劉シン

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「まったく状況を読めない殿下であったわ…」
KYな劉㻣 について、譙周
生きていればホモ公方のように独裁者の可能性があった劉㻣。

劉㻣(りゅうしん、238年? - 263年)は、蜀漢皇帝劉禅(懐帝)と張皇后(孝懐皇后)との間の子で五男である。字は未詳。妻は崔氏(ニート軍師ホモ達の崔州平の孫娘という。出典:『大徳元本』)で、3人の息子がいる。「劉諶」と表記することもある。祖父の劉備の狂信的信者である。

劉璿らを「文衡(劉璿)兄者をはじめ、他の兄弟バカばかりだ!俺様こそ一番賢いのだ!!」と苦労知らずの傲岸な態度をとった。まあ、あの虎髭の外孫だから仕方ない。

ただ、姜維諸葛瞻(ニート軍師の子)らを、「お前らは俺の下僕だ!」と決めつけているために、彼らから顰蹙を買っている。

概要[編集]

259年6月に、北地王に封じられる。ますます彼はDQNぶりに磨きかかったのである。

263年夏にの鍾会と鄧艾らが、蜀漢遠征に動き出したのである。姜維や諸葛瞻は優柔不断のためにまったく役立たずだった。そこで、宦官の黄皓と光禄大夫の譙周(陳寿センセ)らが「もはや、高祖以来の漢は“蜀から始まって蜀で終焉する”の言葉通りに終わりに近づいたのです。ここは潔く民のことを考えて降伏なさるべきです」と劉禅に対して進言した。虎髭の次男である尚書僕射・侍中の張紹も賛成したのである。

ところが、KY老人張翼廖化らは「張紹どの!何をいわれる。あなたはそれでも張飛将軍のご子息か!あなたは高祖のご偉業を踏み倒す気か!!」と叫んだのである。張紹の甥である張遵(張苞の子)も「叔父上!なんたることを…あなたは張家の恥さらしだ!」と叫んで、彼らは北地王・劉㻣を擁立して、クーデターをやりかねない雰囲気を出したのである。

…と、ここで劉㻣が登場して、「お父上、彼らの言うことは尤もであります。四百年の歴史をもつ漢を厳守することこそ、われらの使命であり、民百姓たちも理解しましょう。最後まで抵抗して、それでも駄目なら高祖をはじめ、烈祖(劉備)のもとで、壮絶に自決して果てて、敵にわれらの節義を見せつけるのです!」と叫んだ。

だが、父の劉禅をはじめ張紹と譙周と黄皓らは「駄目だ…殿下(劉㻣)はもう発狂している…ここは強引に追い出すべきだ」と言って、劉㻣をはじめ張遵と張翼と廖化らは追い出されたのである。

ゴミ扱いされた彼らは劉㻣に向かって「殿下…われらは、このまま討って出て玉砕しようと思います」と言った。これを聞いた劉㻣は「この俺が皇帝だったら、親父を幽閉して、お前らとともに国を好きなように動かしたかったが…あのボンクラ親父のために妨害されてしまった…こうなれば、祖父の烈祖(劉備)の廟に妻子を道づれにして、その首をもって参内して、自決するまでだ…お前らも好きにせよ。では、さらばだ!」と言って、立ち去ったのである。

まもなく、劉㻣は夫または心中したくもない妻の崔氏と3人の息子たちを強引に巻き込んで、理不尽に斬り捨てて、その首をもって、祖父の廟に参内して、そのまま壮絶に自決したのである。齢26。

…まったく、嫌がる妻子を道連れにする性根が気に入らない。生母の張皇后も「まったく…あの子は昔から独善的だったし、兄上(張紹)もさぞ、困惑したことでしょう」とコメントしている。


さて、残った張遵は諸葛瞻の司馬として鄧艾の軍勢と激戦して、捕えられて降伏を拒否したために処刑された。張翼と廖化は姜維に従い、力尽きて鍾会に姜維とともに降伏した。まもなく廖化は翌264年のはじめに洛陽に送られる途中で、84歳で老衰死した。張翼は姜維と鍾会と共謀して、王太子・劉璿を擁立したため、激怒した司馬昭が派遣した衛瓘によって、まとめて皆殺しにされた。


…こうして、漢はついに滅亡したのであった。

関連項目[編集]

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Hitlerefficiency ハイル・ヒットラー!
この劉シンは、偉大なる我らがアーリア民族の築き上げた最高の文化的作品である!
この記事を書き上げてこそ、ユダヤ人を殲滅できるのだ!
この記事をつまらなくする者に宣戦布告を!!ジーク・ハイル!!!! (Portal:スタブ)