北条経時

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「なんだかんだ言っても私より目立っているではないか!」
北条経時 について、敏達天皇
「安心しろ。俺たち親子は影が薄い。俺は執権にもなっていないから記事さえ作られていない。」
北条経時 について、北条時氏
系図からも抹消される可哀想な人

北条 経時(ほうじょう つねとき、元仁元年(1224年) - 寛元4年閏4月1日(1246年5月17日))は鎌倉幕府の4代執権。バーバリズム万歳の御家人達に政を染み込ませた先代北条泰時と、胡散臭い逸話やおっかない粛清で知られる聖人君主(?)の弟北条時頼に挟まれた影の薄い存在。空気執権の二つ名で知られる。むしろ本名がなかなか覚えてもらえずこちらの通称で呼ばれることが殆どである。その為歴史の教科書などに書かれている歴代執権の項目にも、「泰時―空気―時頼」「泰時―誰か―時頼」などと記されている事が多い。経時の存在を抹消して時頼を4代目と表記しているあまりにも酷い教科書も最近は出回っているとか(さらに、亡くなったはずの時氏を4代目としている歴史教科書の草稿があったとも伝わる)。

日本史に名を残した名君が多い鎌倉時代前期の執権北条氏において珍しく存在感の薄い執権である。他に存在感の薄い執権と言えば六代の長時がいるが、繋ぎの役割である長時と違い、経時は得宗家の嫡孫である。このことからも、いかに経時が存在感のない男であったかが伺える。鎌倉の光明寺の説明に彼の名前が出ても「経時って誰?」と思われるのがおちである。今でも時々影の薄さを嘆く経時の亡霊が鎌倉に出没し、その嘆き声が鎌倉市内全域に響き渡る事がある、って江原啓之が言ってたよ。

生涯[編集]

時氏早世していたため、泰時から嫡孫の経時に家督が継承されるも、赤子の頃より傀儡として散々利用される内狡猾さを身につけた将軍の九条頼経に翻弄される(「経」の字は頼経から与えられたんだとか)。腹に据えかねた経時は頼経を強引に更迭してその子頼嗣を擁立するも、頼経は「幼き赤子を残して京へと帰れるか」「腹が腹痛だ」「だまりゃ」などとのらりくらりと躱して鎌倉に居座り続け、その間鎌倉の北条館に牛を突っ込ませたり経時の屋敷の目の前で騒音を立てるなど迷惑行為を続けた。

腹に据えかねた経時は頼経を追い出そうと将軍の屋敷に押しかけたが、頼経シンパの公家たちが門の中に待ち構えており、一斉におしくらまんじゅうの如く一斉にヒップアタックをかましてきた。丸々と肥えた貴族達の美尻には精強な鎌倉武士達もこれには叶わず弾き返されてしまい、頼経の追放には失敗したあげく、弟の時頼から「手口が甘い、何故一挙に詰め寄せて皆殺しにしない」などとダメ押しされてしまう始末だった。

経時はなおも折れることなく妹を頼嗣に嫁がせて将軍、朝廷と有利な関係保とうとしたが、この縁組によって、経時は潜在的な敵に妹を嫁がせる鬼畜であると民衆に非難された。無論焚き付けたのは反北条の公家などであることは明白だが、愚直な経時はそれに気が付かず、心配して妹の様子を見に訪れたところで頼嗣が発した「誰やお前、その平凡な面を麻呂に見せるな」と言う一言がトドメになり、経時は病に伏してしまう。見るも無残なほどにやつれて人生に絶望した経時は出家して弟時頼に家督を譲り、まもなく23歳で死去した。

なお、曽祖父北条義時や祖父北条泰時ら、先代の執権が死去した折には、鎌倉はおろか洛中の人々までもがその死を悼んで服喪し、一月ほどあらゆる行事や政務が停滞するほどであったが、経時の死に際して喪に服した者は、京都はおろか鎌倉においてすらまばらで、多くの御家人は次なる執権を弟時頼と見定め、時頼の下に馳せ参じて貢物を献上するなど阿諛追従に必死であった。六波羅探題として京都の治安を担当していた北条重時に至っては、京都の公家集に向かって、経時殿如き人物の喪に服す必要は全く無いだろうと放言した。これらの言行から、経時に対する同時代の人物の人物評をうかがうことができる。(´・ω・) カワイソス。

人物[編集]

  • 弟時頼は経時を慕っていたと言われるが、内心ではその存在感の薄さを馬鹿にしきっていたとも。晩年「俺に兄貴なんていたっけ」などとしゃあしゃあと言ってのけたと言う逸話も残っている。
  • 息子が二人いたが、共に「本人の意向」によって出家して僧侶となった。しかし本当に「本人の意向」だったのかどうかは疑わしい。いやあからさまに怪しすぎる。出家させてしまえばあとは何とでも言える。
  • 将軍との政権闘争で優位に事を進められないまま、ロクな功績も残せずに死去した為、無能ではないかと評する声もあるが、執権になってわずか5年で死去したため無能と評するのは酷だろうとの擁護もある。
  • しかし弟の時頼も若死にした割には鎌倉幕府を磐石に仕上げた多大な功績があるため、やっぱ無能とまでは行かなくても凡庸だったんじゃないのと言う評価が多数を占める…かどうかは分からない。むしろ名前さえ知らない人が大多数だろう。経時の一番の欠点と言えば、その存在感の薄さに他ならない。
  • 弟時頼が縦横無尽に活躍するための土台を遺して行ったとも言われるが、定かではない。いずれにせよ、存在感の薄い執権であったことだけは古今東西覆る事がない。

偏諱を与えた人物[編集]

経時は御家人たちからもあまり(空気執権'というのは聞いたことがあっても)本名が知られておらず、「経」の字を貰った人間は確認されるだけでも以下の数名程度である。


先代
北条泰時
執権
第4代
次代
北条時頼