北条貞時

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北条 貞時(ほうじょう さだとき、文永8年12月12日(1272年1月14日) - 応長元年10月26日(1311年12月6日)(公称))は鎌倉幕府執権永仁の徳政令という大規模な借金棒引きを敢行した為、借金踏み倒執権と揶揄されている。

家族構成[編集]

親父は蒙古を撃退した時の執権として、承久の乱のせいで逆族扱いされることの多い北条氏の中で珍しく国粋主義者からも礼賛されている北条時宗、母親は有力御家人安達泰盛の妹で、その泰盛と犬猿の仲であった平頼綱の嫁が乳母になり、彼女に育てられるという複雑な家庭環境にあった。

尚、尊卑分脈などに拠れば兄弟はおらず一人っ子であったと書かれているが、実際には同腹、異腹を含め何人か兄弟がいた。しかし、親父の時宗は、自分が庶兄北条時輔と対立して殺し合いをした血生臭い前例を鑑み、禍根を絶つために嫡男の貞時以外の兄弟を皆殺しにした。

覇者の家に生まれた貞時だが、生まれた時から既に殺伐とした環境に置かれていたのだ。

少年時代[編集]

貞時が14歳の時に、親父の時宗は30代の若さで死去した。その為、貞時が北条家の嫡流の称号である「得宗」を継ぐと共に、第9代執権に就任した。当時の14歳と言えば概ね武士の子は元服、つまり成人する年であったが、執権としての帝王学を施されてはいたが貞時はまだまだ経験不足で未熟な面があり、「貞時を盛り立てる」という口実の元、幕府の重鎮であった安達泰盛平頼綱が、醜い権力闘争を行うようになった。泰盛と頼綱は交互に貞時に拝謁しては、互いの悪口を貞時に吹き込んでいたという。泰盛の妹は貞時の実母、頼綱の妻は乳母である。泰盛も頼綱も、幼くして父親と死別した貞時にとって、父親代わりのような存在であった。その父親代わりの二人が、権力を巡ってこうして醜い争いを延々と続けていたので、貞時は当然のことながら人間不信となった。

両者の争いは益々ヒートアップし、ついには頼綱が泰盛を初めとする安達一族を滅ぼすという形で終結を迎えた。貞時は、これを止めることができる立場だったが、自分の実母である泰盛の妹よりも、乳母である頼綱の妻の方が怖く、泰盛に荷担したらどんな報復をされるかわかったもんじゃないという恐怖から、見てみぬふりをした。

政権掌握[編集]

宿敵、泰盛を滅ぼした頼綱は、事実上幕府の支配者となった。鎌倉幕府の実権は将軍家から執権北条氏へ移っていたが、ついに今度は北条氏の当主や執権ではなく、その北条氏の家来(御内人)が主君の北条氏や将軍家を飛び越して幕府の実権を握ることとなった。一種の下克上である。貞時は猜疑心と悲観から屋敷に閉じこもり、頼綱の傀儡になることに甘んじていた。源頼朝によって開かれた鎌倉幕府も既に設立から100年近く経過していたが、この頃になるとその基盤に綻びが生じ始めるようになった。

御家人達は借金で首が回らなくなり土地を売り捌いて窮乏化した。当時の相続制度であった分割相続が御家人の窮乏化に一層拍車をかけ、自分一人が親の遺産を貰い受けようと目論み兄弟同士で殺し合いを行う家もあった(この辺は現代と変わらない)。

頼綱は山積する問題に対して、頼綱なりに是正を試みた。しかし、効果は芳しくなかった。そして貞時が23歳になった1293年に突然、頼綱とその一族を粛清した。どうやって粛清したかというと、実はその日、鎌倉で大地震が起こり、大勢の武士たちが執権である貞時の屋敷にお見舞いとして急に集まったことが始まりである。頼綱一族の粛清を前々から考えていた貞時だが、頼綱が鎌倉幕府や北条家の実権を握って隅々まで目を光らせており、頼綱に気づかれないまま密かに兵を集めることは不可能だった。そんな時に大地震発生で、大勢の武士たちがぞくぞくとお見舞いに貞時のもとへやってきてくれたのである。貞時は思わず「キターーー!!!!!!!!!」と叫んだとか叫んでないとか。貞時はお見舞いに駆け付けた武士たちに「地震にかこつけて盗賊どもが鎌倉を荒らしまわる恐れあり。ただちに武装して日没前にまた集まれ。見回りの当番を決めることとする」といって戦支度を命じ、再度集まった武士たちに「平頼綱は自分の息子を将軍にしようと謀反を画策しておる!!ただちに討て!!」といきなり命じたのである。こうして貞時の命令を受けた武士達に屋敷を急襲された頼綱やその息子の飯沼助宗ら一族は、自害したのであった。貞時を殺して自分の子飯沼助宗を将軍に据えようとしているという風聞を鵜呑みにしたのが動機だが、飯沼助宗は利発なイケメンとして知られており、その器量に嫉妬して殺意を抱き、頼綱ごと殺したともいわれている。また粛清を貞時に決断させた背景として、貞時は生まれてから一度も大地震を経験したことがなく、想像を絶する大地震を経験し、もしや頼綱が自分を陥れるために調伏を行い大地を崩壊させた、つまり人工地震を起こしたのではないかという陰謀論に走ったのかもしれない。そうだとすれば、一国の支配者としてあまりにみっともないが、現代でも高学歴で聡明なインテリでも陰謀論を妄信する人間は多い。緊急事態においては、一国の支配者ほどの度量を持つ人間であっても、陰謀論を信じてしまうのはやむを得ないのだろう。


頼綱とその一派を粛清し、幕政を自ら行うようになった貞時は、諸問題の解決に取り組んだ。まず行ったのが人事の刷新である。貞時は少年時代に泰盛と頼綱の醜い争いを目の当たりにして疑り深くなっていたので、出来る限り信用できる人間を周囲に配置したかった。その信頼できる人間とは、同じ北条一族だった。まず家臣(御内人)のとりまとめ役である内管領を、いとこの北条宗方に任じ、家臣(御内人)が頼綱のように主君を飛び越えて暴走しないように防いだ。こうして貞時は、いとこの北条師時北条宗方を、共に政権の主要メンバーに抜擢した。師時と宗方は共に女の子であったが、人材不足から性別に構ってはいられないという幕府首脳陣の配慮から、武将として育てられていた。

借金棒引き[編集]

師時と宗方の補佐を受け、貞時は積極的に幕政改革を推進した。何よりの急務は、御家人の窮乏化、借金の担保による土地喪失の抑止であった。貞時は、悪いのは全部高利貸しだと判断して、片っ端から金貸し業者を弾圧した。更に、永仁の徳政令と呼ばれる、日本史上最大と言われる借金棒引きを行わせ、御家人達の借金をチャラにして、担保として差し出した土地を返却してやった。

これで幕府に仕える御家人は立ち直り、幕府の基盤も再び安定するかと思ったら、そうはいかなかった。御家人達は再び借金をして担保として土地を売却するようになったので、結局貞時のやったことは徳政でもなんでもない、ただの弥縫策に過ぎなかった。のみならず、金貸し業者からは強い反感を買い、彼らは幕府の弾圧に対抗するべく武装化して「悪党」になっていった。南北朝時代の英雄、楠木正成などは、その悪党から誕生している。

つまり貞時の政策は、結果として幕府の滅亡を促進してしまったことになる。どうしてこうなった、焦燥する貞時に、北条一族の長老的存在であった北条時村が中心となって、貞時体制への批判が沸き起こる。そんなときに貞時はハレー彗星をみて、「天がわしの徳政令に怒っている」と壮大に勘違いして、執権職をいとこの師時に譲って出家した(まだ嫡男の北条高時が幼いため)。それでも貞時は出家後も幕政を指導したのだが、時村を連署として「取り込む」ことで貞時体制への批判を抑えようとした。しかし時村は連署を引き受けたものの、貞時への批判は止めず、ついに貞時は時村粛清を決断する。しかし連署の時村の目が届かない所で、時村を討つ兵を密かに集めるのは難しい。前回の平頼綱粛清は地震を利用して成功したが、地震はいつ起きるかわからない。そこで貞時は自宅を火事にして、火事見舞いに参上した武士たちを兵力とし、貞時の側近12名を指揮官とした討伐軍を急編成し、時村の屋敷に奇襲し、討たせたのであった。貞時にとってはめでたしめでたしとなるはずだったが、そうはならなかった。鎌倉の大仏様の傍に住んでいた大仏流北条宗宣を筆頭に北条一門の分家たちが貞時へ猛反発し、兵を集め、鎌倉は騒然となり、幕府は停滞してしまう。「ふん、大仏流なんて恐れるに足らず!!大仏のように堅物な奴め!!こっちのほうがはるかに大軍を集められるわ!!」とたかをくくっていたのだが、貞時のもとに大軍が集まらない。なんと平頼綱と同族の長崎高綱(円喜)が、他の御内人たちと結託して、サボタージュしてしまったのである。平頼綱を粛清し、内管領を北条宗方とし、ことあるごとに御内人を抑制しようとしてきた貞時には裏目となってしまった。貞時はやむをえず、「僻事(間違い)」であったとして腹心12名を拘束し、処刑を命じる(1名が脱走したので、11名が処刑)。父時宗も分家の名越流北条時章を粛清した時に、同じ手を使って責任回避と自身への権力集中に成功したが、今回は「二度目」であり、反対派は納得しなかった。大仏流北条宗宣は、貞時が内管領としていた一番の腹心である北条宗方の首を要求して戦支度を始める。躊躇する貞時だが、長崎高綱を筆頭に御内人は貞時に従わず、このままでは貞時の許可を得ることなく宗方が討たれれば、貞時の政治生命は失墜してしまう。やむをえず宗方討伐を承認し、宗方は「貞時の命令」で討たれてしまったのであった。

絶望と遁世[編集]

貞時を支えてくれた存在である宗方を失ったことは両手両足をもがれたも同然であった。宗方の後任の内管領は長崎高綱が就任し、時村の後任の連署は大仏流北条宗宣が就任した。ただ今回の政変は、あくまでも長崎高綱が中心となった御内人のサボタージュのおかげで宗宣は政治闘争に勝利したので、鎌倉幕府の実権は長崎高綱が掌握することとなり、貞時も師時も宗宣も傀儡同然であった。やがて貞時の死後、北条高時が長崎高綱の排除をたくらむも、壮絶に失敗し、長崎高綱体制は鎌倉幕府滅亡まで続いた。結局、貞時が粛清した平頼綱と同族の者に、幕府の実権は戻っていったのである。貞時は支えを失って酷く憔悴し絶望してしまい、一切の雑事を師時や高綱に丸投げして出家し、鎌倉から行方を晦ましてしまった。

その後の貞時の行方は杳として知れない。師時はじめ、慌てた幕府首脳陣は貞時の蒸発を10年間必死で隠蔽し、10年後、師時が死んでから間もなく、出家し、隠居していた貞時が死去したと虚偽の告知をした。

蒸発後の貞時の動向については「太平記」で詳述されている。それによると、何もかも信じられなくなった貞時は、日本各地を遍歴し、鎌倉幕府に仇なす可能性のある人物を片っ端から粛清する「殺し屋」になっていたという。そして、貞時が幕府に反撥する人物を暗殺して回っていた所為で、後醍醐天皇による倒幕が遅れた、と記している。

死後[編集]

色々と混沌の時代を生き抜いた貞時だが、その事績でもっとも有名なのが借金踏み倒しの徳政令である。そのため、死後、借金踏み倒しの神様として神格化され、崇拝されることとなった。貞時の墓前に供物を捧げると、借金が帳消しになるという言い伝えが日本中に伝播した。現代でも、サラ金地獄に陥った哀れな犠牲者が、はるばる鎌倉まで来て、貞時の墓前に供物を捧げるという。無論、その供物、及び、鎌倉までの交通費は、闇金から捻出している。そして、貞時の霊が借金を取り消してくれるなんてことは殆どの場合においてない。徳政令はその場しのぎにしかならず、貞時の借金踏み倒しは結果失敗したのである。失敗した男が、よしんば神様になれたとして、全ての借金を踏み倒してくれる万能な神様になれるはずもない。こうして、貞時に供物を捧げて踏み倒しを願った多重債務者は、踏み倒しの願いが成就されることもなく、追い詰められてゆく一方となる。彼らの多くは、貞時へ踏み倒し祈願にきたまま、鎌倉の街中で首をつって涅槃へ逝ってしまう。

名前について と 偏諱を受けた人物[編集]

北条氏はあくまで執権(将軍の補佐)であり、御家人の一つとされていたため、父・時宗の代までは将軍様の1字をもらっていた。このため、7代将軍・惟康親王や8代将軍・久明親王から1字を受ける話も出たが、貞時は「今や北条、特に得宗がこの国のトップなのだ! なんで将軍から1字をもらって名前を決められなくてはならぬ?」と言い放ってその話を退け[1]、更に正応2年(1289年)には惟康を、徳治3年(1308年)には久明を相次いで廃することで「得宗」が最高権力者であることを世に知らしめた(だが結果は前述の通りである)。そして自身で名乗った「貞」の字は、平将門を倒し平氏や自分たち北条氏の基礎を作ったということで貞時自身が崇拝する祖先の平貞盛から取ったようである。

そして、「得宗」に権力を集中させるための一環として貞時は以下の人たちに自身の「貞」の字をばらまいた。まぁ、これが意味あったかどうかは・・・

北条氏一門[編集]


その他(御家人など)[編集]


関連項目[編集]

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脚注[編集]

  1. ^ 代わって北条一門No.2の赤橋久時義宗の子)が久明親王の1字を受けることとなった。
先代
北条時宗
執権
第9代
次代
北条師時