橘仁

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橘 仁(たちばな じん、生年不詳 - 明治43年(1910年)9月22日 )は、幕末期から明治時代の医師であり、日本初の医療法人仁友堂の創設者。

本人の記憶喪失のために出自不明。橘の姓も婿養子入りした家名である。近年の研究で、元の姓が"南方"であり、紀州の商人の出である可能性が示唆されている。

文久2年(1862年)頃より医療活動に従事し、ペニシリンの発見、点滴法の確立、ABO血液型の提唱など、多くの先進的な医療技術への革命を起こした。

その医療への先進的な発想に敬意を表し西洋の医師からは魔術師との意味を持って「神に遣わされたメディシマン」と呼ばれた。

経歴[編集]

文久2年(1862年)頃、記憶喪失となり江戸を彷徨っていた時に勝海舟の門下であった橘恭太郎と出会い、橘恭太郎を治療した縁により橘一家の世話・援助を受けることとなる。ここで公私ともに長らく伴侶となる橘咲と出会うこととなる。

橘家に間借りをしている時に近隣の長屋街で麻疹が流行し、その治療にあたる。麻疹の治療の中、麻疹などの感染症は目に見えない小さな有毒生物(現在のウィルス病原菌)によるものではないか考えるようになる。そして加持祈祷を否定し、流行病である痲疹の病人を隔離、塩分水分の補給や湿度の保持を中心とした対症療法を行い、その当時の江戸としては劇的な快復率を示した。

その後、橘恭太郎の紹介により勝海舟と出会う。勝の誘いで赴いた横浜で、ウィリアム・ウィリス医師・ジェームス・カーティス・ヘボン医師の両名が匙を投げる中、イギリス人水兵の肝臓手術を断行し肝臓と横隔膜の縫合を行い水兵の一命を取り留める。この事件により西洋の医師達に橘仁の名前が知れ渡るきっかけとなった。

同年に、江戸に虎狼痢(コロリ・コレラ)の大流行(3回目の流行)が始まる。勝海舟の推挙もあり、当時日本で西洋医学の中心でもあった緒方洪庵が頭取を務める西洋医学所でコロリに対する治療法を提示することになる。橘仁が示した治療法は、コロリは水を媒介とした病原菌による流行病であり、清潔な水を利用すること、患者の身の回りの物を消毒(熱湯・アルコール等)することによる感染の抑止、そして患者の体内に下痢によって失われる水分や塩分、栄養を補うと言うことであった。それは、当時西洋でも未発達の医療であった点滴を用いた医術であり、当時の江戸の蘭方医達には橘仁はペテン師・山師であるとの批判を受けたが、結果として橘仁が治療をした患者が劇的な生存率を示したことから多くの蘭方医達も橘仁の医療方針を受け入れることとなった。

また、この時分より坂本龍馬との親交があったと言われ、龍馬に連れられて訪れた吉原遊郭で見た梅毒患者の惨状を知って、その治療薬、結果としてペニシリンの発見に至ったと言われる。

橘仁は梅毒患者の体液より得た細菌を培養し様々な物質を加え、細菌に薬効のある物質を調べ、最終的に橘家で温州蜜柑に発生していた青カビより精製した成分に細菌の繁殖を阻害する作用があることを突き止める。そしてこの成分を青カビの学名からペニシリンと名付けた。

このペニシリンは重度の火傷患者に試みた皮膚移植手術においても利用し、手術後における二次感染や化膿の抑止に役立つことが判明し、抗生物質としての利用が大きく広がることとなった。しかしペニシリンの量産には技術的な問題が多く、また金銭的に莫大な施設費用がかかった。当時、貧者にも慈善的な医療を行っていた橘仁に金銭的な余裕はなく困窮していたが、ペニシリンの必要とする患者を治療する際に親交を持った三代目澤村田之助の助力により江戸におけるペニシリンの量産に道筋が付いた。

文久4年(1864年)、医学所の要請により、当時江戸に蔓延していた脚気の治療に当たることになった。当時の江戸には白米を食べる習慣があり、それによりビタミンB1欠乏からなる脚気が流行していた。橘仁は贅沢病であったことから玄米やアワ、ヒエなどの雑穀を食べていた農村には脚気が発生しないことに着目。しかし玄米などのビタミンを豊富に含む食事を提唱しても、玄米食を忌諱する庶民には受け入れられなかった。そこで橘仁は当時日本人には物珍しかった西洋の菓子、とりわけオランダドーナッツに玄米などのビタミン豊富な材料を混ぜて大々的に売り出すことによって民衆の口にビタミンが入るようになり、江戸の栄養状態を改善することに成功した。現在でも大吉屋製菓で販売されている道奈津はこの際販売されたものである。

その卓越した外科技術や西洋の医師をもしのぐ医療知識をたより、多くの要人達が橘仁の元を訪れた。西郷隆盛、大関時代の陣幕久五郎、前述の三代目澤村田之助、また当時将軍であった徳川家茂の正室和宮親子内親王も橘仁により命を救われた一人である。

しかし、和宮親子内親王を治療した際に、内親王が危篤に陥ったのは橘仁の謀であると濡れ衣を着せられ牢獄へと収監されることになる。治療を受けた和宮親子内親王が橘仁の無実を訴え徹底的な真相究明を望むことにより、この濡れ衣は晴れることとなった。

文久5年(1865年)、川越藩藩主であった松平直克の正室恵姫の首腫瘍を切開手術した際には、貧血の気があった恵姫の安全を考え輸血の提案を行った。その当時西洋でも研究が始まったばかりであった人から人への輸血は、未だ危険の大きい物であった。研究の結果、正常に混合する血液と凝固反応を示す血液とがあることを発見。血液には四種類の型があることを突き止め、安全な輸血法を導き出した。結果として手術に輸血は行われなかったが、これがABO型血液輸血の基礎となった。

しかし、その直後、橘仁や蘭方医を快く思わない漢方医がペニシリンに対する悪評を流し、ペニシリンによって死人が出たとの流言飛語を流布した。この騒動を持って橘仁はまたも牢獄に入れられることとなったが、丁度幕府にフランスのナポレオン3世より書簡が届き橘仁をフランスの医学発展のために招きたいとの意が伝えられる、また横浜のヘボン医師などの弁護により橘仁は嫌疑が晴れることとなった。

慶応3年(1867年)11月15日(1867年12月10日)、坂本龍馬暗殺の際に居合わせ、手術で救命を試みたものの、短期間の延命にとどまるのみで手術は失敗に終わった。

その後、橘家の婿養子として咲と結婚し喜市を養子にする。

明治維新後も医学発展のため辣腕を振るった。老年になってからは後進育成のため尽力し、明治43年(1910年)9月22日に没した。

橘仁が創設した仁友堂病院は、現在も健在である。

業績[編集]

上述のように、当時の医療技術に対する革新的な提言や発見、技術の発達に寄与したが、現在においてその功績は殆ど知られていない。その主な原因は、橘仁のいささか変人的な人柄によるものである(詳細は後述)。

また幕末期において、従来の漢方医・蘭方医双方から敵視され、記憶喪失で出自が定かではない橘仁の後ろ盾となる者が存在せず、仁友堂が孤立を余儀なくされ事も原因である。また、幕末期から明治期の混乱と関東大震災太平洋戦争等の災害によって多くの情報や設備が失われたこと(因みに仁友堂は関東大震災で罹災し、1950年代まで一時廃業)とも大きく影響している。

また仁友堂においても、乳癌の研究で西洋学会より高く評価された佐分利祐輔や、伝統的東洋医学の近代化・近代医学のいち部門としての東洋内科の創設に尽力した福田玄孝の功績のほうが高く評価され、創始者たる橘仁は彼ら優秀な医師の後援者に過ぎないという評価が一般的であった。しかしながら病理学研究者としての評価はともかく、現場の医師としての外科手術の技術が極めて高かった事は広く認められており、橘仁が開発した手術器具の中には現代も使われているものが多い。特に急性硬膜下血腫などの脳内出血時における開頭手術の技法は、時代を超越したものであったと、現代の医学者からも賞賛される。とはいえそれは職人的医師としての評価であり、彼の死によりその優れた技術は断絶した。

西洋においても、ウィリアム・ウイリスジェームス・カーティス・ヘボンアントニウス・ボードウィンら、橘仁の医療技術を目の当たりにした医師たちが、帰国後に橘仁の医療技術を自らのものとして吹聴した事から、橘仁の功績が知られる事が無かった。またビタミンの発見についても、橘仁の助言による鈴木梅太郎による米ぬかからの抽出が世界最初であったにもかかわらず、1年遅れて抽出を行ったカジミール・フンクに栄誉を奪われる事となった。ABO式血液型の発見についても、日本において輸血がなかなか治療法として普及しなかったのに対し、西洋で先行して普及してしまったため、それに尽力したカール・ラントシュタイナーらの功績とされてしまった。

例外と言えるのがペニシリンの発見である。これは上記の通り、ナポレオン3世も認めた事から、西洋の医学界でも橘仁の功績は無視できなかった。しかしながらそのペニシリンの製造方法は、日本の醤油・味噌醸造法を応用していた事から、西洋の風土においてはなかなか根付かず、量産が極めて困難であり、庶民レベルにおいては全く知られる事が無かった。後にハワード・フローリーとエルンスト・ボリス・チェーンが、近代工業的な量産方法を確立し、彼らが自らの業績をアレクサンダー・フレミングの発案であると語ったため、現代においてはフレミングがペニシリンの発見者であるという間違った見解が、巷間に流布されている。

しかし近年、日本医史学会理事長・順天堂大学名誉教授である医史学者の酒井シヅにより、橘仁の功績を記す史料が発見・研究されることにより、医学界において橘仁の功績がが知れ渡る事となった。その際、橘家に養子となる前の仁の姓が、"南方"である事が明らかになった。後に漫画家村上もとかにより、橘仁の半生が漫画化・出版され、テレビドラマ化もされ、一般にも広く知られる事となった(もちろん、フィクションをまじえて描かれている)。

一方で、橘仁が世界最初と言われていた脳内出血時の開頭手術については、近年の研究によりインカ帝国において先行していた事実が判明している(もちろん両者の間につながりは無いが)。

人物[編集]

こと医療のことに関しては正に天才であったが、多くの天才にみられる変人的な部分を橘仁もまた持っていた。自らの出自に関して記憶喪失であると話していたが、近しい人物には「未来から来た。」と真剣に話していたと言う。また、多くの技術を発見出来た理由について尋ねられ「からのお告げがあった。」と答えたこともあった。少なくとも橘仁が「この医療技術は私の独創ではない」と常々語っていたのは、多くの関係者の証言がある。

殆どの人は天才特有の冗談だと思っていたが、多くの迷信深い人たちは「別の世界の住民が神隠しにあって、この世界に下ったのだ。」と固く信じていたという。さらに、信心深いクリスチャンの西洋の医師の中には真に受けて、本当に預言者の類であると考える人達も居たようである(もちろん、教会の正統の教義からすれば異端である)。

橘仁の変人ぶりはある意味徹底したものであり、西洋の医師・学者が、橘仁の発見を自分の手柄として吹聴しても決して怒らず、「元より自分の発見ではないのだから、誰が発見者となってもよい。」という鷹揚な立場を取っていた。ちなみに上述の通り、ペニシリンだけは橘仁の発見である事が西洋でも認められたが、これは共同研究者である山田純庵が、自分たちの手柄を強硬に主張したからでもある。

ただ、そのペニシリンについて橘仁は「これを発見したのは自分ではなく、アレクサンダー・フレミングという西洋の学者だ。」と語っていたという話が伝わる。上述の通りフレミングとは、ペニシリンの発見者であるという「間違った認識」が広まっている人物である。しかしフレミングが生年は1881年であり、橘仁がペニシリンを発見した時期より20年近くも後の事である。また「間違った認識」が広まったのも20世紀に入ってからの事であり、橘仁の死後の事であり、信憑性はかなり低い。

近年、仁友堂においては、橘仁の旧名と同姓同名の"南方仁"という脳外科医が在籍しており、橘仁の写真と外見が酷似している事が確認された。そのため、彼が幕末の江戸にタイムスリップして、"橘仁"として活躍したのではないか。その証拠に今現在は仁友堂に南方仁が在籍しておらず、既に江戸時代へと去っていったのではないかという都市伝説が、広く流布される事となった。ただし念のために断っておくなら、現在、南方仁は総合診療医に転じてアフリカ各国で医療に従事しており、仁友堂にも籍は残っている。

関連項目[編集]

Wikipedia
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華岡流の医師であったが、橘仁の医療技術に感銘を受け、仁友堂創設に加わる。華岡青洲から受け継いだ麻酔術に加え、乳癌の触診に天才的な才能を示し、数多くの婦女の命を救った。現代では「世界で最も多くの女性のおっぱいを揉んだ男」として、バラエティー番組などでお笑いネタになっているが、元来は生真面目な医師であった。
幕府の奥医師でありながら、橘仁の医療技術に感銘を受け、仁友堂創設に加わる。初期の仁友堂においては、出自不明の橘仁よりも、むしろ元・奥医師の福田の知名度と権威により、患者が集まったと言われる。明治維新後は漢方医学の近代化に大きく貢献し、近代医学としての東洋内科創設に貢献した。福田が橘仁に師事した背景には、医学館総裁・多紀安琢の先見の明による紹介があったとされる。
橘仁と共同でペニシリン研究を行い、後世、抗生物質の権威と称される。その熱心さは橘仁も舌を巻くほどで、親の葬儀すら放置して研究に没頭したという逸話が伝わる。しかしながら山田によるペニシリン製造は、彼の職人的なセンスに負う所が大であり、その後はフローリーとチェーンによる近代的なペニシリン製造法に取って代わられる事となる。
近年の酒井シヅらの研究により、橘仁の縁者である可能性が指摘された。