劉エン (威碩)
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~ 劉琰 について、リンリンランラン
劉琰(りゅうえん、167年? - 234年)は、後漢~三国時代にかけての蜀漢の武将兼事件屋である(笑い)。字は威碩。
[編集] 略要
魯国の人。『民間伝承』によると、魯の恭王・劉余(前漢の景帝の四男)の末裔で、荊州牧の劉表と同族という。
興平~建安年間(195年~197年ころ)に豫州牧劉備に仕官した。劉備が面会し趣味のアキバゲームのことを談笑すると「お互いにウマが合うね~」と言って、劉備の遠縁筋ということもあり、従事として即採用が決定したそうな。
しかし、劉琰はゲーム以外はからきし駄目な屁理屈野郎のニートタイプの無能人間であった。これを見た劉備の嫁の芙蓉姫は「こんな、無能な男がなんで給料泥棒のように"ノホホン"としているのかしら?生きていて恥ずかしくないのかしらね~?」と本人に聞こえるように露骨に言った。
これを耳にした劉琰は芙蓉姫に対して激しい恨みを持った。そこで劉琰は芙蓉姫と折り合いが悪かった関羽のもとを訪れた。関羽に会うと劉琰は「将軍はご夫人を嫌っていると聞きました」と言った。すると関羽は「あのアマは、後漢の元勲の寇恂の末裔ということに鼻をかけて、このワシを闇塩売りの郷士上がりとバカにして、見下しておるからな!」と叫ぶように言った。
これを聞いた劉琰は「チャンス!」と判断して、ただちに「私が聞くところによれば、わが君(劉備)も嫉妬深い名門出身のご夫人に対して辟易し「もう芙蓉イラネ!」と申しておられます」と言った。これを聞いた関羽は劉琰の肩を叩き「おぉ…わが同士よ!」と言って、思わず相互に抱き合いホモ達になったのである(アッー!)。
数日後、関羽と同伴した劉琰は劉備に謁見し「ご夫人(芙蓉姫)は、わが君の愛しのご側室の糜夫人と甘夫人(阿呆の生母)をヌッ殺すと申しておられますよ」と無実な芙蓉姫を讒言した。
これを聞いた劉備は「おのれ~あの腐れアマ~!ワシの可愛い側室たちを葬る気か~」と激怒し、ただちに関羽に命じて、哀れな芙蓉姫を斬り捨てたのである。愛する母を失った子の劉封は男子がなかった糜夫人の養子となった。これを見た劉琰は「ニヤリ」と薄ら笑いをしたが、以後から劉封の恨みを買ってしまったのである(『三国志』蜀書「劉琰伝」にある「劉琰は弁舌巧みだが、中身がなく主君に媚び諂いするつまらない野郎だ!」と陳の字が劉琰を酷評している)。
歳月は流れ、無能な劉琰は劉備の蜀簒奪に従軍した。彼は何の功績もないまま劉備の贔屓人事で固陵郡太守となった。どう見ても納得できないやり方である。当然、亡き生母の仇と叫ぶ劉封は納得できず、蜀郡太守法正と南鄭郡太守魏延とともに「ただちに劉琰を処刑すべきだ!」と劉備に直訴した。しかし、劉琰は劉備の寵愛をいいことに諸葛亮・李厳とグルになってこれを強引に中断させたという。
219年、劉封は孟達とともに義理の伯父の関羽を見殺しにすると、激怒した父劉備から廃嫡され、異母弟の劉禅が嫡子となった。これを見た劉琰は諸葛亮とともに「大黒柱の法正はもう病死しているし、私に恨みを持っている封君(劉封)を亡き者にしたほうがよい」と密談を重ねた。そこで諸葛亮と劉琰らは劉備に謁見し「封君は剛毅にて、禅太子(劉禅)では廃兄たる封君を制御できないでしょう…ただちに賜死させるべきです」と上奏した。しかし、劉封の後見役と自負した魏延は「劉琰こそ奸臣だ!封君は無実だ!」と叫んで大反対した。しかし、かつて劉封の母芙蓉姫を葬った劉琰は「まずい…封君が次期皇帝となると、俺の立場は危うくなるぞ」と判断し、「魏延は被害妄想という病にかかっておるのです!今ここで封君を賜死させないと、禅太子の未来はありませんぞ!」と必死に詭弁を弄した(蜀漢のお家騒動を参照)。
こうして、劉封は30余歳で処刑された。以降から魏延は激しく劉琰を憎悪し、衝突を繰り返したのである。劉備が64歳で永安宮(白帝)城で亡くなり、18歳の劉禅が即位すると劉琰は都郷侯・衛尉・中軍師・車騎将軍に累進した。
劉琰は浪費家で、相変わらず魏延との喧嘩を繰り返した。だが、先妻と強引に離婚し、女子高生のように若い女子の胡氏を後妻としたのが、劉琰の破滅の始まりだった。
それは劉禅が自分とほぼ同年代の胡氏に惚れて、密かに彼女を呼び寄せて、アーン♥♥やチョメチョメと繰り返したのであった。まもなく事情を知った劉琰は「この肉便器女があああ!!!いくら相手が陛下とはいえ、ワシに隠してピー!しおったな!」と激怒し、自分の息子(離別した先妻の子)にハアハア…を命じたのである。
これを屈辱と感じた胡氏は劉琰と犬猿の仲であった魏延のもとに逃げて、このことをを訴えた。これを聞いた魏延は「よし!これで亡き封君の仇を討てるぞ!」とガッツポーズし、胡氏を劉禅に告訴させたのである。
はたして、劉禅は「おのれ~あのクソジジイ~!!朕を愚弄するにも程がある」と激怒し、魏と対峙した諸葛亮に「ただちに劉琰を成都に更迭すべし!」との勅命を出した。諸葛亮はショックを受けたが「仕方ない…陛下の厳命なら」と呟いて、劉琰を更迭させた。232年のことであった。
更迭された劉琰は職務を剥奪され、息子ととも投獄された。翌々年の234年春、劉琰父子は市場に曳き出されて、処刑されて晒し首にされた(これは、劉琰に"殺された"芙蓉姫と劉封の怨霊の仕業と噂されている)。
余談として、胡氏はめでたく劉禅の側室になったという。
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