北条泰時

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北条 泰時 (ほうじょう やすとき、寿永2年 (1183年) - 仁治3年6月15日 (1242年7月14日)) は、鎌倉幕府の第三代執権。執権1224年1242年。2代執権北条義時嫡男

日本の歴史上比類無き「いい人」と言われている。

生涯[編集]

嫡男になるまで[編集]

とにかく「いい人」だったので、1194年元服した際に、烏帽子親源頼朝から上の「頼」の字を与えられて頼時(よりとき、初名)と名乗ることを許された。「頼」の字を与えられたのは源頼家と頼時(泰時)だけであり、その他の人間(弟の朝時含め)に対して頼朝は下の「朝」の字を与えていたので、かなりの待遇であった。

また、元服するまでは、金玉がダイヤモンドのように固かったことから金剛と名乗っていた。この時点で北条氏の嫡男は異母弟で正室の子である北条朝時であった。ところが朝時は3代将軍・源実朝夜這いを仕掛けて怒りを買い、失脚(名前を見ての通り、元々頼朝からは頼時(泰時)が"人間的に"上と見られていた)ので、庶子であった泰時が嫡男とされた。中世では男色は上流階級の嗜みであり、夜這いをしかけられた程度で何故実朝が立腹して朝時を失脚させたのか、真相は良く判っていないのだが、やはり比類無き「いい人」であった泰時をむちゃくちゃ気に入ってしまい、彼を北条家の嫡男にもり立てようという意思があったのだと、歴史学者達の見解は概ね一致している。ちなみに追放された朝時のほうも、泰時には何ら恨みは持たず、両者の仲はすこぶる良かったというから、泰時の驚異的な「いい人」ぶりがうかがえる。

その後、実朝は鶴岡八幡宮に参詣した帰りに甥の公暁に襲われて非業の死を遂げたが、一説に寄れば、公暁は実朝よりも泰時こそが為政者に相応しいとして、文字通り「首を挿げ替える」つもりで凶行に及んだという。公暁の親父源頼家は、泰時の実家北条氏に陥れられ非業の死を遂げており、北条氏は彼にとって父の仇ということになる。その父の仇を将軍に相応しいと礼賛したことは、やはり泰時が欠点一つ無い人格者であったことを示唆している。

承久の乱[編集]

後鳥羽上皇鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げた際は、幕府の総大将として逆に京都を後略。上皇側の軍勢をさんざんに蹴散らしている。そして泰時は後鳥羽上皇・順徳上皇を島流しにする。武士の分際で上皇を島流しにするという前代未聞の暴挙であるが、「あの『いい人』がやるんだから仕方ない。」と、世間はすんなり納得してしまった。さらには土御門上皇は対象外だったのに、自ら泰時に自分も島流しにして欲しいと訴え出る有様であった。泰時の驚異的な「いい人」ぶりがうかがえる。

3代執権[編集]

1224年、父義時が急死した為、鎌倉に戻って家督を相続し、第3代執権となった。翌年には伯母北条政子や有力幕臣大江広元が相次いで没した為、幕府内で不穏な空気が流れたが、泰時の驚異的ないい人っぷりに幕府の誰もが惚れ込んだために、全く無問題で終わる。泰時は最初の武家の法典である事で有名な御成敗式目(貞永式目)を制定した。式目制定の際も、「お前ら、これからはこの式目に従えよ! ゴルア!」といった態度は取らず、「こんなもの作ってみましたがどうでしょうか?」と御家人たちに回覧板でまわしたため、その「いい人」っぷりに、感激しない者は無かったという。

他にも、泰時は寺社の僧侶が兵仗などで武装し、「僧兵」化することを禁止、武器を保有する寺社に苛烈な弾圧を加えた。仏に仕える僧侶を弾圧するなどとんでもないことだと反北条勢力から批判が巻き起こったが、泰時が「いい人」だというのは御仏にも伝わっており、当の仏が「泰時はいい人だから、その弾圧も『良い弾圧』である」とお墨付きを与えたので、世間も納得した。泰時の驚異的ないい人っぷりがうかがえる。

1242年四条天皇が崩御した為順徳天皇の皇子・忠成王が新たな天皇として擁立されようとしていたが、泰時は順徳天皇がかつて承久の乱を主導した首謀者の一人である事からこれに猛反対し、後嵯峨天皇を新たな天皇として推戴している。武士の分際で皇位継承に口出しするなどとんでもない暴挙であり、九条道家など一部の公家が猛烈に抗議した。さすがに「もしかして泰時様のいい人伝説もこれで終わりか?」と話題になったが、世間は九条道家らを「あの『いい人』に逆らう、性根の腐った狷介な馬鹿野郎どもだ」と評した。泰時の驚異的な「いい人」ぶりがうかがえる。

全盛期伝説[編集]

  • 評定衆を集めての会議で、7議題で泰時に10回感謝は当たり前。7議題中12感謝も。
  • 生まれた時に、産婆が泰時に感謝。
  • 泰時にとっての将軍からの恩賞は、賞賛のし損ない。
  • 周囲は全て反北条の御家人ばかり、今にも惨殺されそうな状況で賞賛の嵐。
  • 戦場に立つだけで後鳥羽上皇が泣いて謝った、自ら島流しを求める土御門上皇も。
  • 勝勢でも相手から感謝を得られないと、捨て台詞を残して退却した。
  • あまりによい人だと賞賛されるから、幼児を集めていじめる。
  • その幼児の親からも感謝。
  • 将軍・九条頼経を一睨みしただけで、泰時に対して土下座。
  • 風邪ひいて一日中寝込んでいても感謝される。
  • 自分への賞賛の言葉を自分でキャッチしてレーザービームで相手を褒め返す。
  • 京都の公家のヤジに流暢な京ことばで反論したら感謝された。
  • グッとガッツポーズしただけで、周囲の5人くらいから賞賛される。
  • 賞賛の嵐でハリケーンが起きたことは有名。
  • 感謝の念が強すぎるせいか、相手が老後まで感謝する様子が目に浮かぶ。
  • 外を出歩くと、いい人だと賞賛される確率が150%。賞賛するだけでは足りなくて、邸に感謝状を届ける人が50%いるという意味。

偏諱を与えた人物[編集]

しつこいかもしれないが、とにかく「いい人」なので、将軍ではなく、泰時から1字を貰いたいという人が続出していた。逆に恐れ多くて遠慮した人も多いのでそんなに多くはないが。
頼時時代
泰時時代

こうしておきながらも、将軍の九条(藤原)頼経に対して泰時は「私はかつて頼朝公から1字を受けました。どうか私の孫の藻上御前(藻上丸)にも貴殿の1字を与えてやって下さい」と述べ、結果実現した。やっぱり「いい人」である。(子の時氏はどうしたって? まぁそこはどうでもいいじゃないか…。)

その他逸話[編集]

  • ひよこ陛下をただのひよこと間違えて、煮て食べようとした。しかしひよこ陛下は笑って許した。泰時の驚異的ないい人ぶりがわかる。
  • 日本人を見下していたアドルフ・ヒトラーを叱りつけた。ヒトラーは恐れかしこまり、以降日本人を差別する事をやめ、むしろ「日本人はアーリア人である」と主張し始めた。泰時の驚異的ないい人ぶりがわかる。
ちなみにこの結果として、日独伊三国同盟が結成され、日本は戦争への道をひた走る事になるのだが、日本人は誰も泰時を恨んでいない。原爆を落とされた広島の住民であっても。泰時の驚異的ないい人ぶりがわかる。
  • 赤軍に捕まり粛正されそうになるが、それを聞いたヨシフ・スターリンが真っ青になって駆けつけて、処刑はとりやめになり、泰時を処刑しようとした軍の幹部がむしろ粛正されそうになった。泰時の驚異的ないい人ぶりがわかる。なお、自分を処刑しようとしたソ連軍の幹部の処刑も、泰時の嘆願によってとりやめになった。泰時の驚異的ないい人ぶりがわかる。
  • 朱元璋への手紙で、禿と言った文字を大量に使ったが、朱元璋は何も言わなかった。むしろその手紙から伝わる泰時の驚異的ないい人ぶりに感動して涙した。
  • 自国民を300万人虐殺し、その後も激しく抵抗を続けたポル・ポトも、泰時に叱られてからは素直で大人しくなり、黙って裁判を受ける事になった。しかし裁判を受ける前に病死した。最後の言葉は「泰時様に申し訳ない」であったと言われる。泰時の驚異的ないい人ぶりがわかる。
  • 総統閣下や医者の言う事も全く聞かずに、ひたすらスツーカーで出撃しまくったハンス・ウルリッヒ・ルーデルも、北条泰時に「あなたは働き過ぎだから、少しは休みなさい。」と言われた時は素直に従って、しばらく休暇を取ったと言われる。泰時の驚異的ないい人ぶりがわかる。しかし、ルーデルが休暇を取った時には、誰が壊したのかわからない戦車が大量発生したのだが、その理由はお察し下さい

評価[編集]

泰時の「いい人」っぷりに対しては賞賛の声が大きく、同時代では、参議・広橋経光などが古代中国の聖人君子に例えて賞賛している。鎌倉幕府滅亡後は、歴代の執権は皆、ボロクソにけちょんけちょんにけなされているが、泰時だけは「いい人」としてものすごく賞賛されている。あの皇室一辺倒だった北畠親房ですら、上皇を島流しにして皇位継承に口を出したこの泰時を、「神皇正統記」で絶賛しているくらいである。

というか、この人なんでここまで評判がいいの? どうしたらこんな「いい人」って評判になれるの? 誰か教えて!

…まあ、一説によると、伯母の北条政子があまりに恐れられたので、泰時の人柄が引き立ったというね。

関連項目[編集]


先代
北条義時
執権
第3代
次代
北条経時
みなさん、松平です。 この項目「北条泰時」は、日本史に関連した企画書ですが放送日が迫っています。アンサイクロペディアではその時でないのに歴史が松平アナを動かす! (Portal:スタブ)