國母和宏

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「正装なんて飾りです。偉い人には それが わからんのですよ。」
國母和宏 について、リオ・マリーニ曹長

國母 和宏(こくぼ かずひろ、1988年8月16日 - )は、北海道石狩市出身のプロスノーボードライダーである。日本が世界に誇る紳士にして英雄(になる予定)。一見、ただのヤンキーにし か見えないが、ヤンキーではない(後述)。通称「反省の國母」「ミスター反省」「反省マン」。

人物[編集]

正装で日本を発つ國母
國母にあこがれる若者たち

國母選手自身はヤンキーではないが、とりわけヤンキーに人気があるスノーボードの振興に貢献しようと、4歳でスノーボードを始める。その後わずか11歳でプロ資格を取得、彼はこの時点で「ヤンキーはスポーツが苦手だからヤンキーに興味を持ってもらえれば」と言う動機で、不本意ながらもヤンキーを標榜するようになる。そして「ヤンキーは勉強が苦手だからエリートでは同調されない」と、本来東大を狙える学力があったにも関わらず、北海道の偏差値がそれほど高くない高校に進学、在学中にほかのヤンキーと同様、学業そっちのけでスノーボードとあれに励んだ結果、スイスで優勝、さらに東大(東○大学)に進学、無駄に十代で子供を作って出来ちゃった結婚するヤンキー受けするように学生結婚を果たすなど、ハーフパイプ以外でもヤンキーらしく活動を続けている。

発言の経緯[編集]

2010年2月9日バンクーバーへの出発時、ドレッド・ヘアーにサングラス、鼻ピアスに腰パン、ネクタイを緩める・・・・・・というヤンキーの盛装、もとい正装で臨んだ國母選手。「結果よりも内容。(滑りを見て)格好いいと思ってもらえればいい。最近のスノーボードは、すげぇダセえから」と国民の誰もがお手本とし、感涙すべき持論を展開した。

先述の様にこれも前回2006年のトリノオリンピックで、スノーボード日本代表の体たらく(全員が予選落ち)と、負けた腹いせに宿舎の壁を壊す、宿舎で大騒ぎをする、というスノーボード代表のほんの一部のヤンキーの選手に喝を入れるための発言であった。

この発言の本当の意図が解からない日本人は、再度日本語をよく勉強するべきである。一方、即座に意味が解かった日本人はしかるべき場所に行った方が良い。

しかし、この時の服装と態度に対し、ヤンキーではない、心無い国民から全日本スキー連盟(SAJ)に対し、多くの非難が浴びせられた。 SAJはこれを重視、選手村の入村式への自粛と謝罪会見を開く。この時にヤンキーではない記者団からの「(服装の乱れに対し)指摘された事はある程度納得して受け入れたという事か?」との問いかけに対し、國母選手は椅子に斜に構え、ガンを飛ばす様な眼つきという真摯な態度から、いかにも面倒臭そうに身体を起こして「反省してまーす。」と述べた。改めて書くまでもなくヤンキーを標榜する國母選手としては最大限の謝辞である。そして、この発言の前に小さく発せられたセリフが「ちっ、うっせーな」だったのである。

ちっ、うっせーなの本当の意味[編集]

ヤンキーではない、自称・常識人気取りのマスコミからは しばしば「ちっ、うるせーな」の意味だと誤解されてるが、実際には「ゃんと、まい(=強い)外国勢をぎつぎになぎ倒しせいか(成果)を出して、んとか金メダルを獲ります」の意味で、ヤンキー特有の短縮表現である。

発言後の世論[編集]

この時の態度を、おもしろおかしく報じられたヤンキーではない國母選手は、まるでヤンキーであるかの様な扱いを受けるばかりか“日本の恥”とまで貶(おとし)められた。それどころか、またまたヤンキーではない、心無い国民からの抗議の殺到によってアワ食ったSAJは、なんと国民的英雄である國母選手を競技に参加させることなく、帰国させる旨、団長の橋本聖子に打信したと伝えられた。

しかしそこは、さすがの聖子さん「競技をしないで帰国することは逆に無責任になる」と子供でも良く解かる、合理的かつ完全に明快な理由で英断を下した。

これで謝罪会見の謝罪会見、という長嶋茂雄も真っ青な会見を開いた國母選手は「ヤンキーとして振舞う事は頭の悪い国民の理解を得られない」と考えて心ならずも迎合、ヤンキーのふりを封印、万人受けする服装と態度で謝罪した。

國母選手が金メダルを獲り、ヤンキーではない国民の国民的英雄になる事は論を待たない。

結果は競技中に格好よく大コケし「結果よりも内容。」という自らの言葉を実践した。まさに国民的英雄、栄光なき英雄と呼ぶにふさわしい活躍を見せた。

バンクーバー五輪後[編集]

バンクーバー五輪後のスノーボードで最も歴史ある大会であるバートンUSオープンで優勝。 翌年も東日本大震災の直後であるにも関わらず優勝し、ショーン・ホワイトでさえ成し得ない2連覇を達成。 しかし2012年の同大会では決勝前の練習中にメロゥ720を披露し決勝での成績は振るわなかった。

その後は競技大会への参加よりも映像作品に積極的になり、平野歩夢ら新世代の育成に力を入れていた。 平野がソチ五輪で銀メダルを獲得した際には国民は手のひら返しマスゴミは『反省した国母の指導』と報道したが、 2013年にはXスポーツ世界最大の大会X GAMESで審判に向かって中指を立てる等、本人はさほどバンクーバーのことを気にしていない様子。

現在は競技から身を引いていて海外で雪山を滑降するエクストリームスポーツをやっている模様。

関連項目[編集]