北杜夫

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北杜夫(きたもりお、1927年5月1日 -2011年10月24日)は、日本の小説家エッセイスト精神科医である。

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まんぼう・きーた、自らを語る[編集]

私は東京に生まれた。東京とはいえ、今とは違い草生い茂る空き地や広い原っぱが結構あって、少年時代の私はそういうところでよく走り回っていた。

小学五年生のときに大きな病気をして、そのとき親に昆虫図鑑を買ってもらった。ほかにすることもなくそれを読みふけった私は、病気が治るや否や昆虫採集に没頭した。私には残忍な血が流れていたのに違いない。毎日のように虫を採っては注射をして、それが肢をふるわして死んでゆくのを大変面白く眺めた。私はずいぶんたくさんの虫を殺し、たくさんの標本を作った。それらの標本のほとんどは空襲で燃えてしまい、昆虫採集もやらなくなったが、コガネムシだけは今でも好きだ。注射は、ついこの間まで人間にはしていたのだが、少年のころと違ってあまり面白くなくてすぐ飽きてしまった。虫に注射をしすぎたせいかもしれない。

高等学校に上がった私は、トーマス・マンに熱中した。私のペンネーム、「北杜夫」も、マンの『トニオ・クレーゲル』の「トニオ」をもじったものだが、いじりすぎて分かりにくくなってしまった。斎藤茂吉の息子だと分かれば、短歌など詠まされそうで嫌だったのだ。

私は精神科医として働くかたわら、『夜と霧の隅で』という、ナチスから患者を守ろうとする精神科医たちの話を書いて発表した。よい評価をもらったのでうれしくはあったが、この小説を書くためにあまりに多くの調べ物をしたせいか、精神的に不安定になることがよくあった。気分転換にユーモアエッセイ『どくとるマンボウ』シリーズや、童話のようなものもたくさん書いたが、いっこうに良くならなかった。そして、壮年期を迎え、『夜と霧』の主人公のように極限状態に追い込まれた私はついに

躁病[編集]

こんなんなっちゃったんでちゅー!きゃははは。ボクは、ソウ状態になったときは、赤ちゃん言葉になって、とにかくしゃべりまくりまちゅ。をどなりつけまちゅ。ジョギングに出て行って、通りすがりの人に声をかけまくりまちゅ。歌をうたいまくりまちゅ。部屋中を跳ね回りまちゅ。電話帳のページをひたすら繰って、知らない人に電話をかけまくりまちゅ。妻に迷惑だからやめろと叱られまちた。だからボクは友達遠藤くんのとこに電話をかけて、遠藤くんが出たらすかさずなぞなぞを出しまちゅ。ときどき、鼻をつまんでドクター・ヒンデンブルクの声真似をして、遠藤くんをびっくりさせまちゅ。遠藤くんはいつもひっかかりまちゅ。あーおもちろい、おもちろい。ぱちぱち。でも、同じことを阿川くんにやると機嫌を悪くするのでやりまちぇん。阿川くんは気難しいんでちゅ。頭の中にいろんなことがひらめきまちゅ。きっとこれならすごくいい出来の小説がかけまちゅ。

鬱病[編集]

私は、欝のときはごくおとなしい。外出もせず、ひどいときには一ヶ月に一回しか外に出なかったこともある。思考力もなくなり、何もひらめかない。気弱になる。何も書く気にならない。それでは困るから、過去に書いたものを読み返す。どうやら、私は多くの人に迷惑をかけている。詳しくは分からないが、妻にも相当ひどいことを言っている。すぐ疲れる。しかし、最近、少し程度が軽くなってきたようだ。以前は、を考えたこともあったが、そのようなことはなくなった。それに、躁鬱の周期が少しずつ分かってきたようにも思う。ああ、そろそろ、

躁病[編集]

来まちたよー!さあ、暴れまくりまちゅよ!踊りまくりまちゅよ!飛びまわりまちゅよ!「マンボウ・マブゼ共産帝国」の元首たるボクは、今とても元気でちゅ。とても陽気でちゅ。うれしいことがありまちた。聞いてくだちゃい。ボクの書いたエッセイに出てくる虫の標本を全部集めて、「どくとるマンボウ[1]昆虫展」が開かれまちた。ボクが昔集めた標本も展示されたんでちゅ。すごいでちょ。それで、ボクは、とっても久しぶりにテレビに出て、インタビューに答えて、すごくちゃんとしたことを答えまちた。すごいでちょ。すごいでちょ。 あーっ、悪いでちゅよ、ヒロくん(孫)が今ボクをぶちまちたよ。おーい、おかあさん、来てくだちゃい、ヒロくんがわるいでちゅよ、ジイジをぶったんでちゅよ、おかあさーん。[2]

虚脱[編集]

その羽の下に最後の一冊のアイデアが隠されていたのかもしれないが、もう分からない。

柱時計のジーという機械音をはっきりと聞きながら二燭光の小さな電球の灯りの下でをカチカチと鳴らしながら焼き蜜柑ビロウドコガネの事を考えていると私の従兄たちが連れだって私の七畳半の寝室に入ってくるのを認めるとケルセンブロックはゆっくりとうなずいたがそのやや披露した灰色の目には何の感情も現れてこず、藍子はその隣で黙ってがらをひき続けていた。従兄のひとりが私に向けて投げた小豆入りのお手玉の柄が目の前に広がった次の瞬間には一面ので木々のあいだを縫っての痕が点々と続いていて幻視と知りながらも私はそれをどこまでも追っていこうと思った――

2011年10月24日、齋藤宗吉老人は火鉢の灰が崩れるように84歳の生涯を閉じた。啼くことを忘れたけだもののごとき長い虚脱の日々の終焉であった、のだろうか。それとも、憧れと羨望と少しの軽蔑と、溢れんばかりのきよらかな幸福を含んだ最もひそやかな愛情をもって大著をものさんとしている途上であったのか、もう分からない。マックラケのケである。


注釈[編集]

  1. ^

    著作『どくとるマンボウ』シリーズ[編集]

    北杜夫氏は『どくとるマンボウ』のエッセイで知られる。幼少時に精神病院とかかわりを持って育ったため、その方面での観察眼は鋭い。その当時のことを回想する文章で「狂人は扱い方さえ誤らなければ、普通の人間よりも安全である」「普通の人間が突然発狂状態になるから、そちらの方がよほど恐ろしい」と優れた考察をおこなっている。

  2. ^ 北杜夫氏は、博士論文「精神分裂病における微細精神運動の一考察」により、慶應義塾大学医学部から医学博士号を授与されている。