加賀爪忠澄
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
加賀爪 忠澄(かがつめ ただずみ)は、江戸時代前期に活躍した旗本。女に春を鬻がせて私服を肥やしていた遊郭の主人達を磔にして処刑した正義漢である。戦国の余燼を燻らせた熱い漢で、過激な措置も多かったが、裏表の無い粋でいなせな人物像と妥協や譲歩をしない徹底した態度は恐怖された一方で好感を抱かれた。通称は官名である民部少輔で、加賀爪民部を縮めて「かがみん」と呼ばれていた。彼の最期は泣ける。
[編集] 人物
加賀爪政尚の子として誕生する。親父の政尚は1596年に起こった慶長伏見地震の折、崩落してきた伏見城の石垣に押しつぶされて圧死してしまった。そして忠澄も、とある恰幅の良い女性の占い師から、父と同じような末路を辿る死相が出ている、と警告されていた。しかし忠澄はこれを無視した。警告を無視したせいかは知らないが、後忠澄は親父同様頓死を遂げることとなるが、たとえ警告を受け入れてたところで頓死をしなかったとは限らない。
忠澄は優れた才覚の持ち主で俄かに頭角を現し、市中の監察を管掌する南町奉行に抜擢され、江戸の警備に尽力した。外国船の来航、入航を禁止する条例が発令された後、ポルトガル船が強引に来航し、日本との貿易再開を迫ってきた際には、躊躇することなく船を燃やして船員らを蒸し焼きにして殺害するという大胆な処分を下した。加賀爪のこの大胆な仕置は、幕府首脳陣や長崎奉行を大いに奮い立たせ、外国船が来たら容赦なく撃沈させてかまわないという過激な考えが普及し、後に異国船打払令が発令される萌芽となった。
そんないなせな忠澄の業績としてもっとも特筆すべきは、吉原遊郭の主人十一人を磔にして処刑したことである。十一人の主人が処刑された経緯については、幕府が公認していなかった湯女風呂に遊女らを派遣させていたとか色々言われているが、要するにこの主人達は商売道具とはいえ遊女に対する待遇があまりにも酷すぎたのである。それが忠澄の逆鱗に触れ、このような苛烈な措置となった。先のポルトガル船焼却の事例といい、ラディカルな裁きが目立つ加賀爪は一部のモラリストからは忌避され、侮蔑と憎悪のこもった視線で見られていたが、江戸っ子達からはジェントルメンだと褒め称えた。
そんな加賀爪だが、1641年不慮の死を遂げてしまう。この日、江戸に大火事が起こり、忠澄は陣頭に立って火消しの指揮をしていたのだが、延焼する遊郭に取り残された遊女達を助けるべく一人炎の中に飛び込み、遊女達を見事救出したが、自らは焼け落ちてきた屋根に押しつぶされて命を落とした。燃やしたポルトガルの船の船員達の祟りが巡ってきた、因果応報だなどと冷たくあしらう少数派もいたが、遊女の為に命を散らした加賀爪の男気を多くの人々が礼賛し、加賀爪という漢を失った悲しみを歎いた。
加賀爪は事績と人柄からは猪武者であるかのような印象を抱かれる事の多いが、弁も立ち、機転も利いた人物で、それゆえ徳川秀忠からも信頼を寄せられ、当時の旗本の中でも大名の石高に届くほどの最高の知行を得ていた。その豪放磊落な人物と断固として揺るがない姿勢から外様大名にも人気が高く、彼らに色々と便宜を図ってやっていたらしい。特に細川忠興とは気性の荒いもの同士昵懇の中であったようで、色々と取次ぎを宛がわれている。また、泥酔した伊達政宗に額を扇子で叩かれるという無礼な振舞をされたことがあったが、この時忠澄は反撃としてハリセンで勢い良く政宗の顔面を引っ叩いている。東北の大大名で、この時代長老のような立場にあった政宗にここまでの仕打ちをしたのかこの男だけである。大名ですらない旗本がかような乱行をしでかせば手打ちは免れないが、政宗が忠澄の気骨と度胸に感服したようで咎めは無かった。多分彼の人徳の為せる業だろう。
幕府への取次ぎなどで加賀爪に多大な援助をしてもらった一人である細川忠興だが、加賀爪の不慮の死に対して「笑止千万」と言及している。後先顧みず危険な行動をして三途を渡ってしまった加賀爪に対して憤りを感じていたのだと思われる。忠興は変人かつツンデレでヤンデレなので、素直に人の死を悼む事が出来なかったのだろう。