北条実時

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索

北条 実時(ほうじょう さねとき、元仁元年(1224年)~建治2年10月23日(1276年11月30日))とは、鎌倉時代武士政治家好事家。深遠、明晰な叡智をフル回転させ、鎌倉幕府の頭脳として八面六臂の活躍をしたアナリストである。一方博学で風流人として名高く、政治のみならず文芸方面にも多大な功績を残した。文献の蒐集、渉猟に余念がなく、集めた膨大な本を保管する施設として日本で最初の図書館である金沢文庫を設立した。

人物[編集]

実時は襁褓の頃からその聡明さの片鱗を見せ、神童と畏怖されていた。どの文献だったか忘れたが、生後3日にして「天上天下唯我独尊」と言って親父の北条実泰を仰天させ、3歳にして執権北条泰時に拝謁し、自作の和歌を二十ほど披露。そのどれもが流麗にして格調高く、泰時を大いに感服させたというエピソードがある。実時が生まれたのは2代執権北条義時の死の3ヶ月後のことであったため、人々は得宗(義時)の生まれ変わりと持て囃した。もっとも実時自身は、側室(伊賀局伊賀氏の乱参照)に骨抜きにされて晩節を汚した義時の生まれ変わりと思われるのは心外であったようだ。

我が子のあまりの聡明さに度肝を抜かされたのか、父実泰は27歳にして当時若干9歳だった実時を元服させ、家督を譲り、出家してしまう。この時、実時が実泰の「気弱さ」を叱責したというエピソードが伝わっている。9歳と言えば普通の人間ならまだ小生意気なガキで、親や先生にケツをペンペン引っ叩かれているような時期、そんな幼少期に逆に親を叱り付けたというのだ。この逸話は実時の聡明さを誇張するために9歳で元服したという史実とうまく照合して作られた創作の可能性が高いが、火のないところに煙は立たず、それっぽい事が実際にあったと思われる。実時の底知れぬ人物像を伺わせる逸話である。

実時は11歳にして執権泰時の側近に抜擢される。名執権と名高い泰時の薫陶を受けた実時はその明晰さをさらに練磨させ、20歳にして最高評議会である寄合の常連メンバーとなるに至った。

その後は重鎮の一員として評定、裁決、朝廷との折衝や蒙古への対応などにも辣腕を振るい、幕府の長老格である叔父北条重時北条政村と並び、執権を輔翼し幕政の基盤を支えるになくてはならない柱石となった。

実時の人格、思想の涵養に多大な影響を与えた人物として、清原教隆北条政村がいる。実時は教隆から学問を、政村からは和歌と処世の術、ユーモア精神を学び我が物とした。特に政村に対しては、実時の父実泰と同腹の兄弟と言う事もあって情誼的な関係が深く、実時は実の父以上に敬慕しており、他人が政村を「電線マン(政村の蔑称、由来は不明)」と呼ぶと、鬼の形相で怒り狂い、「修正」させた。実時は政村の娘(つまり従姉妹)を妻に娶り、二子を設けている。羨ましい。近親相姦で生まれてきた子供は夭折することが多いが、政村の娘との間に設けた顕時実政の享年は54歳、いずれも中世の人物の寿命としては平均よりやや上であり、なおかつ顕時は幕政の重鎮として長く枢機に参与し、実政は鎮西探題として度々九州に下向している。この事からガリ勉君の印象の強い実時だが意外と頑健であったことが分かる。

実時は敬慕していた長老政村の死から3年後の1276年53歳で死去する。時の執権は北条時宗、幕政メンバーの世代交代も進み、内管領と呼ばれる時宗個人の側近らが台頭しており、重鎮らが相次いで死去した事で上の閊えが取れた御内人平頼綱は調子に乗り、日蓮を半殺しにしたり安達泰盛と斬り合いをしたりと[1]、その気違いぶりに拍車が掛かっていった。

金沢文庫[編集]

実時の事績で就中名高いのは日本最初の図書館と言われた金沢文庫の創立であろう。博覧強記の好学の士実時は古今東西の書物を渉猟し、病で没する1年前、称名寺を改築し、3階建ての壮麗な図書館を設立した。金沢文庫には実時が各地から取り寄せた膨大な図書……歴史書、文芸書、通俗本、和歌の撰集、官能小説、エロ本、いけない写真集、エロ本、エロ本などが大量に貯蔵された。また、実時の遊び心で本棚の中に幾つか隠しスイッチが設けられており、それを押すと「秘密の部屋」への通路が開ける仕組みになっている。

……が、金沢文庫が設立された真の目的は本の貯蔵ではない。実は実時は自らの管轄する六浦荘から不当に捻出した莫大な暴利を隠匿するためにこの図書館を作ったのである。所謂所得隠しである。それらの財産は金沢文庫の秘密の地下室に隠され、金沢家代々に伝わる秘密の鍵を使わなければ地下室に入れない仕組みになっていた。実時の子顕時の代になる頃には備蓄も潤沢になっていた。顕時は安達泰盛と親しかったがため霜月騒動に連座したが出家で事が澄んだのは、蓄えた莫大な暴利の一部(あくまで「一部」。大事な事なので2回言いました)を平頼綱に賄賂として手渡していたためとされている。

1333年、鎌倉幕府の滅亡に際し、金沢北条氏当主北条貞顕は執権北条高時や他の北条一門と共に自害、息子北条貞将らも自害したり行方知れずになり、鍵もいずこかへ散逸し、地下の金庫室は永遠に開かれることのない開かずの扉と化した。鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞らは金沢流北条氏が蓄えた莫大な財産を我が物にするべく文庫に押し入ったが、鍵がないため当然金庫を開けることは叶わなかった。手ぶらで帰るのが納得いかない新田の兵士達は、金沢文庫のエロ本を持ち去っていった。後世の歴史家たちは、新田軍が斯様な狼藉を働かなければ、北条氏がいかなるエロ本で抜いていたのか知り得たのに残念でならないと、新田の兵士達の思慮の浅さ、蛮勇さを難じている。

注釈[編集]

  1. ^ 大河ドラマ「北条時宗」参照
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「北条実時」の項目を執筆しています。