北条貞時によって寄進された2.6mにも及ぶ巨大な梵鐘があるが、この梵鐘は貞時が平禅門の乱で滅ぼした平頼綱の脳味噌と骨から鋳造したものだと言う言い伝えがあり、梵鐘を鳴らすと頼綱の怨霊が咽び泣く音が聞こえると言われている。

荘厳な造りの舎利殿があり、威容は建長寺にも劣らないのだが、建長寺と比べると都市部からあまりにも遠すぎて参禅に赴くのが大変だからという理由で鎌倉五山の選定では惜しくも建長寺の後塵を拝して二位となった。

13世紀以降、円覚寺は何度も戦火に見舞われ境内が焼け落ちるなどの被害を被った。人馬の出入りの少ない山奥にあるのに何故戦火の被害を被ったのかは良く分からない。円覚寺が建立された背景には、文永・弘安の役で命を落とした日本、蒙古両軍の兵士の鎮魂の目的もあったので、もしかすると戦死者の亡霊が暴れ回って円覚寺に害を成したのかもしれない。

瑞鹿山[編集]

円覚寺が建立された山は瑞鹿山(ずいろくざん)と呼ばれている。文献によれば、鎌倉時代当時、ここには縁起物(瑞獣、ずいじゅう)とされる白鹿(希少生物であることは言うまでもない)が群れを成して生息していたことによるもの(瑞鹿山→めでたい鹿の山)らしい。しかし、度々戦火に見舞われ円覚寺は焼け落ち、鹿の殆どは度重なる戦火で死んで17世紀ごろには殆ど絶滅してしまったという。実はこの鹿は人間のなれの果てであり、無学祖元が講釈に交じって発して呪詛の言葉を聞かされた人々が鹿に変えられてしまったのだという言い伝えもあり、鹿の体毛が白いのは、実は人間だった頃に白髪であった名残であり、若者であれば普通の毛色であったとも言われる。