南光坊天海
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
南光坊天海(なんこうぼうてんかい、1536年(天文5年)~1546年(天文15年)? - 1643年11月13日(寛永20年10月2日))は、人間五十年と織田信長が敦盛を引用して語ったように、平均寿命が短かった戦国~江戸時代において100年以上も生きた超人の一人。法名は随風、後に天海と改める。
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[編集] 天海にまつわる、謎の諸説
天海は、その余りに謎の多い生涯、戦国から江戸初期という、人気の高い三英傑の時代を生きたこと、そして天下人となった徳川家康の知恵袋として活躍しながらも、出世、権威欲に執心した林羅山や金地院崇伝(足利一門一色氏出身)らとは異なり、政治的にも一歩距離を置いたポジションに身を置く事から生ずる妙な神聖さから、色々と妄想のネタにされ易い。
[編集] 出自
最も有名な妄想と言えば、その出自についてである。
天海専用のトイレや彼の愛用のティッシュ箱に桔梗の紋が刻まれていたことなどから、同じ桔梗を家紋とする明智光秀、もしくはその女婿で、鬼武者の主役に起用されて知名度を上げた明智左馬介(秀満)と同一人物であるという説である。
また一方で、東北の大名蘆名氏の一族である、と永らく言われてきた。しかし、
- 蘆名氏と結びつけるものが乏しい事や
- そもそも北国の大名の血縁者なら「南光坊」を名乗るのはおかしいじゃないか
などの理由で蘆名氏の一族であるとの説は希薄になっている。その為、ウィキペディアでは
という4説に分かれ、互いが自説を主張し続ける余り、彼らによって天海の記事は悲惨なほどに荒らされている。そこで浅見光彦は、この辺の諸説を折衷して、蘆名氏の一族で、最初は舟木秀光と名乗って光秀に仕え、後に家康に仕えたという説を提唱、喧伝した。所謂アサミスト達は、この説を妄信している。
[編集] 生没年
彼の生年には諸説あって一切不詳である。
だが本人曰く1536年であり、なおかつ晩年に天海自らが「実はサバ読んでました、それもかなり」と暴露したことから、最低でも1536年よりも20年以上前に誕生した事になる。
一方で没年は1643年とされているが、これはあくまで「歴史の表舞台からお隠れになった年」であり、その後は江戸城か日光東照宮の地下にある巨大な空洞に隠遁し、仙人になり、大政奉還の年に検閲により削除歳で身罷ったと伝わる。徳川家光からは「何故、天海はそれほどまでに長く生きられるのか」と問われ「毎日牛乳飲んでれば100歳ぐらいまでは平気で生きられる」と冗談交じりに語ったと言う逸話があるが、その驚異的な長寿の理由は未だに不明である。
[編集] 不思議な言動と、その裏付け
晩年になると、家光や幕臣達を相手に様々な妄言を口走ったとされる。
それが、どれも捏造と疑われても仕方がないような信憑性・現実性が欠如した妄言ばかりで、いくら何でもコレじゃねぇ…といった具合である。それらの妄言の中でも、とりわけ破壊力のあるものを列挙すると、
- 川中島の戦いを見物した、ついでに厳島の戦いも見物した
- フランシスコ・ザビエル神父とも知り合いだった
などである。これらの話を聞いた幕臣土井利勝は「幕府の知恵袋と言われた天海上人も、ついに耄碌されたか」と嘆いたと言われる。
しかし天海は、それらが事実であると言う物的証拠を見せ、さらには川中島や厳島の決戦の有様を細部に至るまで説明し、利勝達を仰天させた。
もっとも、この一件に関しては、後世の歴史家達による見解は多少の差異はあれど概ね一致しており、「豊臣家に謀反の疑い有りとでっち上げたほどのペテン師なら、それぐらい用意周到にやって当たり前だ」と、天海のしたたかさ、才智を評価した上で、これらの発言は戦国の世が完全に終わってから誕生した「もののふのゆとり世代」を茶化すために天海が口走った戯言であろう、と否定的な意見が大半を占める。