利用者:三叶/新人育成所

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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第1講[編集]

予習[編集]

バカ馬鹿を一読しておくこと。

本文[編集]

第1講では、記事の構成について解説する。読み飛ばすことなくしっかりと吟味してくれ。

まず、新入りのアンサイクロペディアンにありがちなのが「記事とは何か」を正確に理解していないことである。というのも、馬鹿バカを読めば分かることだが、アンサイクロペディアはあくまで「百科事典」のパロディサイトである。それ故に、いくらアンサイクロペディアとはいえ辞典としての基盤は不可欠であるのだ。分かりやすく言うと、デタラメで良いのは内容であって、文法がデタラメなものは辞書としてーーいや文章としてーー成り立たないということだ。つまりネットスラングを多用したり、句読点のつけ方が可笑しいのはダメである。なお、それに関しては私が言うほどのことではあるまい、日常生活の中で自然に分かることなのだから。

「記事とは何か」を理解していれば、自然と記事の(文法的な)枠組みは出来上がる。しかし、それだけでは当然ながら記事は書けない。もう一つ、記事を書く前に確認しておかなければならないことがある。それは「記事は人に見せるものである」ということだ。アンサイクロペディアンになったからとはしゃぐのは良いことだが、調子に乗りすぎて傍目にも恥ずかしいことはしないように。ネット上は基本的に匿名なので本人の素性はバレにくいが、「あ、こいつ頭悪いかも」と他の利用者に思われるような行動は慎むべきだ。それは例えば「利用者ページで遊ぶにしてもその内容がヒドい」「トークページに書き込む際、敬語の使い方が間違っている」「低レベルな言葉を使って記事を書く」「意見されたことをしっかりと読まず、それ故に理解していない」などである。

さて、上の2つは一般人ならば誰しもが理解していることなので今更言うほどでもないが、ここからはアンサイクロペディア独特のルールが登場するので、本腰を入れて読んでほしい。

アンサイクロペディアは、基本的に面白ければ何でもアリのサイトである。それは周知の事実であろうが、その「面白さ」についての誤解はかなり多い。アンサイクロペディア内の面白さとは、誰が見ても普遍的に面白いことである。あなたが面白いと感じるニコニコ動画内でのネタは、もしかすると沢山あるかもしれない。しかし、それは一方で不快を生む因子になってしまう。「ああ、これを書いた人はきっとニコ厨なんだろうなぁ」と、読者に軽蔑という名の感想を与えるだけであるからだ。逆に、全員が理解できる言葉のみを使用するのもまたナンセンスである。

使う語の種類が分かったところで、次は「文末」の話をする。アンサイクロペディア内では、「だ」「である」を平叙文の文末に使うことが暗黙の了解となっている。それを「です」「ます」や、頭の悪い言葉にして書いてしまうと即刻でNRV「fix=読みにくい」である。「型にはまるのは嫌いなんです」という人もいるかもしれないが、それは型にはまることができる人が言える言葉である。まずはしっかりと型にはまってほしい。

さて、いかがだっただろうか。黒字ばかりで読みにくい、と思った人も多いだろう。されども心配することなかれ、わざとである。敢えて読みにくい文章にすることで、読む人と読まない人を篩にかけたのだ。読む人は向上心アリとみて良いだろう。逆に、読まない人はそれまでである。

第1講はこれにて終了。お疲れ様でした。

解説[編集]

  • 気になっている人も多いかと思うので記しておくと、「頭の悪い言葉」とは、本当にそのままの意味である。例を挙げるとすれば「くぁwせdrftgyふじこlp」「うわなにをするやめr」や、その他意味のわからない語(プギャーなど)がある。

あとがき[編集]

だいたいこんな感じで毎回進んでいくつもりにしているので知っておいてください。あと、何か質問等あればこのサブページのノートページまでどうぞ。

第2講[編集]

予習[編集]

ニヒリズムを一読しておくこと。読むまでもないが。

本文[編集]

さて、今回の題材はニヒリズム。言わずもがな、アンサイクロペディアを代表する秀逸な記事のうちの一つである。

早速だが、なぜニヒリズムが秀逸な記事に認定されたのか、ご存知だろうか?大抵の人は「ニヒリズム=無であり、それを見事に具現化したから」と思っているだろう。確かにその通りで、記事内ではhtmlやcssを駆使してあらゆる所で無を表現している。しかし、本当にそれだけだろうか。私が思うに、それだけでは不足である。では、何処にニヒリズムの面白さがあるか、私なりの意見を下に記す。

まず認識として改めるべきは、「ニヒリズム≠無」であるということだ。辞書を引けば分かることだが、ニヒリズムは虚無主義という訳語があてられている。つまり「ニヒリズム=虚無主義」である。

では、この虚無主義とは何奴なのだろうか。虚無主義とは「この世を虚構であるとし、すべてを空虚で無価値であるとする考え」である。すなわち単純な無ではなく、「虚構」というイメージが付き纏うのである。さらに掘り下げると、虚構という言葉は「中身がない」イメージを持っている。つまり「実体は無であるけれども、表面上はハリボテでも存在している」ということなのだ。このことからも、ニヒリズムが単なる無ではないことが分かるだろう。

さて、これまでニヒリズムの意味について考えてきたが、結局何が言いたいのかよく分からない人も多いことだろう。それで普通である。なぜならまだ言いたいことを一つも言っていないからだ。

で、その言いたいこととは何なのかといえば、もちろんニヒリズムが秀逸たる理由である。以下にそれを記していくので、読んでみてほしい。何度も言うが、これは私の意見であってすべての人に共通の概念ではない


無を表現している
一番わかりやすいポイントにして、単純なポイントである。これについては言うまでもないので割愛する。
「ニヒリズム」という語彙
ニヒリズムという語彙もまた、その面白さを引き立てる要因であろう。もしページ名がニヒリズムではなく虚無主義であったとするならば、このページはおそらく秀逸にはならなかっただろう。虚無主義という単語は、聞いただけである程度その意味を推測できるからだ。それに対して「ニヒリズム」は、聞いただけで意味を推測するのは難しい[1]。つまり「ニヒリズム」という意味を推測しづらい語をチョイスすることで、記事を見た時のインパクトを強めているのだ[2]
虚を表現している
見落としがちな所こそ、この部分である。虚とは非常に抽象的な概念である為、人から気付かれにくいのだ。だが面白いことに無意識の下ではそれに気づいている[要出典]らしく、知らず識らずのうちにニヒリズムの評価を底上げしている要因になっているのだ。
で、具体的にどういうことかと言えば、「何も無いことによって沸き起こる一種の虚しさ」である。ニヒリズムのページには、編集ボタンはおろか検索ボックスも最近の更新へのリンクも無い。これはページとしてほとんどその機能を果たすことができないということを意味しており、それゆえに隔絶されたような疎外感を感じてしまうようだ。そうして隆起した感情は諦観とともに表層へと浮上してくるわけだ。何言ってるか分からねぇ…


さ、さて。ニヒリズムは以上の理由から秀逸な記事に認定されたと私は思っている。しかし何度もしつこいがこれは誰しもの共通概念ではないし、おそらく面白さもこの限りではない。ニヒリズムを秀逸に至らしめるナニカはまだ私には分からないが、記事から感じる不可思議さもユーモアの一種となりえるのではないだろうか。

解説[編集]

  1. ^ 「ニヒル(虚無)」という単語を知っている人ならまだしも、こちらもマイナーな語彙である。
  2. ^ 「虚無主義」という語だったならば、勘のいい人はページを見る前にトリックに気づいてしまう可能性がある、ということだ。

あとがき[編集]

なんだか上手いことまとめやがった雰囲気がするが、とにかく私が言いたかったのは人を笑わせることだけがユーモアではないということだ。そしてこれを読んで「はぁ?」となった諸君。君たちの考え方は間違いなく正確なものだ。だって書いた本人ですら意味不明だと言ってるのだから。

…まあともかく、ユーモアと禅問答をして何やら悟ってしまわないように。

第3講[編集]

予習[編集]

遊具基準法を一読しておくこと。

本文[編集]

さて、今回の題材は遊具基準法である。ニヒリズムと同様に秀逸な記事のうちの一つであるが、ユーモアの種類は全くの別物である。では早速。

まず、この遊具基準法というページタイトルを見て思うことと言えば、「そんな法律ねぇよ」ということだろう。そう、我が国の法律に遊具基準法という名のそれは無い。つまりこれは言わば妄想の域の話である。

しかし、アンサイの常識として妄想記事は嫌われるという傾向がある。例を挙げるならばアンサイクロカーストが妥当だろう。この記事も、遊具基準法と同様に現世に存在しないものを題材として扱っている妄想記事の一種である。実はこの記事、作成当初は「妄想記事」としてICUが貼られており、あわや削除されるところだったのだ。しかし、現在ではこの記事は存続が多数決により認められている。では、この二つの記事の共通点はどこにあるのか。

いきなり答えを言ってしまうと、それは「あるある感」だ。急にどうしたと思われるかもしれないが、言葉通りの意味である。分かりやすく言うとすれば妄想ではあるが多くの人の共感を得ることができたということだ。では、どんな所が共感されたのか、私なりの意見を記しておく。なお、下で「昇華」という単語を無闇に使用しているが気にしないでくれ。個人的に美化したいんだ

遊具基準法の場合
この記事は、近年になって公園という公園から遊具が消滅しつつある事態への皮肉を妄想として昇華したものである。そう、急速に姿を消す遊具達その黒幕である過保護な親どもの両方を一挙に「法律で決まっている」という短いコンセプトの中に押し込めているのだ。いうなれば、法律=従うべきもの=自治体からみた民の意見=保護者からの撤去依頼といった具合の等式が成り立つのではなかろうか。
アンサイクロカーストの場合
この記事は、現在のアンサイクロペディアにおける諸問題の一つを妄想として昇華したものである。とりわけ外部の人から見たアンサイクロペディアの実態を表したものと言えるだろう。一部の管理者が頂点付近に君臨し、その下に上級アクティヴユーザー、その下に中級、下級、IP利用者…と言った具合に、あたかも階層」(カースト[1]を成しているように見えるという、そんな現実を「ある意味で」皮肉ったものだ。これがウケたらしく、結果的に存続が決定したものと推測される[2]

ところで、遊具基準法は秀逸な記事であるのに対し、アンサイクロカーストは秀逸でないのは何故だろうか。それは地の文の完成され具合であったり、アンサイの内輪ネタか否かであったりと様々な要因が重なってのことなので一概に言うことはできないが、兎も角もそれだけでは不足だということである。では、なぜ遊具基準法は秀逸に認定されたのだろうか。

遊具基準法のノートページを見てほしい。するとそこには「アンサイのノートはウィキペディアと大差ない」と馬鹿にされるほど面白くない通常の議論ではなく、法の圧力に血迷うアンサイの姿があるではないか!そう、アンサイクロペディアンの有り余るユーモアセンスは、遂に通常空間を飛び出してノートページにまで広がっていったのである。これは非常に斬新な発想ではなかろうか[3]

かくして秀逸な記事の仲間入りを果たした遊具基準法だったが、今回の題材を通して私が言いたかったことは斬新な発想(妄想でも良い)を記事に取り入れろということである。別に己に内在する妄想をブチまけろと言っているのではなく、あくまで大衆の共感を得られそうなものをチョイスすることがポイントである。貴方が今、何気に疑問に思っていることを上手く皮肉って記事に仕立てあげれば、もしかしたら抱腹絶倒の名を冠する記事が誕生するかもしれない[4]

第3講はここまで。お疲れ様でした。

解説[編集]

  1. ^ カーストの本当の意味は「血統」であることは誰も気にしない。
  2. ^ なお、その時の投票欄、すなわちノートページは見ないでほしい。なぜかと言うと、ちゃっかり投票している私の馬鹿加減がばれてしまうからだ。…この際ストレートに言ってしまうと、「的を得る」という語は誤用である。正しくは「的を射る」だ。みんなも気をつけろよ!
  3. ^ この手のユーモアを仕込んでいる記事は散在しているので、探してみるのも面白いかもしれない。なおその多くは秀逸なノートに認定されているから、そこから探すのがオススメである。
  4. ^ なお、「この講を読んで書いたらクソ記事だと言われた」というクレームは受け付けていないのでよろしく。

あとがき[編集]

多数決により」を太字にして強調したのには訳がある。アンサイでの決め事はあらかた多数決により決定される。つまり少数派の意見は反映されにくい傾向にあるということだ。ユーモアの好き嫌いもそれぞれだが、格段に妄想記事を嫌っている人も中にはいるのだ、ということを念頭に置いてほしい。まあ、そんな人をも寝返らせてしまうような爆笑不可避の良記事を作れば良いのである。言うだけなら簡単。実行するのは…