坂上麻冩屡丸

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坂上 麻冩屡丸(さかのうえ おじゃるまる)は、平安時代中期の公卿。准三宮。官位は摂政関白太政大臣従一位。

坂上実丸(官位は従六位下)の長男で、母は坂上煤麿の娘、御代姫。父実丸は一夫多妻制の当時としては珍しく一夫一婦制をとっていたため、異母兄弟はおらず、また母御代姫は子に恵まれなかったため兄弟はいない。後一条天皇後朱雀天皇外祖父にあたる。

父の実丸は坂上氏の婿養子で、坂上氏は代々検非違使大尉が世襲していたので極位は従六位下と下級貴族であった。しかし父が暗殺された後(坂上実丸暗殺事件)、暗殺の首謀者である藤原氏に深く恨みを抱き密かに藤原氏滅亡を決意する。後に当時藤原氏を繁栄させた公卿最高権力者藤原道長を左大臣の座から引きずりおろし、政争の末、勝利をおさめ左大臣に任じられ政権を掌握した。

多岐にわたり藤原氏以外の人臣として初めて摂政の座に就いた。また坂上家は、家格は地家であったがおじゃる丸が公卿に列したことで、一条天皇の強い要望から堂上家に昇格、坂上家の礎を築き、おじゃる丸の子孫達は相次いで摂関となった。

また後継体制を固めるため亡くなる5年前に摂政を嫡子の文麿に譲り、また一条天皇に長女の琳子を入内させ皇后とし、三条天皇には次女明子を入れて中宮に、後一条天皇にも三女の滋子を入れて中宮となし、「一家立三后」と驚嘆された。

生涯[編集]

出生から青年期[編集]

康保3年(966年)、坂上実丸の長男として平安町に生まれる。 坂上氏は下級貴族で父、実丸は検非違使大尉である従六位下であった。

謎の小児期[編集]

おじゃる丸が6歳になったころ突如不思議な出来事がおきたと御堂関白記にしるされており、日記には「六つばかりなる頃、閻魔が露の湖に映りたる望月眺め給ひみそかにをかしきことなどせさせ給ひければ、うちまろび給へりて、水に入り給ひにければ、いとあやしきことなむありぬる。 訳:(おじゃる丸が)6歳の時、閻魔の涙の湖に映った満月を眺めなさって和歌などをなさっていたところ、転んでしまいなさって、(満月の映った)水に入っておしまいになると、とても不思議なことが起きた。」と閻魔の涙で不思議なことが起きたと示されるようなことが書かれている。またこの日記の後その体験した不思議な出来事を詳細に書かれた『御堂関白体験記』が最近になって見つかり、(しかし『御堂関白体験記』は、『御堂関白記』同様、意味不明な文章や、誤字・文法的誤りが多く、解釈が難しく当初から5年たってもいまだすべて解析されていない)『御堂関白体験記』によれば閻魔の涙から「後の世」というところにたどり着き、その後田村氏和馬という変わった格好をした人に助けられそこの一族に数年居候した記されている。 また、「暮らして三年、愛てふとひねもすみそかに逢ひ給ひて、又の年、乙女てふをひねもす見給ひけり。乙女北の方、御子をふたりばかり生し給ひけり。 訳:(未来で)暮らして三年、愛という女と一日中こっそり不義密通なさって、その翌年、乙女という女と一日中愛し合いなさった。正妻(となった)乙女は、お子を二人ほどお産みなさった。」と居候から三年後9歳にして二人の女性と生殖関係になり、子を授かるなど全体的に非現実的且つ意味不明な部分が多く、『御堂関白体験記』はおじゃる丸が御伽噺として作った者ではないかと推測する学者が多い。

その後いつ戻ったのかについては詳細不明だが『御堂関白記』には元服して従八位上に初叙したと記されていることからそのころには元の世界に戻っていたと考えられる。

坂上実丸暗殺事件[編集]

おじゃる丸が従八位上を初叙し、中解部に任ぜられて間もない天元4年(981年)9月23日の夜、父実丸が平安町の道中の移動中何者かによって矢で射られ、翌日卒去。おじゃる丸はこのこと聞きすぐ様暗殺犯として6人の庶民達を逮捕し、取り調べの末首謀者大伴家癒とその部下五名が捕縛され、斬首となった。おじゃる丸はこの事件を解決した功績がたたえられ、従八位上から一挙に従五位下に昇叙され、翌年の正月には、勲二等から六等までの乱の功賞があった中で、おじゃる丸は勲四等を与えられた。 事件は解決したと思われた数年後、おじゃる丸は偶然にも藤原氏がこの事件の首謀者であることを知り、以後藤原氏に強く恨みを抱き藤原氏滅亡させることを決意する。

関連項目[編集]